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第二部(スピンオフ)【レオンくんのしっぽ】

6.それ、ありっすか?

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 ◇◆【数ヶ月前】◆◇




『慎、久しぶり、元気にしてるか?』

 ありきたりな文面で、メッセージは始まった。
 既読だけつけて、返事を考え数分が経つと、続けて細切れの着信がある。

『仕事忙しいか?』
『来月あたり、みんなで飲もうって話が出てる』
『来れそう?』

 点滅するカーソルを見つめ、握りしめた電子タバコを燻らせながら、俺は鉄骨階段の手すりに背中を預けて肘を乗せた。
 絶滅間近の喫煙者のために設けられた喫煙所には、ズレ昼後の時間ということもあって俺以外に人はいない。

「あぁぁ! 伊勢谷いせやさん、いたぁっ!」

 束の間の休息を破ったのは、血相変えて鉄骨扉を開いた二年目の小池だ。
 小池が支店からこの本社に移動してきて半年ほど。でっかい図体のくせに人懐っこい子犬のような小池を最初は可愛いと思っていたが、それも過去の話だ。トラブルのたびにこう何度も泣きつかれるといい加減ため息がでる。
 まだずいぶん残ったレフィルを備え付けられた灰皿に捨て、俺は縋りついた小池に促されながら、オフィスの中に戻っていく。
 ギリギリ二十三区内の駅前、十三階建ての自社ビル。その七階が設計部のフロアだ。俺、伊勢谷慎いせやしんの所属する戸建注文住宅部門は、喫煙所から一番離れたエレベーター前の一画にある。
 俺は小池の後に続いて歩きながら、さっき少し緩めたネクタイを締め直し、スーツのポケットに入れていたタブレットを数粒口に放り込んだ。

「実は、溝口様邸で見落としがあって」

 泣き出しそうな声で、前を歩く小池が振り返りながら言った。

「見落とし? 構造チェックは俺もしたはずだけど」

 三十歳、入社八年目。
 俺はチームリーダーとして十人ほどの部下の面倒を見る立場だ。
 だからチームで受けている仕事の概要は把握している。小池はちょくちょく変なミスをするので特に気にかけていた。
 溝口様邸は三階建ての二世帯住宅。図面は構造計算チームを通した後、一度俺のチェックを通すはず。

「違うんです。設計の方じゃなくて……」

 デスクに広げられた図面に目を落とした俺に、小池が見せてきたのは都市計画関連の事前調査資料の方だ。

「五十三条届け……出し忘れてました……」
「Oh……」

 小池の言葉に俺がため息をつく前に、正面の席でマウスを握った入社五年目の帰国子女の山内が息を吐いた。
 山内は彼女がカナダ人だかなんだかで、ちょいちょい会話にわざとらしい英語が混ざる。

「出し忘れたって……着工は? いつ?」
「ら、来週……」
「Holy fuck!」

 言った山内を嗜める意味で視線を向けたが、彼は画面を見つめたまま人ごとみたいに口を尖らせている。
 オロオロと自席の前に立ち尽くす小池を尻目に、俺はデスクの上の溝口様邸の資料を確認した。
 五十三条というのは、都市計画法第五十三条ことだ。簡単にいうとこの五十三条が指定されたエリアに家を建てる場合に役所に届け出が必要になる。建物を建てるには事前に五十三条の申請と許可を得ている必要があるのだ。
 おそらく、来週に迫った溝口様邸の着工を前に検査機関に提出した審査の最中に、この五十三条の未申請が発覚したのだろう。

「ど、どうしましょう……五十三条って許可降りるまで一週間はかかりますよね……」

 小池は少し震える声で眉を寄せた。
 もしも小池が犬なら三角の耳は伏せて、尻尾は悲しげに垂れ下がっているだろう。
 小池の言う通り、申請から役所のチェックを経て許可が降りるまで一週間を見込むことが多い。
 この会社は注文住宅だけでなく、建売事業を盛んにやっているせいで、効率重視に動くことが多く、受注から着工、引き渡しまでのスケジュールをかなりタイトに設定される。
 おまけに人件費削減なのか申請業務部門の人手が少なく、設計担当者が確認申請までを行う案件も多かった。
 業務が多岐にわたるせいで、請け負う案件が重なると、設計担当者は嵐のように忙しくなる。まだ自分の担当を持った経験が少なく要領を得ない小池は、申請業務を見落としてしまったのだろう。

「小池、とりあえず落ち着いて。五十三条の必要書類は把握してる?」
「は、はい!」

 震える声で頷いた小池をとりあえず、椅子に座らせる。

「じゃあ、すぐに書類まとめて。社判の押印必要だよね? 俺から先に部長に状況伝えとく」
「ふ、ふぁいっ!」

 小池は目元を拭っている。

「それから、山内」
「はい?」

 我関せずだった山内は突然名前を呼ばれてモニター越しに視線を上げた。

「施工事務の白石さん、山内の同期だよね?」
「そうですけど」
「ちょっと、打診してくれ」
「何を?」
「あの人の彼氏、N区の都市計画課だ」

 その言葉に泣きながら書類を出力していた小池が顔を上げた。

「白石さんから口添えしてもらって、三日で処理してもらおう」
「それ、ありっすか?」

 スマホを片手に、また人ごとみたいに山内が言った。

「ありだ」

 俺がそう言うと、小池がぐすんと鼻を啜った。

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