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第32話 私は人の健康を守る薬師……のはず
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「ヘラルド・バント子爵。書類の中身も確認せずに署名されましたね。旦那様のことを諜報員と紹介しましたのに」
私はベールを取ると膝の上に置く。
書類には、これからバント子爵にかかる費用、つまりロザレス児童福祉施設からの賄賂の返金と罰金が払えない場合、バルラガン伯爵家に請求する旨が書かれている。ただし万一、もしバルラガン伯爵家に迷惑をかけることになるようならば、バント子爵の矜持として爵位を弟に譲位する所存の旨も書かれている。
「よく読んでくださいねとも」
バント子爵の逸る気持ちと、シメオン様が書類の中から抽出して忠告した一文が良かったのだろう。バルラガン伯爵家に請求が行ったところで何の問題も起こらないと思ったに違いない。
「ああ。この書類自体に法的効力はないが、バルラガン伯爵はこの書類を持ってヘラルド・バントを廃嫡にすることができるだろう」
「え? 法的効力はないのですか?」
シメオン様は署名をして薬を受け取った時点から法的効力が発生すると言っていたのに。
「爵位とは王家から賜るもの。返上するには相応の理由が必要になるが、バルラガン伯爵は事を公にしたくはないんだ。これを王家に提示するわけにはいかないだろう。長男の素行が悪いとの理由で廃嫡し、次男や三男に譲位させることのほうがずっと容易い」
「ああ。そういうことなのですね」
この書類で、次男さんや三男さんのこれまでの努力がどうぞ報われますように。
「ところで、これでヘラルド・バント子爵をロザレス福祉施設の保証人から下ろすことができましたが、この後はどうするのですか」
「不正の疑いが濃厚な施設があると密告すれば、調査員が動くことになっている。そこで調査員がロザレス福祉施設に視察に訪れた際、裏帳簿を発見できるよう密偵が誘導する」
本当は都合よく裏帳簿など見つかるはずもない。調査員もまた裏で動いている組織があることを認識しているのだろう。
「そうですか。あ。でも裏帳簿はどうするのですか? バント子爵の名が載っているのでしょう。バルラガン伯爵には秘密裏に処理すると約束したのに、まさか裏切るおつもりですか?」
冷たい視線を送るとシメオン様はため息をついた。
「不必要に敵を増やすことはしない。バント子爵の名が載っていない裏帳簿に差し替えてある」
「そうですか。ですが今回はバルラガン伯爵がご子息を処分なさるのでしょうけれど、普通は貴族が悪事を働いたとしても処分することはできないのですね」
だったら悪事を働いた庶民も処分を受けなくてもいいとは思わない。けれどやはり貴族だけが罪を逃れるのは納得できない。
「表立ってはということだ」
「表立っては……。ということは裏では処分するのですか」
「ああ。手段だけならいくつもある」
穏便にいかない手段もあるということだろうか。けれど私はそれ以上、追及することは止めた。
「ところで君の薬はまさに毒薬だったんだな。短期間で脱毛させるなど、体に優しい薬とは思えない」
「ああ。先日渡した薬瓶の中身ですか? あれは水です」
「――は!?」
私は目を閉じて、胸に手を当てる。
「申し上げたはずです。私は人の健康を守る薬師だと。人の健康を害する薬など、決してお渡しすることはできません」
「だが彼が取引に応じたということは、毛が抜け落ちたということなのだろう?」
「ええ。先ほどバント子爵にも申し上げましたが、脱毛症は特に精神的負担が大敵なのです。薬を服用させた後に、あなたの一番大事なものを精魂尽き果てるまで根こそぎ奪う薬だと必ず伝えてくださいと申し上げましたね。そう。旦那様がおっしゃったように、言葉こそが毒薬だったのです。病は気からと申しまして」
「それでは結局、薬師と言いながら精神的苦痛を与える毒薬を飲ませているだろう」
顔を引きつらせたシメオン様の言葉は聞かなかったことにする。――なお。
「あ、いや待て。水だと言ったな? では無色透明、無味無臭の薬を作った自分を大いに労われと言ったのは何だったのか」
という言葉も当然無視する。
「バルラガン伯爵は薄毛でいらっしゃいます。バント子爵は遠くない未来、バルラガン伯爵と同じ道を辿ると懸念されていたのでしょう。実際、薄くもなっていたのだと思います。シメオン様から頂いた資料によりますと、バント子爵は増毛に効くという薬草を色々取り寄せていました。おそらくウィッグも、お洒落と薄毛隠しを兼ねてのものでしょう」
「そこへ来て、精魂尽き果てるまで根こそぎ奪う薬か……。いや。どちらに転んでもまさに胸が詰まる思いだっただろうな」
なぜ同情するような目をなさるのか。
「まあ、何だ。私はてっきりバント子爵の男としての矜持を奪――いや。何でもない」
「何ですか? 男としての矜持とは。そもそも、どちらに転ぶとは何でしょうか? 他に健康を害する魔法の言葉がありましたか? 今後の参考にぜひご教示ください」
効果が出る魔法の言葉が他にもあるとは。これから絶対に役に立つはずだ。
「いや。教示しろとか、無茶ぶりすぎるだろう」
「え? 何とおっしゃいましたか?」
小言でぶつぶつ何かを言っているシメオン様の声を拾おうと近付いたものの。
「……あ。も、申し訳ありません」
気付けばシメオン様の顔が間近に迫っていて、私は慌てて離れようとしたけれど、彼の片腕が私の背に回されて身動きが取れなくなる。
「シ、メオン様?」
シメオン様は私の髪を一筋取ると口づけた。
「あなたこそが毒薬だな。――私の心をかき乱す」
熱を帯びた瞳で見つめられて、どくりと胸の鼓動が高まった。
直後。
「あら。またお邪魔だったみたいね」
「ひぃっ!?」
突如、メイリーンさんの声が聞こえてきて、私は反射的にシメオン様の胸を押し返す。けれど今日の彼はびくともしない。
離れないシメオン様に構わず、メイリーンさんは私たちに近付いてきた。
「アランブール伯爵。夜のかすみ草をご指名かしら? ただしこの子は高いわよ」
「いくらだ?」
「よ、夜のかすみ草は薬師として以外、指名を受けませんから! もう! 二人して何遊んでいるのですか!」
顔を熱くしながら拳を作って抗議する。
「ならばさっさとお帰りなさい。これからは大人の時間よ。あなたたちはこの場にふさわしくない」
メイリーンさんはくすりと笑って続けた。
「ね。お子様のお二人さん」
私はベールを取ると膝の上に置く。
書類には、これからバント子爵にかかる費用、つまりロザレス児童福祉施設からの賄賂の返金と罰金が払えない場合、バルラガン伯爵家に請求する旨が書かれている。ただし万一、もしバルラガン伯爵家に迷惑をかけることになるようならば、バント子爵の矜持として爵位を弟に譲位する所存の旨も書かれている。
「よく読んでくださいねとも」
バント子爵の逸る気持ちと、シメオン様が書類の中から抽出して忠告した一文が良かったのだろう。バルラガン伯爵家に請求が行ったところで何の問題も起こらないと思ったに違いない。
「ああ。この書類自体に法的効力はないが、バルラガン伯爵はこの書類を持ってヘラルド・バントを廃嫡にすることができるだろう」
「え? 法的効力はないのですか?」
シメオン様は署名をして薬を受け取った時点から法的効力が発生すると言っていたのに。
「爵位とは王家から賜るもの。返上するには相応の理由が必要になるが、バルラガン伯爵は事を公にしたくはないんだ。これを王家に提示するわけにはいかないだろう。長男の素行が悪いとの理由で廃嫡し、次男や三男に譲位させることのほうがずっと容易い」
「ああ。そういうことなのですね」
この書類で、次男さんや三男さんのこれまでの努力がどうぞ報われますように。
「ところで、これでヘラルド・バント子爵をロザレス福祉施設の保証人から下ろすことができましたが、この後はどうするのですか」
「不正の疑いが濃厚な施設があると密告すれば、調査員が動くことになっている。そこで調査員がロザレス福祉施設に視察に訪れた際、裏帳簿を発見できるよう密偵が誘導する」
本当は都合よく裏帳簿など見つかるはずもない。調査員もまた裏で動いている組織があることを認識しているのだろう。
「そうですか。あ。でも裏帳簿はどうするのですか? バント子爵の名が載っているのでしょう。バルラガン伯爵には秘密裏に処理すると約束したのに、まさか裏切るおつもりですか?」
冷たい視線を送るとシメオン様はため息をついた。
「不必要に敵を増やすことはしない。バント子爵の名が載っていない裏帳簿に差し替えてある」
「そうですか。ですが今回はバルラガン伯爵がご子息を処分なさるのでしょうけれど、普通は貴族が悪事を働いたとしても処分することはできないのですね」
だったら悪事を働いた庶民も処分を受けなくてもいいとは思わない。けれどやはり貴族だけが罪を逃れるのは納得できない。
「表立ってはということだ」
「表立っては……。ということは裏では処分するのですか」
「ああ。手段だけならいくつもある」
穏便にいかない手段もあるということだろうか。けれど私はそれ以上、追及することは止めた。
「ところで君の薬はまさに毒薬だったんだな。短期間で脱毛させるなど、体に優しい薬とは思えない」
「ああ。先日渡した薬瓶の中身ですか? あれは水です」
「――は!?」
私は目を閉じて、胸に手を当てる。
「申し上げたはずです。私は人の健康を守る薬師だと。人の健康を害する薬など、決してお渡しすることはできません」
「だが彼が取引に応じたということは、毛が抜け落ちたということなのだろう?」
「ええ。先ほどバント子爵にも申し上げましたが、脱毛症は特に精神的負担が大敵なのです。薬を服用させた後に、あなたの一番大事なものを精魂尽き果てるまで根こそぎ奪う薬だと必ず伝えてくださいと申し上げましたね。そう。旦那様がおっしゃったように、言葉こそが毒薬だったのです。病は気からと申しまして」
「それでは結局、薬師と言いながら精神的苦痛を与える毒薬を飲ませているだろう」
顔を引きつらせたシメオン様の言葉は聞かなかったことにする。――なお。
「あ、いや待て。水だと言ったな? では無色透明、無味無臭の薬を作った自分を大いに労われと言ったのは何だったのか」
という言葉も当然無視する。
「バルラガン伯爵は薄毛でいらっしゃいます。バント子爵は遠くない未来、バルラガン伯爵と同じ道を辿ると懸念されていたのでしょう。実際、薄くもなっていたのだと思います。シメオン様から頂いた資料によりますと、バント子爵は増毛に効くという薬草を色々取り寄せていました。おそらくウィッグも、お洒落と薄毛隠しを兼ねてのものでしょう」
「そこへ来て、精魂尽き果てるまで根こそぎ奪う薬か……。いや。どちらに転んでもまさに胸が詰まる思いだっただろうな」
なぜ同情するような目をなさるのか。
「まあ、何だ。私はてっきりバント子爵の男としての矜持を奪――いや。何でもない」
「何ですか? 男としての矜持とは。そもそも、どちらに転ぶとは何でしょうか? 他に健康を害する魔法の言葉がありましたか? 今後の参考にぜひご教示ください」
効果が出る魔法の言葉が他にもあるとは。これから絶対に役に立つはずだ。
「いや。教示しろとか、無茶ぶりすぎるだろう」
「え? 何とおっしゃいましたか?」
小言でぶつぶつ何かを言っているシメオン様の声を拾おうと近付いたものの。
「……あ。も、申し訳ありません」
気付けばシメオン様の顔が間近に迫っていて、私は慌てて離れようとしたけれど、彼の片腕が私の背に回されて身動きが取れなくなる。
「シ、メオン様?」
シメオン様は私の髪を一筋取ると口づけた。
「あなたこそが毒薬だな。――私の心をかき乱す」
熱を帯びた瞳で見つめられて、どくりと胸の鼓動が高まった。
直後。
「あら。またお邪魔だったみたいね」
「ひぃっ!?」
突如、メイリーンさんの声が聞こえてきて、私は反射的にシメオン様の胸を押し返す。けれど今日の彼はびくともしない。
離れないシメオン様に構わず、メイリーンさんは私たちに近付いてきた。
「アランブール伯爵。夜のかすみ草をご指名かしら? ただしこの子は高いわよ」
「いくらだ?」
「よ、夜のかすみ草は薬師として以外、指名を受けませんから! もう! 二人して何遊んでいるのですか!」
顔を熱くしながら拳を作って抗議する。
「ならばさっさとお帰りなさい。これからは大人の時間よ。あなたたちはこの場にふさわしくない」
メイリーンさんはくすりと笑って続けた。
「ね。お子様のお二人さん」
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