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第21話 深夜の温もり

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 右にランプ、左にピッチャーを持って部屋から出ると、廊下は既に静まり返っていた。
 二階は主人の部屋や書斎などがあり、一階が厨房や食堂、使用人の部屋となっていて、夜中でも利用することがあるためか、昼間ほどではないものの廊下に所々ランプが灯されている。おかげで厨房までは手元のランプは必要なさそうだ。

 それでも昼間と違って人気が無いひっそりとした空間は心もとない。廊下や階段には絨毯が敷かれていて足音を吸収してくれているが、もし何も敷かれていなかったらこんな静かな夜は足音が響くだろう。もしそこへ自分とは違う足音が背後から聞こえてきたりなんてしたら、きっと恐怖に震えるに違いな――。

 そこまで思ったところで、足音もなく、何の予兆もなく、いきなり低い声と共に肩に手を置かれた私は文字通り恐怖で肩が跳ね上がった。
 我ながらよく大声を上げてランプやピッチャーを落とさなかったものだと思う。むしろ恐怖で縮こまって、握る力がこもったのが良かったのかもしれない。
 とにもかくにもその正体の分からぬものから距離を取るために勢いよく振り返ると、そこにいたのはレイヴァン様だった。

「ア、アむーるレイヴァン」

 まだ私は二階の廊下を歩いているところだったから、深夜この階にいる人物は確かにレイヴァン様のみとなるだろう。それでも見知った人物だったことで、ほっと息をつく。

「クリスタル王女」

 一般的な女性の敬称とは違う私への呼びかけにレイヴァン様は何と言っているのかとマノンさんに一度尋ねたら、リシーズ・クリスタル、つまりクリスタル王女とお呼びになっていますと答えてくれた。今もクリスタル王女と呼んだようだ。
 レイヴァン様は続けて訝しげに眉をひそめて何かを言った。
 意味は分からなかったけれど、おそらく私が何をしているのか、何をするつもりなのか、問いただしたかったものだと推測される。たとえ違ったとしても、今自分がしようとしていることを知ってもらったほうがいいだろう。

「ク、クォた、ウォるわー」

 水が欲しいと習った単語でおそるおそる告げると、彼は一瞬目を見開いた後、ぐっと眉根を寄せた。
 どうやら通じなかったようだ。もう一度言ってみる。

「クォた、ウォるわー」

 今度はピッチャーを前に突き出しながら説明すると、レイヴァン様はようやく小さく頷いてくれた。理解してもらえたかと思ったのも束の間、彼は私の手からランプとピッチャーを取り上げ、そのまま歩いていく。

「あ……」

 どういうことだろう。水は渡さないということだろうか、それとも水を入れてくるのでここで待っていろということだろうか、あるいは部屋に戻れということなのだろうか。
 ぼんやり突っ立っていると、私の様子に気付いたレイヴァン様は振り返り、何か言おうとして口を開いたが結局何も言わず、顎で一緒に来るように指し示した――と思う。
 私が足を前に進めるのを確認すると、彼は踵を返して先導する。

 厨房までの道中、もちろん無言だったけれど、皆が寝静まった屋敷内を一人歩くよりも広い背中が前にあって、とても心強く感じた。

 暗闇の厨房に入ると、レイヴァン様が部屋のランプを灯した。
 レイヴァン様は何度も中に入られたことがあるのだろう。保管している水をすぐに探し当てると、ピッチャーに注ぎこんでくれた。
 厨房内では明日以降の仕込みでも行われていたのだろうか。それとも残り香なのだろうか。何だかお料理の良い匂いがした。と、途端に。

 ――キューぐるぐるぐる。

 私のお腹が存在を主張した。
 静まりきった厨房に一際その音が響き、驚きの表情でレイヴァン様が振り返った。
 さっきレイヴァン様が部屋の明かりを灯さなければ良かったのにと思った。顔が熱くなった今の私の頬は赤く染まって見えていることだろう。
 彼は困惑した表情に変えたかと思うと、今度はまた何かを探し始め、次々と必要なものを揃えたようだ。私はその様子を黙って見ていたが、それに気付いた彼は私の肩に手をやって近くにあった椅子に座らせた。

 何が始まるのだろうと思いながらレイヴァン様の様子を見守る。
 彼は火を起こして鍋の中に白い物、ミルクと砂糖だろうか、二つを投入した。ふつふつと煮立つにつれて、ミルクの甘い香りが漂ってきた気がする。そのまま火から下ろすと、手近にあるカップ二つを取ってそれを注ぎ込んだ。

「クリスタル王女」

 レイヴァン様はそこでようやく私に振り返り、一つのカップを渡してくれた。こんな真夜中に、しかもこの家の主人たる者が私のために作ってくれたのだ。

「エ、エふぁリスとライあー、アむーるレイヴァン」
「ああ」
「頂きます」

 そういえば、頂きますという言葉は習っていなかった。またマノンさんに質問しよう。
 そう思いながら唇で風を送って少し冷ますとホットミルクをそっと口にした。
 甘いミルクと喉から伝う温かさが心まで温めてくれる。まるでここに来た初日の入浴時に包まれた温もりと安心感のようだ。これはレイヴァン様の優しさと温もりでもあると身に染みる。

「美味しい」

 私はこの言葉もまだ習っておらず、グランテーレ語で呟いてしまったが、レイヴァン様が小さく頷いて微笑したところを見ると、思いは伝わったようだ。初めて見たレイヴァン様の穏やかな表情だった。私もつられるように頬が緩む。
 彼はなぜか驚いたように私を見つめたけれど、すぐにはっと我に返ると、ご自分も追ってカップに口をつけた。そして。

「――XXっ!」

 熱かったのだろうか。あるいはもしかしたらレイヴァン様には甘すぎたのだろうか。目を見開くと、このミルクから距離を取りたいとでも言わんばかりにすぐに身を引いた。

「ふっ。ふふ」

 申し訳ないけれど、初めて見たレイヴァン様の動揺している姿がおかしくて、思わず笑い声がこぼれてしまう。
 そんな私をレイヴァン様は目を細めて睨んできたけれど、ちっとも怖くなくて、余計に笑いが止まらなくなった私に、彼もまた諦めたように表情を崩して笑った。
 いつまでも彼の笑顔を見ていたいと思った。
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