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第五章

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「やぁ、ディアス嬢、今晩夕食を誘ってもいいかな?」

 ここ最近、毎日のように食事に誘われる事に、ディアスは辟易していた。

「生憎と忙しいので」

 素気なく断るディアスに、それでも食い下がり”夜”の逢瀬の約束を取り付けようとする。茶色の髪の青年達。
 ここで勤めだした当初は多かったそれも、いまではすっかり無くなっていたのに、最近またディアスを誘う手合いが増えてきていた。ディアスは忌々しい気持ちを、顔に出さぬようにしながら顔をそらす。

「今夜、中央通りにある『エイモ・イヴォル』に予約をしてあるんだ。君が来るまで、待っているよ」
 貴族御用達の有名なレストランの名を口にして去る男の背は見送らず、ディアスは踵を返した。

   ◇◆◇

「――そうか。で、参考までに、その身の程を知らぬ男の名を教えてもらえるか?」

 執務机に片肘を突いて書類に目を通しながら、書類仕事の補佐をしているディアスの話を聞いていたグレイドは、眼鏡を指先で押し上げながら、口の端に酷薄な笑みを浮かべる。

 名を聞いてどうするのやらと思いながら、ディアスは肩をすくめる。

 グレイドの補佐役を離れようとしていたディアスだったが、結局以前と同じように、午前中はこの執務室へ通っていた。

「今回は下級官吏ってことしかわからないわ。さすがに文官の名前を全部なんて覚えていないし、向こうも名乗らなかったもの」
「魔術師ではなかったのか」

 ディアスは確認の終わった書類をまとめて立ち上がると、それを持ってグレイドの机の前に移動する。

「ここに勤めている魔術師なら、全員覚えているもの。どうします? 私が一度、お誘いにのってみます? そうすれば、相手の狙いもわかるでしょう?」

 とはいえ、ディアスには既に狙いなどわかっている。粉をかけてくるのが王と同じ色味の男ばかりなど、わかりやすいにも程があるというものだ。

 例の乱交ばなしに、色を付けたいのだろう。
 ディアスのあっけらかんとした提案に、グレイドは書類から憮然とした顔をあげる。

「その提案は却下だ」
「あら、そう? 罠だとしても、わかってさえいれば、なんとかなると思うのですけれど」

 確認の終わった書類をグレイドの机にある箱に入れようとしていたディアスの手を、大きな手が掴む。

「君にすこしでも危険があるようなことを、させるわけにはいかない」

 立ち上がったグレイドが、身を乗り出して机越しにディアスの唇にキスを落とそうとするが、一瞬早くディアスの指先に唇を押さえられる。

「仕事中です」

 恥ずかしそうに少しだけ頬を染めて身を引くディアスに、グレイドは諦めて彼女の手を離し、椅子に戻る。

「それにしても。どこから、ご懐妊のことが漏れたんだ。まだ、あの夜会からひと月と経っていないのに」

 懐妊が公表されるのは、慣例に則ってふた月後と決定している。それまで、関係者には箝口令が敷かれているはずだった。

「子を授かれば、色々体調にも変化がありますし。もしかしたら、そういうことで察した者がいるのかも知れないわね」
「だとしてもだ、それを察しても口に乗せぬのが、王宮に勤める者のつとめだろう」

 グレイドの言うことはもっともだが、口には戸が立てられないともいう。
 とはいえ、大事な時期に王や王妃を煩わせる噂などあってはならず。グレイドは先日、宰相が噂の出所を探ると言っていたことを思い出す。

 どんな手を使うのかはわからないが、そうかからずに噂の元は……なにがしかの報いを受けることになるだろう。そうでなければならない。

 眉間にしわを寄せ険しい顔で何事か考え込んでいるグレイドの真剣な表情に、ディアスは胸がときめくのを感じる、彼をかっこいいと思ってしまう自分の心に胸が温かくなる。

 いままではそんなふうに恋い慕う心にブレーキを掛けていたものを、解放することで幸福を得ることを知ってしまった。

 ディアスの視線に気づいたグレイドが顔をあげ、彼女のなんとも言えず柔らかな微笑みに気づき、険しくしていた表情を緩めると、彼女を自分の方へと手招きする。

「なにか?」

 素直に机を回り彼の横に立ったディアスが小首をかしげると、グレイドは彼女の手を引き、腰を抱いて自らの膝の上に乗せた。

 仕事中だと怒ろうとするディアスの唇を素早くふさぎ、ねっとりと甘い口づけを与える。たくましい腕のなかで逃れることもできずに、ディアスは目を閉じてそれを受け入れた。

 ひとしきり深い口づけを堪能したグレイドを、解放されたディアスは涙目で睨むが、グレイドは余裕の表情で彼女の濡れた唇に触れるだけの口づけを数度落とす。

「グ、グレイド師長……っ!」
「責任は取る。ティア――」

 欲望を煽られ熱をもつ体に手を這わせようとしたグレイドを、ディアスは渾身の力で撥ね除け、彼の膝から転がるように降りると、毅然とにらみつけた。

「最低です」

「ティ――「公私混同も甚だしい! そのような方を、好いたわけではありませんっ!」」
 ディアスは怒りに柳眉を逆立て、あっけにとられるグレイドを尻目に執務室を足音も荒々しく退出した。



 怒りにまかせて飛び出して、しばらく歩いてからディアスの足取りはトボトボとなりやがて止まった。

 彼の手が嫌いなわけではなかった、触れられて嬉しくないはずがない。ただ、時と場合というものを無視できない性分なだけで。

 自分の行動を思い返し、女としてかわいくないかもしれないと思い至り、やっぱり言い過ぎたかもしれないから謝った方がいいだろうか、謝ろうと決心して踵を返そうとしたとき。

「ディアス様」

 軽やかな声に親しげに呼び止められて振り向けば、いつか自分を罵った事務官のパティシラがにこにこと立っていた。彼女が目の上のこぶである自分に対して親しくする理由が思いつかず、ディアスは警戒しながらも儀礼的に笑みを返す。

「あら、パティシラさん。私になにか御用でも?」
「ふふっ、一言、お祝いを言いたくて」
 そう前置きしたパティシラは、膝を曲げた美しい礼をディアスに向けた。

「この度は、男爵位の叙爵、誠におめでとうございます。ディアス様のこれからの発展を、御祈念申し上げます」

「……ご丁寧にありがとうございます」
 箝口令が敷かれているわけではないが、こうして祝辞を言われる理由がわからず戸惑いながらも礼を返せば、にっこりと微笑まれて強引に手が引かれる。

「以前は大変失礼なことをいたしました。わたくし、とても反省したんですわ、どうか仲直りのしるしとして、お茶をご一緒していただけませんこと?」
 伺いの形で聞いてはきているものの、既に決定事項なのだろう、彼女は迷わずにまだ返事をしていないディアスの手を引いてゆく。

 彼女の意図が読めずに戸惑ったものの、お茶を共にすればその理由がわかるかも知れないと、ディアスはパティシラに続いて歩いた。

 彼女が自分よりも小柄で非力な女性であること、場所も庁舎内であるから滅多なことなど無いと思っていた。



 それが間違いだと、それからすぐに思い知らされる。
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