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第一部【牧瀬くんは猫なので】
42.また会いにきて
しおりを挟むエントランスからの呼び出し音が鳴り響いた。
僕は吉良くんの腕の中で眠っていた。だけど、二人してその音で目が覚めたみたいだ。
閉め忘れたままのカーテンの外はすでに明るい。朝が来ていた。
僕は悪い予感がして、吉良くんの胸にしがみついて、毛布の中に深く潜り込んだ。
そういえば、いつのまにか僕も吉良くんもきちんと寝巻き代わりのスウェットを身に纏っていた。たぶんいつもそうしてくれていたみたいに、吉良くんは寝落ちてしまった僕の体を拭いて、服を着せてくれたのだろう。
毛布の中の僕の頭をポンポン叩いてから、吉良くんが起き上がった。
ベッドを出ようとする吉良くんの腰に、僕は慌ててしがみついた。
「どうした?」
吉良くんが僕の頭を撫でながら優しく尋ねてきた。
僕は吉良くんにしがみついたまま顔を上げて、必死に首を横に振った。
もう一度、電子音が鳴り響いた。
吉良くんは僕の様子に何かを察したようだったけど、ゆっくり僕の手を解くと、ベッドから立ち上がり、のそのそとリビングの方へと向かった。
僕は気怠い腰を庇いながら、吉良くんの後をを追う。
リビングにあるモニターを見た瞬間、僕の心臓が締め上げられたみたいに痛み出した。
そこに映し出されていたのは、全身白い服に身を纏った目の細い男、春日だった。
「吉良くん、ダメ。開けないで……」
「えっ?」
「春日だ……この人が、記憶を消す役割の人……」
吉良くんの喉がゴクリと鳴った。
だけど一呼吸おいて、吉良くんが意を決したように解錠ボタンを親指で押した。
モニターの向こうでエントランスのドアが開き、それを見た春日がモニターに向かって一礼すると、そのドアの中に入っていくのが見えた。
「吉良くん! なんで、何で開けちゃったの⁈」
焦る僕の肩に吉良くんが手を置いて、目線を僕に合わせて顔を見据えた。
「ツナ、逃げてたってきっとダメだ。俺、話してみる。ちゃんとお前のこと大事にできるって、説得してみるよ」
「そんなの……ダメ、僕もいっぱい言った! でも、ダメって、消すって言われた!」
――ピンポーン
今度は玄関前の呼び出し音が鳴った。
背筋にゾワリと悪寒が走り、気がついたら僕は猫になっていた。春日が怖くて、吉良くんに着せてもらった衣服から飛び出して、ソファの下に駆け込み、そこで身を低くして息を潜めた。
吉良くんは、「おい、ツナ」と言いながら、一度床に膝をついて僕の姿を覗き込んだ。
僕はそこから「にゃごにゃご」吉良くんに訴えたけど、吉良くんはもう決めたとでも言うように、玄関ドアを開けて春日を招き入れてしまった。
僕はソファの下に隠れたままだ。僕の位置からだと、春日の姿はみえるけど、吉良くんは足元しか見えない。
「僕のことは猫ちゃんから聞きましたか?」
L字のソファの斜向かいに座って、吉良くんに出されたコーヒーを啜りながら、春日がそんな風に切り出した。
「はい。俺のことどう思ってるかって言うのも」
「そうですか、では話は早い」
カップを置いた春日がパンと手を叩き、僕は驚いてびくりと肩を震わせた。吉良くんの足元も揺れたから、多分吉良くんも驚いたんだろう。
「痛くはないです。なんなら心地いいくらいかも、夢を見て目が覚めたらなにもかも無かったことになるんで。あ、催眠術とかではないので、解いたり、解けたりはしないですよ?」
どこか張り切ったように声を弾ませ、春日は白い服の袖を捲った。吉良くんの慌てた声が聞こえる。
「いや、ちょっと待ってください」
「はい?」
動きを制され、春日はどこか煩わしそうに眉を寄せた。
「消されるのは困ります。俺、忘れたくないんで、あいつのこと」
吉良くんの言葉に僕の鼻の奥がツンと痛んだ。
「……そうですか、わかりました」
春日は頷き、半分浮かせていた腰をまたソファに下ろし、捲っていた袖を整えた。
「では、仕方ないですね。あなたの記憶を消すのはやめましょう」
「えっ⁈ いいんですか⁉︎」
拍子抜けするような答えに、吉良くんがちょっと間抜けな声を出した。
「はい、いいです。そのかわりに猫ちゃんの方の記憶を消します」
「はっ⁉︎」
怒気をはらんだ吉良くんの声がソファの上から降ってきた。
「だって、あなたが記憶を消さないなら仕方ない。猫ちゃんの方の記憶を消して、人間になれるってことすら忘れてもらうしかありません」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
「なんですか?」
「俺もあいつもお互いのこと忘れたくないんだ。お互い好きで、一緒にいたい」
「吉良くん、それは無理です」
春日は首を振った。
「なんで!」
「ルールの話は聞きましたよね? たった一匹がルールを破っただけで多くの猫ちゃんが危険に晒されることも」
「俺は、秘密をバラしたりしません」
「もはやそう言う問題ではないです。例外は許されません。ルールとはそう言うものでしょう?」
春日の細い目が、いつもより少し見開いたのを、僕はソファの下から覗き見た。
その細い眼光に吉良くんが息を飲んだ気配があった。
「どうやっても、俺とツナが一緒にいることは、できないってことですか」
「はい、そもそも、牧瀬家はあなたをパートナー候補として認めていません」
「それは……聞きました。俺が、あいつを傷つけたから……」
「そうです」
春日の声は冷たく突き放すようだった。
「感情的にならない人間なんていない。それに、人はたびたびそれによって過ちを犯す。そんなことは僕だってわかっていますよ、吉良くん」
「俺は、もうあんなことしません。絶対」
吉良くんの言葉を聞いて、春日はため息のような息を吐いた。
「君のことをね、調べましたよいろいろ。お母様のことも」
春日は足を組んで、その上に両手を置いて指を絡めた。
「ずいぶんトラウマになってるみたいですね? それで、猫ちゃんのことも信用できずにあんなことを?」
「あんなこと」と、春日はまるで見ていたみたいな口ぶりだ。僕はぞっと身震いした。
「俺は……」
吉良くんは必死に言葉を探しているようだった。
「たしかに、あの時、感情的になったけど。もう絶対あんなことしません。それに、母親のことも……もう自分の中で折り合いは……ついてます」
「そうですか。まあ、それはそれとしても。とにかく、僕らの結論はかわりません」
「そんな……」
「二択しかありませんよ吉良くん。君が忘れるか、猫ちゃんが忘れるかのどちらかです」
部屋の空気が張り詰めた。
胸が苦しい。
上手く息が吸えなくて、多分吉良くんもそんな感じで、やっと唾を飲み込んだ音が僕にまで聞こえた気がした。
「俺が……忘れれば、ツナはまた人間になれるんですか……」
「ええ、そうです」
僕は息を吸い込んだ。
吉良くんが僕を忘れる。そのフレーズが僕の胸に突き刺さった。
「どうしますか、吉良くん」
追い立てるように、春日が言った。
吉良くんが息を吐いて、ゆっくりと口を開く。
「わかり……」
「うんに"ゃー!(イヤダーーー!)」
僕はソファの下から飛び出して、吉良くんの膝に飛び乗りその胸にしがみついた。
ちなみに僕の声は、吉良くんには猫の鳴き声、春日にはきちんと言語として聞こえているはずだ。
「おや、猫ちゃん、やっとでてきたね?」
春日は多分、僕がソファの下にいたことに気がついていた。そんな顔だ。
「にゃうっ、うんにゃ、にゃぐぅ…(春日、お願い、消さないで……吉良くんの記憶)」
「今までの話聞いていたでしょう? また同じ話をしますか? それとも、猫ちゃんがその記憶をさしだしますか?」
「ん"に"ゃー!(い、や、だ!)」
「可愛い顔して駄々捏ねてもだめですよ? さあ、そこから退きなさい」
「にゃぁう"!」
こちらに伸ばしてきた春日の手を僕は猫パンチでペシリと弾いた。
すると、僕と春日のやりとりを黙って見ていた吉良くんが、僕の脇に手を入れて、僕の体を眼前まで持ち上げた。そして、真っ直ぐに僕の目を見つめた。
「ツナ……俺の話きいてくれるか?」
静かに語りかけるような吉良くんの声に、僕は興奮して突き出していた爪をしまった。
その様子を見て、吉良くんは僕を膝の上に座らせた。
「お前さ、最初すげえ変なやつだったよな」
「……んにゃっ?」
「だってさ、いきなり会いたかったとか、好きとか言ってきてさ、そりゃ思うだろ、変なやつだなって」
「にゃぐぅ……」
「でもさ、ツナ」
「にゃっ」
「俺、お前のこと好きになったよ。全然知らない変なやつだったけど、好きになった。めちゃくちゃ好き、ずっと一緒にいたいって、失いたくないって思ってる」
「ぅ"にゃぁ……ズビッ」
吉良くんは指先で、僕の鼻を拭って笑った。
「なあ、ツナ……俺のこと好き?」
「に"ぁぅっ!」
「いっぱい好き?」
「に"ぁぅぅぅっ!」
僕は何度も首を縦に振った。
「じゃあさ、また会いに来いよ。そんで、いきなりでも何でもいいから、俺に好きって……大好きって言ってくんない?」
「……ズビッ…グスッ…」
「そしたら俺、絶対またお前のこと好きになるから、だから言いにきてよ? 俺に好きって」
「んにゃぁぁぁー!」
僕は涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔を、吉良くんの服に擦り付けた。吉良くんは僕の頭を指で優しく撫でている。
「話はついたようですね?」
背中で春日が立ち上がる気配を感じて、僕は吉良くんの服にしがみついた。
離れたく、ない!
「吉良くん、目を閉じてください。さっきも言いましたが痛みはありませんよ、リラックスして。眠るみたいに……呼吸をして」
春日は吉良くんの前にゆっくりと手のひらを差し出した。
「にゃぅぅっ」
僕は吉良くんの胸元で、吉良くんの顔を見上げた。
吉良くんの視線が僕に降りて、その目が優しく目尻を下げて、口元が笑みを作った。
「ツナ、好きだよ。俺に会いにきてくれて……好きになってくれて、ありがとう」
そう言って、吉良くんはゆっくり目を閉じた。
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