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第42話 たとえ全てをなげうってでも

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「奥様、乗馬が上手ですね。普段から乗られているのですか」

 おそらく表情が硬い私の緊張を解こうとしてくれているのだろう。テオフィル様が馬上から話しかけてくれる。

「いえ。数年ぶりです。あ、いえ。結婚してから久々に一度だけ乗りました」

 素直に答えると、彼とボルドーさんは顔を引きつらせた。
 どうやら私の方がむしろ彼らに緊張感を与えてしまったようだったが、言葉はもう取り戻すことができない。

「ええと。結婚されたのは……最近ではありませんでしたか」
「そうです」
「つ、つまりほぼ数年ぶりの乗馬となるわけでしょうか」

 テオフィル様はますます顔を強張らせていく。

「ええ。ですが大丈夫です。勘は完全に取り戻しておりますし、ラウラは優秀な子。先導してくださればきちんとついていってくれます。どうよろしくお願いいたします」
「……はい。確かにその旨を了解いたしました」

 自信ありげに答えてみせたが、彼を安心させるものにはならなかったようだ。引きつった笑顔でそう言ったきり、口を閉ざして馬を走らせた。


 ラウラは私の言葉をまるでしっかりと理解してくれていたように、拙い私の乗馬をうまく補助してくれ、無事にセントナ港まで到着することができた。
 つい最近来た時は昼間で明るく、人々の往来が激しくて活気があったのに、今や港はほとんどが眠りについて静まり返っている。太陽の光で青く澄んできらめいていた美しい海も、闇夜を照らしてくれるはずの満ちた月明かりが人を飲み込もうとする黒く蠢く魔物へと変貌させていた。

「ご案内いたします」

 アレクシス様は、唯一明かりが煌々と保たれている港の関所と隣接する保安部隊駐留施設にいるそうだ。私たちは外で警備中の方に馬を預けると中に入る。

「既に密輸犯一味は全て捕らえ、危険物も回収しておりますので、ご安心ください」
「はい」

 初めてこのような場所にやって来たが、石造りの頑丈そうな建物だった。温もりのない石造りがそう思わせるのかもしれない。昼間でも陽が入らなさそうな陰鬱とした寒々しさを感じる。当然ながら愛想も素っ気も色気もない内装だ。
 アレクシス様が常駐する国境沿いに立てられた要塞の内部もこのようなものなのだろうか。

 足早に歩いていてもまだこの時は、私には周りを観察できるぐらい心に余裕もあり、アレクシス様のことだからときっと大丈夫だと楽観視していた部分があったのは否定できない。
 しかしテオフィル様の足が止まり、こちらですと扉が開放された時、その考えは間違いだったと瞬時に悟ることになる。

 入り口近くからでもアレクシス様の生気の感じられない姿を捉えることができた。
 ベッドに寝かされた彼の目は閉ざされ、呼吸は浅く、顔は土気色だ。顔には血の気がないのに、それでいて右腕と胸元から腹部にかけて服は赤色に染め上げられている。

 死神などではない。アレクシス様は人間だ。体が傷つけば血も流れる普通の人間。
 そんな当然のことを痛感させられる。

 夕方まで話していたのに。ほんの少し前まで笑って話していたというのに。明日戻るとアレクシス様は言ったのに。いつもと変わらぬ明日がやって来ると思っていたのに。

「旦那様!」

 ボルドーさんの聞いたこともない叫び声にはっと我に返ると、私も震える足を進めようとしたが上手くいかない。テオフィル様に支えられながらアレクシス様の元まで行く。

「司令官の奥様と侍従長様です。医師も手配していただきました」
「ああ。そうでしたか。私はディオン・マクレインと申します。この度は司令官たる者の命を危機にさらしてしまったことを誠に申し訳なく、心よりお詫び申し上げます」

 テオフィル様が私の紹介をしてくれると、アレクシス様の側に立っていた男性が自己紹介をしてくれた。彼もまた巻き込まれた一人なのだろう。頬に手当ての跡がある。

「妻のブランシェと申します。アレクシス様のご容体はいかがでしょう」
「医師はいつ到着しますか」

 硬い表情をした彼は私の質問に質問で返した。

「もう間もなく! 間もなく来るはずです!」
「間もなく」

 ボルドーさんが私の代わりに答えたが、焦燥を隠さずひどく苦い表情を浮かべるディオン様に私は尋ねずにはいられなかった。

「じょ、状態は悪いのですか」
「何度も呼吸が止まりかけました。今はかろうじて一筋の命を繋いでいるぐらいです。ここにいる医者ではこれ以上は手の施しようがないと。この状態では動かすことも敵わない。そちらに手配してもらった医師の到着が遅れるほどにお覚悟を決めていただかないといけないことになります」
「覚、悟」

 お医者様でも投げ出した状態。
 私ごときに何かできるだろうか。魔術をまともに扱えない私に。
 いや。私はアレクシス様を守るためにここに来た。たとえ私の全てをなげうってでも助けてみせ――っ。

 ……ああ。そうか。
 ブランシェもこんな気持ちだったのかもしれない。この人のためならばこれまでの自分の人生を全てなげうってもいい。衣食住が約束された人生全てを捨てても、険しい道のりだったとしても、自分が選んだ道を彼と一緒に歩みたい。そう思ったのかもしれない。

「分かりました。――テオフィル様、ありがとうございました。もう大丈夫です」

 振り返った私はテオフィル様の支えてくれる腕から抜けだして自分の足でしっかり地を踏みしめると、アレクシス様のすぐ側まで近付いて彼の体に手を当てた。
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