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この世界には、傘がない。
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――この窓を強く叩く雨のように、あなたの心を震わせるのは僕でありたかった。
『傘なき世界で生きる僕らは』
僕がこの世に生を受けた時、『傘』というものはその姿を消していた。
雨は空が流す涙であって、それを避けようなどというそもそもの志がけしからんと神様が怒ってしまったからだそうだ。
へそを曲げた神様は雨を降らすことを止めてしまい、困り果てた人間達は『傘』を捨てることと引き換えにもう一度生命の水を手に入れた――その物語にどれだけの信憑性があるかはわからないが、現に僕達の息衝くこの地では、『傘』というものは空想の世界にしか存在しない。
ひとたび雨に出遭えば、人々はただそれを受け容れ、目的地まで濡れて歩く。そのままだと風邪を引いてしまうので、主要な建物の入口には巨大ドライヤーが設置されており、あっという間に湿り気を吹き飛ばしてくれるという仕組みだ。
生まれた時からそれで不便を感じたことはないので、確かに『傘』というものは無用の長物だったのかも知れない。祖母から聞いた話だと、昔は化粧が崩れるので女性達は顔が濡れないように帽子をかぶっていたそうだが、今はメイク道具も完全ウォータープルーフとやらになったそうで、そういう問題もないらしい。
科学というやつは環境に適合するために進化していくものなのだろう、きっと。
――そして、今日も窓の外は雨の色で塗り潰されていた。
もう夏も半ばだ。この時期には突発的なスコールが降り注ぐ。小一時間、神様の言葉を借りれば、空はそれこそ滝のような涙を流した果てに、あぁすっきりしたと言わんばかりにからっと泣き止むのだ。
予定通り出かけてもいいのだが、特段急ぐ用事もない。僕は羽織ろうとしていた上着をハンガーにかけ直し、部屋の真ん中にある二人掛けのソファーに腰を落ち着けた。
――瞬間、ポケットに入れていたスマホが振動し、自分の存在を伝えてくる。
取り出して画面を見た僕は、心の中に生まれた驚きと、そして微かな苦みとどうしようもない歓びに、ひっそりと対峙する。
電話をかけてきた相手は雫さんというひとで――僕の片想いの相手だった。
***
「陽くん、お邪魔するね」
あの時、ドアの前に立っていた雫さんは、そう言って僕に柔らかく微笑みかけた。
そう、その日も僕らの街には雨が降っていた。それはスコールという程強い感情を伴ったものではなく、ひっそりと忍び寄るなにかの予兆を感じさせるような、弱く永い雨だった。
講義を終えての帰り道、雨に降られてしまったのだと彼女は言う。
大学から程近い場所にある僕の家は、こうやって同じ映画サークルに所属しているメンバー達に都合よく使われることが多い。
最早名ばかりの在籍者となっている僕にとっては迷惑この上ないが、その日ばかりはここに居を構えることにした自分を褒めてやりたかった。
雫さんはサークルの二つ上の先輩だ。
黒い髪と白い肌、そして笑った時にできるえくぼが印象的で、皆が楽しそうに盛り上がっている様子を少し離れた所から優しく眺めている――そんなひとだった。
新歓コンパと題された単なる飲み会の場で、席の片隅に座っていた彼女の存在は、僕の目には淡い光に包まれて見えた。
パステルブルーのブラウスからは華奢な腕が伸びていて、手首にはゴールドの細いブレスレットと、そして右手の薬指に同じ光を放つ指輪がはめられている。
「あれは彼氏持ちだな、きっと」
語学のクラスでたまたま隣に座っただけの歳上の同級生が、アルコールに塗れた下卑た声で僕に話しかけてくる。
その時、右手の薬指に指輪をすることの意味を僕は知り――そして、恋に落ちた瞬間に失恋したのだということも同時に理解した。
名も知らぬ男から彼女を奪い取る程の気概も、彼女との僅かな繋がりを断ち切る勇気もない僕が、ずるずると日々を過ごしていた矢先――いきなり雫さんが僕の家を訪れたのだ。
僕は可能な限り平静を装い、「どうぞ」と中に彼女を通した。
「ありがとう」と彼女は迷いのない足取りで進んで行き、部屋の真ん中にある二人掛けのソファーの前で立ち止まる。ちらりとこちらに視線を寄越した彼女に、僕は「よかったら、座っていてください」と促した。
「お茶くらい、出しますんで」
「――お気遣い、ありがとう」
そう微笑んで、雫さんはソファーに静かに腰を下ろす。
その動作はあくまで自然体で、異性の後輩の部屋の中にあっても崩れることはない。それがきっと恋人を持つひとの余裕なのだろうと、漠然と思った。
ティーバッグの紅茶を淹れながら、雫さんの様子を窺う。彼女は室内を見回したり、スマホを出したりするでもなく、ただじっとそこに居た。
雨に降られた時間はそこまで長くないのか、頭の後ろで一つに纏められた髪はふんわりとしたままで、黒いワンピースに残された幾つかの染みだけが、外の世界が雨に彩られていることを物語っている。
紅茶をテーブルに置いたところで、彼女の視線が僕の顔を捉えた。
「紅茶飲むんだ。おしゃれだね」
「妹がたまに遊びに来るので、置いてあるんです」
そう答えると、雫さんはその表情をまた柔らかい色に染める。
「――陽くん、優しいんだね」
その後は二人で紅茶を飲んで、雨が上がるのを待った。
口下手な僕は大して面白い話ができない。僕は自分が持っているDVDの中から、彼女が観たいものを選んでもらうことにした。結果、彼女が選んだ洋画作品は、僕のコレクション中、最長の上映時間を誇るものだった。
部屋の明かりを落とすと、窓の外に広がる雨の世界の方が明るくて、不思議な気持ちになる。僕達は激動の時代を生きる登場人物達を、こぢんまりとした都内の一室で、息を潜めて見守った。
僕にとってはお気に入りの作品だったはずなのに、今日は全く内容が頭に入ってこない。その原因である小さなソファーの隣に居る存在を盗み見ると、彼女は真剣な面持ちで画面を見つめている。
その横顔を見ながら、このまま雨が止まなければいいと、僕は割と本気で考えていた。
――その時、彼女の鞄から、スマホが鳴る音が響いた。
ふっと雫さんの張り詰めた意識が解れる。しかし、彼女は電話に出ようとしない。
「――出なくていいんですか?」
そう問うと、雫さんはゆっくりと僕の方に顔を向けた。
「うん、いいの。だって――まだ雨が、降っているから」
その顔は、観る者の居なくなった映像に照らされて、青く光っている。僕はそれ以上何も言わずに、雫さんの顔を眺めていた。
やがて外の雨音が止むと、雫さんはすっと立ち上がる。画面上では、登場人物達がクライマックスに挑もうと、決意の声を上げていた。
「まだ終わっていませんよ」
思わずそう言葉をかけると、雫さんは穏やかに微笑む。
「雨が止んだもの。それなのに私がここに居たら、陽くんに迷惑でしょう」
そんなことはないと言い返す前に、雫さんは来た時と同じく迷いのない足取りで玄関まで歩いていった。
去り際に振り返った彼女は、「――じゃあ、また、サークルで」と言い残して外に出て行く。
僕はそれに答えず、ただ彼女が出て行ったドアを見つめていた。
***
あれからもう二ヶ月程が経過している。
あの後、雫さんに逢いたいという下心で何度かサークルに顔を出したが、彼女の姿はなかった。その内、そんな自分が滑稽に思えて、自ずとサークルから足が遠退いていき、現在に至る。
――だから、雫さんから電話がかかってくるなんて、僕は夢にも思っていなかった。
逸る気持ちを抑えるように、僕はひとつ深呼吸をして、電話に出る。
「……はい」
『――陽くん、今、おうちに居る?』
くぐもったような声が僕の鼓膜を揺らした。間違いなく雫さんの声だ。見えるわけもないのに、僕は一人頷きながら、もう一度「はい」と答える。
――すると、雫さんは小さく笑った後に、こう言った。
『――ねぇ、窓の外、見て』
――窓?
僕は立ち上がり、窓際に近付く。
そして――思わず目を疑った。
そこには、一人雨に打たれる雫さんが立っていた。
その出で立ちは、雨が降ることなど全く想定していないもので――晴れた夏の太陽の下では映えるであろう純白のワンピースは、今やびしょ濡れでその細い肢体に張り付いている。黒い布で包まれた棒状のものを右手に持ち、路上に佇む彼女の姿は、僕には消え去ってしまいそうな蜃気楼のように思えた。
しかし、水分を含んで白く透き通った生地の下から、薄らと浮かび上がる黒いキャミソールの色が、僕の思考回路を灼き、現実へと引き戻す。
「――雫さん!」
僕は手元の上着を掴んで、反射的に窓から飛び出し、そのまま雫さんに駆け寄って上着を羽織らせた。
彼女はなされるがまま、僕に身を任せている。
――しかし、手を取って部屋に連れて行こうとしたところで、思わぬ彼女の抵抗に遭った。雫さんがその場を動こうとしないのだ。
「雫さん、どうして――」
思わず彼女の顔を見ると、そこには僕を魅了した穏やかな笑みが浮かんでいた。雨は弱まる気配を見せずに降り続いていて、彼女の頬に幾つもの雫の筋を作っている。
しかし、それは決して涙などではなく――まるで強く輝く星が流れた痕跡のようで。何も言えないでいる僕に、雫さんがにっこりと笑いかけた。
「陽くん、来てくれてありがとう――お礼にいいもの見せてあげる」
そう言うと、彼女は手に持っていたものから布を取り払い、それを空に掲げる。
――ぱぁん、と弾けるような音がしたその瞬間、僕と雫さんの世界から雨が消えた。
何が起こったかわからずに、僕は視線を彼女の顔から頭上に向ける。
――そこには、色とりどりの花が咲いていた。
「綺麗でしょう、これ。アンティークショップで見付けたの」
言葉を喪う僕に、雫さんは嬉しそうに囁く。
『その存在』を知っているはずなのに、僕は『その名』を紡ぐことができない。
そんな僕の心を見透かすように、彼女は笑顔のまま口を開いた。
「ねぇ、これが『傘』。実物を見るのは初めて?」
――それは、神に背くということ。
ごくりと喉が鳴る。そんな僕の様子を知ってか知らずか、雫さんは変わらぬ表情で「知ってる?」と言葉を継いだ。
「二人で一本の傘に入るのを、『相合い傘』っていうの。思った以上に近くて、ドキドキするね」
雨音が僕達以外の存在を遮断する。
この世界には、雫さんと僕の二人きりだと――そんな錯覚を覚えて、僕の目は眩んだ。
ふと彼女の手元に視線が向かう。『傘』の持ち手を握る彼女の右腕には――変わらず金色の光が二つ瞬いていた。
「――ねぇ、陽くん」
雫さんが僕に顔を近付ける。先程まで雨に濡れていたその口唇が、艶めかしく動いて僕を誘った。
「きみは、神様が怖いの?」
雨が強く『傘』を叩く。
何度も、何度も、何度も。
それはまるで――僕の心を激しく震わせるように。
「――まさか」
僕はそう言って、小さく笑った。
『傘』を握る雫さんの手を両手で包み込んで、光を閉じ込める。
これは、神をも畏れぬ所業だろうか。
間近で僕を見上げる雫さんの瞳に吸い寄せられるように、僕はゆっくりと顔を近付けた。
(了)
『傘なき世界で生きる僕らは』
僕がこの世に生を受けた時、『傘』というものはその姿を消していた。
雨は空が流す涙であって、それを避けようなどというそもそもの志がけしからんと神様が怒ってしまったからだそうだ。
へそを曲げた神様は雨を降らすことを止めてしまい、困り果てた人間達は『傘』を捨てることと引き換えにもう一度生命の水を手に入れた――その物語にどれだけの信憑性があるかはわからないが、現に僕達の息衝くこの地では、『傘』というものは空想の世界にしか存在しない。
ひとたび雨に出遭えば、人々はただそれを受け容れ、目的地まで濡れて歩く。そのままだと風邪を引いてしまうので、主要な建物の入口には巨大ドライヤーが設置されており、あっという間に湿り気を吹き飛ばしてくれるという仕組みだ。
生まれた時からそれで不便を感じたことはないので、確かに『傘』というものは無用の長物だったのかも知れない。祖母から聞いた話だと、昔は化粧が崩れるので女性達は顔が濡れないように帽子をかぶっていたそうだが、今はメイク道具も完全ウォータープルーフとやらになったそうで、そういう問題もないらしい。
科学というやつは環境に適合するために進化していくものなのだろう、きっと。
――そして、今日も窓の外は雨の色で塗り潰されていた。
もう夏も半ばだ。この時期には突発的なスコールが降り注ぐ。小一時間、神様の言葉を借りれば、空はそれこそ滝のような涙を流した果てに、あぁすっきりしたと言わんばかりにからっと泣き止むのだ。
予定通り出かけてもいいのだが、特段急ぐ用事もない。僕は羽織ろうとしていた上着をハンガーにかけ直し、部屋の真ん中にある二人掛けのソファーに腰を落ち着けた。
――瞬間、ポケットに入れていたスマホが振動し、自分の存在を伝えてくる。
取り出して画面を見た僕は、心の中に生まれた驚きと、そして微かな苦みとどうしようもない歓びに、ひっそりと対峙する。
電話をかけてきた相手は雫さんというひとで――僕の片想いの相手だった。
***
「陽くん、お邪魔するね」
あの時、ドアの前に立っていた雫さんは、そう言って僕に柔らかく微笑みかけた。
そう、その日も僕らの街には雨が降っていた。それはスコールという程強い感情を伴ったものではなく、ひっそりと忍び寄るなにかの予兆を感じさせるような、弱く永い雨だった。
講義を終えての帰り道、雨に降られてしまったのだと彼女は言う。
大学から程近い場所にある僕の家は、こうやって同じ映画サークルに所属しているメンバー達に都合よく使われることが多い。
最早名ばかりの在籍者となっている僕にとっては迷惑この上ないが、その日ばかりはここに居を構えることにした自分を褒めてやりたかった。
雫さんはサークルの二つ上の先輩だ。
黒い髪と白い肌、そして笑った時にできるえくぼが印象的で、皆が楽しそうに盛り上がっている様子を少し離れた所から優しく眺めている――そんなひとだった。
新歓コンパと題された単なる飲み会の場で、席の片隅に座っていた彼女の存在は、僕の目には淡い光に包まれて見えた。
パステルブルーのブラウスからは華奢な腕が伸びていて、手首にはゴールドの細いブレスレットと、そして右手の薬指に同じ光を放つ指輪がはめられている。
「あれは彼氏持ちだな、きっと」
語学のクラスでたまたま隣に座っただけの歳上の同級生が、アルコールに塗れた下卑た声で僕に話しかけてくる。
その時、右手の薬指に指輪をすることの意味を僕は知り――そして、恋に落ちた瞬間に失恋したのだということも同時に理解した。
名も知らぬ男から彼女を奪い取る程の気概も、彼女との僅かな繋がりを断ち切る勇気もない僕が、ずるずると日々を過ごしていた矢先――いきなり雫さんが僕の家を訪れたのだ。
僕は可能な限り平静を装い、「どうぞ」と中に彼女を通した。
「ありがとう」と彼女は迷いのない足取りで進んで行き、部屋の真ん中にある二人掛けのソファーの前で立ち止まる。ちらりとこちらに視線を寄越した彼女に、僕は「よかったら、座っていてください」と促した。
「お茶くらい、出しますんで」
「――お気遣い、ありがとう」
そう微笑んで、雫さんはソファーに静かに腰を下ろす。
その動作はあくまで自然体で、異性の後輩の部屋の中にあっても崩れることはない。それがきっと恋人を持つひとの余裕なのだろうと、漠然と思った。
ティーバッグの紅茶を淹れながら、雫さんの様子を窺う。彼女は室内を見回したり、スマホを出したりするでもなく、ただじっとそこに居た。
雨に降られた時間はそこまで長くないのか、頭の後ろで一つに纏められた髪はふんわりとしたままで、黒いワンピースに残された幾つかの染みだけが、外の世界が雨に彩られていることを物語っている。
紅茶をテーブルに置いたところで、彼女の視線が僕の顔を捉えた。
「紅茶飲むんだ。おしゃれだね」
「妹がたまに遊びに来るので、置いてあるんです」
そう答えると、雫さんはその表情をまた柔らかい色に染める。
「――陽くん、優しいんだね」
その後は二人で紅茶を飲んで、雨が上がるのを待った。
口下手な僕は大して面白い話ができない。僕は自分が持っているDVDの中から、彼女が観たいものを選んでもらうことにした。結果、彼女が選んだ洋画作品は、僕のコレクション中、最長の上映時間を誇るものだった。
部屋の明かりを落とすと、窓の外に広がる雨の世界の方が明るくて、不思議な気持ちになる。僕達は激動の時代を生きる登場人物達を、こぢんまりとした都内の一室で、息を潜めて見守った。
僕にとってはお気に入りの作品だったはずなのに、今日は全く内容が頭に入ってこない。その原因である小さなソファーの隣に居る存在を盗み見ると、彼女は真剣な面持ちで画面を見つめている。
その横顔を見ながら、このまま雨が止まなければいいと、僕は割と本気で考えていた。
――その時、彼女の鞄から、スマホが鳴る音が響いた。
ふっと雫さんの張り詰めた意識が解れる。しかし、彼女は電話に出ようとしない。
「――出なくていいんですか?」
そう問うと、雫さんはゆっくりと僕の方に顔を向けた。
「うん、いいの。だって――まだ雨が、降っているから」
その顔は、観る者の居なくなった映像に照らされて、青く光っている。僕はそれ以上何も言わずに、雫さんの顔を眺めていた。
やがて外の雨音が止むと、雫さんはすっと立ち上がる。画面上では、登場人物達がクライマックスに挑もうと、決意の声を上げていた。
「まだ終わっていませんよ」
思わずそう言葉をかけると、雫さんは穏やかに微笑む。
「雨が止んだもの。それなのに私がここに居たら、陽くんに迷惑でしょう」
そんなことはないと言い返す前に、雫さんは来た時と同じく迷いのない足取りで玄関まで歩いていった。
去り際に振り返った彼女は、「――じゃあ、また、サークルで」と言い残して外に出て行く。
僕はそれに答えず、ただ彼女が出て行ったドアを見つめていた。
***
あれからもう二ヶ月程が経過している。
あの後、雫さんに逢いたいという下心で何度かサークルに顔を出したが、彼女の姿はなかった。その内、そんな自分が滑稽に思えて、自ずとサークルから足が遠退いていき、現在に至る。
――だから、雫さんから電話がかかってくるなんて、僕は夢にも思っていなかった。
逸る気持ちを抑えるように、僕はひとつ深呼吸をして、電話に出る。
「……はい」
『――陽くん、今、おうちに居る?』
くぐもったような声が僕の鼓膜を揺らした。間違いなく雫さんの声だ。見えるわけもないのに、僕は一人頷きながら、もう一度「はい」と答える。
――すると、雫さんは小さく笑った後に、こう言った。
『――ねぇ、窓の外、見て』
――窓?
僕は立ち上がり、窓際に近付く。
そして――思わず目を疑った。
そこには、一人雨に打たれる雫さんが立っていた。
その出で立ちは、雨が降ることなど全く想定していないもので――晴れた夏の太陽の下では映えるであろう純白のワンピースは、今やびしょ濡れでその細い肢体に張り付いている。黒い布で包まれた棒状のものを右手に持ち、路上に佇む彼女の姿は、僕には消え去ってしまいそうな蜃気楼のように思えた。
しかし、水分を含んで白く透き通った生地の下から、薄らと浮かび上がる黒いキャミソールの色が、僕の思考回路を灼き、現実へと引き戻す。
「――雫さん!」
僕は手元の上着を掴んで、反射的に窓から飛び出し、そのまま雫さんに駆け寄って上着を羽織らせた。
彼女はなされるがまま、僕に身を任せている。
――しかし、手を取って部屋に連れて行こうとしたところで、思わぬ彼女の抵抗に遭った。雫さんがその場を動こうとしないのだ。
「雫さん、どうして――」
思わず彼女の顔を見ると、そこには僕を魅了した穏やかな笑みが浮かんでいた。雨は弱まる気配を見せずに降り続いていて、彼女の頬に幾つもの雫の筋を作っている。
しかし、それは決して涙などではなく――まるで強く輝く星が流れた痕跡のようで。何も言えないでいる僕に、雫さんがにっこりと笑いかけた。
「陽くん、来てくれてありがとう――お礼にいいもの見せてあげる」
そう言うと、彼女は手に持っていたものから布を取り払い、それを空に掲げる。
――ぱぁん、と弾けるような音がしたその瞬間、僕と雫さんの世界から雨が消えた。
何が起こったかわからずに、僕は視線を彼女の顔から頭上に向ける。
――そこには、色とりどりの花が咲いていた。
「綺麗でしょう、これ。アンティークショップで見付けたの」
言葉を喪う僕に、雫さんは嬉しそうに囁く。
『その存在』を知っているはずなのに、僕は『その名』を紡ぐことができない。
そんな僕の心を見透かすように、彼女は笑顔のまま口を開いた。
「ねぇ、これが『傘』。実物を見るのは初めて?」
――それは、神に背くということ。
ごくりと喉が鳴る。そんな僕の様子を知ってか知らずか、雫さんは変わらぬ表情で「知ってる?」と言葉を継いだ。
「二人で一本の傘に入るのを、『相合い傘』っていうの。思った以上に近くて、ドキドキするね」
雨音が僕達以外の存在を遮断する。
この世界には、雫さんと僕の二人きりだと――そんな錯覚を覚えて、僕の目は眩んだ。
ふと彼女の手元に視線が向かう。『傘』の持ち手を握る彼女の右腕には――変わらず金色の光が二つ瞬いていた。
「――ねぇ、陽くん」
雫さんが僕に顔を近付ける。先程まで雨に濡れていたその口唇が、艶めかしく動いて僕を誘った。
「きみは、神様が怖いの?」
雨が強く『傘』を叩く。
何度も、何度も、何度も。
それはまるで――僕の心を激しく震わせるように。
「――まさか」
僕はそう言って、小さく笑った。
『傘』を握る雫さんの手を両手で包み込んで、光を閉じ込める。
これは、神をも畏れぬ所業だろうか。
間近で僕を見上げる雫さんの瞳に吸い寄せられるように、僕はゆっくりと顔を近付けた。
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