30 / 49
第30話 私の名を呼んで
しおりを挟む
就寝は別だったが、それからもアレクシス様は甲斐甲斐しく私の世話をしてくれた。最初の一日、二日がつらいだけだったのに、出迎える私を抱きかかえて部屋に戻り、朝は朝でアレクシス様が穢れるのではないかと怯む私にも構わず額に口づけを落として出ていく。
お疲れの中、甘え過ぎで恐縮していたが、それでも足りない夜の分を補ってくれているようで嬉しかった。
そしてようやく月役が明け、ちょうど次の日にアレクシス様がお休みを取れるという日になった時のことだ。
夕食時に告げられたが、体調がいいのなら明日、町に連れて行ってくれるとのことだった。毎日私を抱きかかえてもらって負担を強いているのに、せっかくのお休みまで私に付き合ってもらうのも申し訳がなくて遠慮したが、自分自身がそうしたいのだと言ってくれた。
だから早く明日が来てほしいと思う。
一方で長い夜が続き、朝が来なければという気持ちもある。それは久々にアレクシス様が私の横で眠る時間だから。
「それではアレクシス様、お休みなさいませ」
「ああ。お休み」
就寝時は相変わらず、一定の距離を保たれたまま互いにそれ以上近づくことはない。それは私のわがままであり、アレクシス様のご厚意である。この距離はブランシェではない限り、縮まることがないのだと思うと胸が切り裂かれるように痛む。
すっかり体調を取り戻した今、明日以降はアレクシス様の腕の中ではなく、地に足をしっかりとつけることになるだろう。
抱き上げてくれている時に感じたアレクシス様の力強さも温もりも既に消えて、もう私の中には残っていないのがひどく悲しかった。
今朝はライカさんに起こされるよりも前に目が覚めた。
アレクシス様はいつものごとく私が目覚めるよりも先にベッドから出ているだろうと思われた。
が。
本日は何と隣に人の気配がある。
残念ながらこちらには背を向けていて顔は見えないが、アレクシス様だろう。いや、アレクシス様ではなかったら由々しき事態だが。
私はアレクシス様を起こさぬように、そっと身を起こした。
いつも私の寝姿を見られていると思うが、今日は私が彼の寝姿が見られる。どんな顔で眠っているのだろう。
まだ起きないでと思いながらドキドキしつつ、顔を覗き込もうとした時。
ぐるりと景色が回って気付けばアレクシス様に組み敷かれていた。
私の手首を強くつかんだ彼は私を射抜くような鋭い瞳で見下ろす。それはもしかしたら戦いに身を投じてきた者の条件反射なのかもしれない。
驚きで目を見張ったが、次の瞬間にはアレクシス様は我に返ったように視線の強さを緩めて私から手を離した。
「す、すまない。ブランシェ。寝ぼけていた」
謝罪の言葉を口にするアレクシス様に、どくどくと激しく鼓動が打っている。
私の手首を握りしめた力の強さも、私の心まで貫き通すような熱を帯びた苛烈な瞳も震えるほどに……恋しい。そう。この気持ちは恋しいというものなのだろうと認識した。
「ブランシェ。怖がらせてすまない。大丈夫か」
言葉を返さずただ見つめ続ける私に、アレクシス様は先ほどの瞳とは違ってまるで迷子になった子供のように困惑に揺れる瞳になると、私の頬にそっと手を触れる。
「……はい。大丈夫です」
アレクシス様の熱を再び感じ、私がようやく返事すると彼はほっと表情を和らげた。
「そうか。悪かった」
「いいえ。わたくしの方こそ驚かせてしまい、申し訳ありません」
「いや」
そう言うと私の頬から手を離そうとするので、消えゆく熱を追いかけるようにとっさに彼の手を取る。
「ブランシェ?」
私は何も答えずそのまま目を伏せて彼の手に顔を寄せた。
彼の熱と戸惑いが伝わってくる。
「温かい。アレクシス様の手」
「ブ、ランシェ」
アレクシス様は言葉を詰まらせながら私に呼びかける。
目を開けると、彼の瞳は先ほどの相手を焼き尽くすような瞳ではなくて、自分の身を焦がすような熱を帯びていた。
「アレクシス様」
「っ。ブラン――」
私の呼びかけに応えるように、アレクシス様が名を告げようとしたところで。
「おはようございます奥様、朝です――よっ!?」
扉が開き、元気なライカさんの声が聞こえた。そのまま部屋に入ってくるかと思われたが、彼女は状況に気付いたようだ。
「た、大変失礼いたしましたぁっ!」
大声で謝罪して扉が跳ねるのではと思うくらい音を立てて勢いよく閉めた。
その様子を半ば呆然として二人で見守っていたが、アレクシス様が私に視線を戻すと、少し自嘲するように笑う。
「勘違いされたな」
「夫婦ですから良いのではないですか」
私はいまだに取るアレクシス様の手を震えるように握りしめると、彼は目を見開いた。
「だが……そろそろ起きないとな」
そう言って私の頬から手を離したが、彼の手をつかむ私の手を振りほどくことはしない。
「本日はお休みです。まだ良いのではないでしょうか」
「今日は君と町に行く予定をしている」
「アレクシス様とご一緒に過ごせるのならばどこでも嬉しいです」
アレクシス様が正論を述べて私が反論を繰り返す。
「この場所でも?」
「はい。この場所でも」
低くかすれる声からも熱を感じられて、私の胸を熱くさせる。
「今近づけば君を離せなくなるが」
「離さないでください」
「朝食は」
「我慢します」
アレクシス様はそこでふっと笑みをこぼした。
「そうか。では君をこの腕に抱きたい」
「はい。わたくしもアレクシス様の腕に抱かれたいです」
「君を……愛している」
美しい琥珀色の瞳で私を見つめる。
その瞳に映っている相手は――。
「はい。わたくしもお慕いしております。アレクシス様をお慕いしております」
君ではなく名前を呼んで。
私の名を。
「ブランシェ、愛している」
アレクシス様は私の想いに応えたように残酷な答えで返すと熱い唇を私の唇に重ねた。
名前を呼んで。
私の名を。
――アンジェリカと。
お疲れの中、甘え過ぎで恐縮していたが、それでも足りない夜の分を補ってくれているようで嬉しかった。
そしてようやく月役が明け、ちょうど次の日にアレクシス様がお休みを取れるという日になった時のことだ。
夕食時に告げられたが、体調がいいのなら明日、町に連れて行ってくれるとのことだった。毎日私を抱きかかえてもらって負担を強いているのに、せっかくのお休みまで私に付き合ってもらうのも申し訳がなくて遠慮したが、自分自身がそうしたいのだと言ってくれた。
だから早く明日が来てほしいと思う。
一方で長い夜が続き、朝が来なければという気持ちもある。それは久々にアレクシス様が私の横で眠る時間だから。
「それではアレクシス様、お休みなさいませ」
「ああ。お休み」
就寝時は相変わらず、一定の距離を保たれたまま互いにそれ以上近づくことはない。それは私のわがままであり、アレクシス様のご厚意である。この距離はブランシェではない限り、縮まることがないのだと思うと胸が切り裂かれるように痛む。
すっかり体調を取り戻した今、明日以降はアレクシス様の腕の中ではなく、地に足をしっかりとつけることになるだろう。
抱き上げてくれている時に感じたアレクシス様の力強さも温もりも既に消えて、もう私の中には残っていないのがひどく悲しかった。
今朝はライカさんに起こされるよりも前に目が覚めた。
アレクシス様はいつものごとく私が目覚めるよりも先にベッドから出ているだろうと思われた。
が。
本日は何と隣に人の気配がある。
残念ながらこちらには背を向けていて顔は見えないが、アレクシス様だろう。いや、アレクシス様ではなかったら由々しき事態だが。
私はアレクシス様を起こさぬように、そっと身を起こした。
いつも私の寝姿を見られていると思うが、今日は私が彼の寝姿が見られる。どんな顔で眠っているのだろう。
まだ起きないでと思いながらドキドキしつつ、顔を覗き込もうとした時。
ぐるりと景色が回って気付けばアレクシス様に組み敷かれていた。
私の手首を強くつかんだ彼は私を射抜くような鋭い瞳で見下ろす。それはもしかしたら戦いに身を投じてきた者の条件反射なのかもしれない。
驚きで目を見張ったが、次の瞬間にはアレクシス様は我に返ったように視線の強さを緩めて私から手を離した。
「す、すまない。ブランシェ。寝ぼけていた」
謝罪の言葉を口にするアレクシス様に、どくどくと激しく鼓動が打っている。
私の手首を握りしめた力の強さも、私の心まで貫き通すような熱を帯びた苛烈な瞳も震えるほどに……恋しい。そう。この気持ちは恋しいというものなのだろうと認識した。
「ブランシェ。怖がらせてすまない。大丈夫か」
言葉を返さずただ見つめ続ける私に、アレクシス様は先ほどの瞳とは違ってまるで迷子になった子供のように困惑に揺れる瞳になると、私の頬にそっと手を触れる。
「……はい。大丈夫です」
アレクシス様の熱を再び感じ、私がようやく返事すると彼はほっと表情を和らげた。
「そうか。悪かった」
「いいえ。わたくしの方こそ驚かせてしまい、申し訳ありません」
「いや」
そう言うと私の頬から手を離そうとするので、消えゆく熱を追いかけるようにとっさに彼の手を取る。
「ブランシェ?」
私は何も答えずそのまま目を伏せて彼の手に顔を寄せた。
彼の熱と戸惑いが伝わってくる。
「温かい。アレクシス様の手」
「ブ、ランシェ」
アレクシス様は言葉を詰まらせながら私に呼びかける。
目を開けると、彼の瞳は先ほどの相手を焼き尽くすような瞳ではなくて、自分の身を焦がすような熱を帯びていた。
「アレクシス様」
「っ。ブラン――」
私の呼びかけに応えるように、アレクシス様が名を告げようとしたところで。
「おはようございます奥様、朝です――よっ!?」
扉が開き、元気なライカさんの声が聞こえた。そのまま部屋に入ってくるかと思われたが、彼女は状況に気付いたようだ。
「た、大変失礼いたしましたぁっ!」
大声で謝罪して扉が跳ねるのではと思うくらい音を立てて勢いよく閉めた。
その様子を半ば呆然として二人で見守っていたが、アレクシス様が私に視線を戻すと、少し自嘲するように笑う。
「勘違いされたな」
「夫婦ですから良いのではないですか」
私はいまだに取るアレクシス様の手を震えるように握りしめると、彼は目を見開いた。
「だが……そろそろ起きないとな」
そう言って私の頬から手を離したが、彼の手をつかむ私の手を振りほどくことはしない。
「本日はお休みです。まだ良いのではないでしょうか」
「今日は君と町に行く予定をしている」
「アレクシス様とご一緒に過ごせるのならばどこでも嬉しいです」
アレクシス様が正論を述べて私が反論を繰り返す。
「この場所でも?」
「はい。この場所でも」
低くかすれる声からも熱を感じられて、私の胸を熱くさせる。
「今近づけば君を離せなくなるが」
「離さないでください」
「朝食は」
「我慢します」
アレクシス様はそこでふっと笑みをこぼした。
「そうか。では君をこの腕に抱きたい」
「はい。わたくしもアレクシス様の腕に抱かれたいです」
「君を……愛している」
美しい琥珀色の瞳で私を見つめる。
その瞳に映っている相手は――。
「はい。わたくしもお慕いしております。アレクシス様をお慕いしております」
君ではなく名前を呼んで。
私の名を。
「ブランシェ、愛している」
アレクシス様は私の想いに応えたように残酷な答えで返すと熱い唇を私の唇に重ねた。
名前を呼んで。
私の名を。
――アンジェリカと。
11
お気に入りに追加
2,553
あなたにおすすめの小説
婚約破棄、修道院送り、でも冤罪で謝るのは絶対に嫌。本当に悪いことをしてから謝ろうと思います。
七辻ゆゆ
ファンタジー
婚約者と仲のいい相手を虐めた……ということにされてしまった、夢を見たの。
そんなの耐えられない。修道院で静かに暮すのはいいけれど、冤罪で謝るのは絶対に嫌。だったら本当に虐めてから、全力で謝ってあげます。
Bグループの少年
櫻井春輝
青春
クラスや校内で目立つグループをA(目立つ)のグループとして、目立たないグループはC(目立たない)とすれば、その中間のグループはB(普通)となる。そんなカテゴリー分けをした少年はAグループの悪友たちにふりまわされた穏やかとは言いにくい中学校生活と違い、高校生活は穏やかに過ごしたいと考え、高校ではB(普通)グループに入り、その中でも特に目立たないよう存在感を薄く生活し、平穏な一年を過ごす。この平穏を逃すものかと誓う少年だが、ある日、特A(特に目立つ)の美少女を助けたことから変化を始める。少年は地味で平穏な生活を守っていけるのか……?
追放薬師は人見知り!?
川上とむ
ファンタジー
幼き頃より将来を期待された天才薬師エリン・ハーランドは両親を病気で亡くし、叔父一家に引き取られる。彼女は叔父の工房で奴隷同然のひどい扱いを数年間にわたって受けた挙げ句、追放されてしまう。
叔父から受けた心の傷が原因ですっかりコミュ障となってしまったエリンだったが、薬師としての腕前は健在であった。エリンが新たに拾われた薬師工房でその腕前を遺憾なく発揮していく中、愚かにも彼女を追放した叔父の工房は簡単な薬さえ作れなくなり、次第に経営が傾いていく。
悪役令嬢に転生してストーリー無視で商才が開花しましたが、恋に奥手はなおりません。
三矢さくら
ファンタジー
【完結しました】乙女ゲームの悪役令嬢である公爵令嬢カロリーナ・シュタールに転生した主人公。
だけど、元はといえば都会が苦手な港町生まれの田舎娘。しかも、まったくの生まれたての赤ん坊に転生してしまったため、公爵令嬢としての記憶も経験もなく、アイデンティティは完全に日本の田舎娘。
高慢で横暴で他を圧倒する美貌で学園に君臨する悪役令嬢……に、育つ訳もなく当たり障りのない〈ふつうの令嬢〉として、乙女ゲームの舞台であった王立学園へと進学。
ゲームでカロリーナが強引に婚約者にしていた第2王子とも「ちょっといい感じ」程度で特に進展はなし。当然、断罪イベントもなく、都会が苦手なので亡き母の遺してくれた辺境の領地に移住する日を夢見て過ごし、無事卒業。
ところが母の愛したミカン畑が、安く買い叩かれて廃業の危機!? 途方にくれたけど、目のまえには海。それも、天然の良港! 一念発起して、港湾開発と海上交易へと乗り出してゆく!!
乙女ゲームの世界を舞台に、原作ストーリー無視で商才を開花させるけど、恋はちょっと苦手。
なのに、グイグイくる軽薄男爵との軽い会話なら逆にいける!
という不器用な主人公がおりなす、読み味軽快なサクセス&異世界恋愛ファンタジー!
*女性向けHOTランキング1位に掲載していただきました!(2024.9.1-2)たくさんの方にお読みいただき、ありがとうございます!
英雄になった夫が妻子と帰還するそうです
白野佑奈
恋愛
初夜もなく戦場へ向かった夫。それから5年。
愛する彼の為に必死に留守を守ってきたけれど、戦場で『英雄』になった彼には、すでに妻子がいて、王命により離婚することに。
好きだからこそ王命に従うしかない。大人しく離縁して、実家の領地で暮らすことになったのに。
今、目の前にいる人は誰なのだろう?
ヤンデレ激愛系ヒーローと、周囲に翻弄される流され系ヒロインです。
珍しくもちょっとだけ切ない系を目指してみました(恥)
ざまぁが少々キツイので、※がついています。苦手な方はご注意下さい。
夫が大人しめの男爵令嬢と不倫していました
hana
恋愛
「ノア。お前とは離婚させてもらう」
パーティー会場で叫んだ夫アレンに、私は冷徹に言葉を返す。
「それはこちらのセリフです。あなたを只今から断罪致します」
君しかいないと言っていた男爵様が他の方と愛し合っていたので、彼らを後悔させます
あんみつ豆腐
恋愛
君しかいないと甘い言葉を囁く婚約者エドワード。
リリアはそんな彼のことが好きだったが、舞踏会の夜、彼が他の女性と愛し合っているところを発見する。
リリアは心を傷つけられ、どんな手を使ってでも彼らに復讐してやろうと決意する。
婚約破棄? では私は王子殿下と再婚約しますね
マルローネ
恋愛
伯爵令嬢のランゼは侯爵令息のグランドと婚約をしていたが破棄されてしまう。
こちらの反論は全く聞いてくれない身勝手なものだったが、ランゼには幼馴染の王子殿下がいたのだ。
彼との仲が深まっていき……グランドは嫉妬していくが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる