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第一部【牧瀬くんは猫なので】

40.脱走猫ちゃん

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 ◇




 週が明けても、僕は人間の姿になることを許してもらえずにいた。
 春日による記憶の整理が終わるまで、大学に行くのも禁止。それどころか、牧瀬家から出ることすら許してもらえなかった。
 全てあの時咄嗟に猫に姿を変えてしまった自分が悪い。だから、誰にも向けることの出来ない苛立ちを抱えたまま、僕はただ自分の部屋に閉じこもっているしかなかった。
 人間の姿の時に眠る用のベッドに登り、そこから出窓に飛び移って外を見ていた。
 静かな住宅街の景色は、人間の世界を知ってしまった僕にとっては退屈だ。小鳥が飛んだり、時々自転車が通り過ぎることぐらいで、もう僕の胸は高鳴らない。そう思ったらまた苛立って、尻尾でペシリと窓枠を弾いた。
 春日はもう吉良くんの記憶を消してしまったんだろうか、莉央や河本の記憶は? サークルのみんなの記憶からも僕は消えてしまったのだろうか。
 部屋のドアがノックされて、僕は振り返った。
 レオンだったらキャットドアから勝手に入ってくるはずだ。案の定返事のない僕の部屋のドアを静かに開けたのは、レオンではなくて人間の秋山だった。
 秋山がこの苛立ちをぶつけるべき相手じゃないことはもちろんわかっているけれど、僕はついつい何も言わないまま、不貞腐れたようにペシリと尻尾を打ちつけた。
 
「春日が呼んでる。リビングに来なさい」

 それを聞いて、胸元がキンと冷たくなった。
 僕はただ頷いて、出窓からフローリングにぼとりと着地する。
 何でもないように必死で振る舞っているものの、怖くて怖くてガタガタ体が震えてしまいそうだ。秋山はそんな僕に気がついているみたいだった。だけど何も言わずに、僕のためにドアを開いてくれている。
 春日は何を言うつもりだろう。もう記憶を消したという話か、これから消しにいくという話か、もしくはもう人間になることは許さないと言われるか。
 リビングには三人掛けのソファがあって、正面にローテーブル、それを挟んだソファの向かいにオッドマンが一つ並べられている。
 まるで僕にそこに座れとでも言うように、オッドマンの上に平べったいクッションが乗せられていた。
 春日はいつもの全身白い服を着てソファに姿勢よく座っている。
 僕が正面のオッドマンの上に飛び乗り、お尻を付けると、秋山もソファの春日の隣に座った。
 リビングの入り口からは、他の三毛猫たちが固唾を飲んでこちらの様子を伺っている。

「君の処遇が決定したよ」

 春日は手元にA4サイズのタブレットを持って、その画面に目を落としながら、指で何やらたどっている。
 もしかしたら以前秋山が言っていた電子決済された書類が映し出されているのかもしれない。いずれにしろ、僕に見せてくれる気はなさそうだった。

「まず、君はまた人間に戻ることが許された」

 春日の言葉に、僕は項垂れていた頭を上げた。視界の隅で自分の髭がぴくぴくと跳ねたのが見える。

『ほんとっ⁉︎……また人間に⁉︎』
『やったぜ!』
『良かったなツナ!』
『春日も意外に優しいじゃねえか!』

 入り口の方で三毛猫たちが、尻尾を絡め、肉球で床をコツンと弾いた。

「ただし、色々と制約がある」

 春日のその言葉に、春日以外の全員がぴたりと動きを止めた。

「まず、君が正体を明かしてしまった吉良くん、そしてその他関わった人物から、君の記憶を消す」

 僕は息を飲んだ。
 下顎がガタガタ震えて、言いたいはずの言葉が出てこない。
 レオンがドアからぬっと体を出して、春日に向かって身をかがめた。

『別に全部消すことないだろ! 猫になっちゃった瞬間の記憶だけ消せばいいじゃないか!』
『『『『そーだ!そーだ!』』』』

 他の三毛猫たちもレオンに便乗して声を揃えた。
 しかし春日がフイと猫たちの方に首を向けると、その声はぴたりとやんだ。睨んだのかそうでないのかわからないほど細い目だけど、春日の無言の圧力で、飛び出したレオンも後ずさっている。

「猫ちゃん。君は研修が始まった時から、ずっと吉良くんとパートナーになりたいと希望していたね?」

 春日はまた僕に向き直って、静かな口調でそう言った。

『うん、僕……僕は…吉良くんがいい……』

 吉良くんの名前を口にした途端、目からポタポタ垂れてきた。薄っぺらいクッションに、僕の涙が染み込んでいく。

「君は彼のことをちゃんと理解しているかい? 彼が猫ちゃんとこの先共に暮らすのに、本当に相応しいと考えているの?」

 僕は唾を飲み何度も頭を縦に振った。

『吉良くんは、壁を登るのが得意だし、ぼんぼんだからけーざいりょくもあるし、僕の好きなものを覚えててくれて……朝にサーモンのサンドウィッチを買ってくれる……コーヒーショップでココアを頼んでくれるし、僕のことが……グスッ…好きだって……好きだって言ってくれた…ずっと、グスッ…ずっと一緒ねって約束…ゥッ…したっ…ズビビッ……』

 啜りきれない鼻水が、涙と一緒に流れ出た。
 胸が震えて、息苦しいけど、僕は必死に春日に訴える。

「おい、おまえ。この先一緒にずっといるってのはな、そう言う上辺だけのもんでもないんだぞ」

 黙っていた秋山が、ティッシュを数枚抜き取り、手を伸ばして僕の顔に押し当てながらそう言った。僕はぐりぐり首を動かして鼻水を拭った。

「秋山の言う通りだ。残念だけど、猫ちゃん。吉良くんは感情のコントロールができない面があるね?」
『そんなの! 誰だってあるよ!』

 僕は前足で秋山のティッシュを退けると春日に向かって叫んだ。
 春日は頷きつつも、こう続けた。

「もちろん、それはそう。だけど、問題は、それが研修中に起こったってこと」
『起こった?』
「君は吉良くんに怪我をさせられたことがあっただろう?」
『それは、喧嘩でお互いに!』
「それだけじゃない、一年半前、君が一人で抜け出した時もそうだ」
『一年半前?』

 春日は、僕と吉良くんが初めて会った時のことを言っているみたいだ。僕が吉良くんのことを好きになった時のこと。

『あの時は……吉良くんは、僕を助けてくれたんだよ? 何も怪我なんてさせられてない!』

 春日は僕の言葉に頷いた。

「でもな、お前に悪戯しようとした相手は相当痛めつけられただろ? あの時、君を助けてくれたよしみで、牧瀬家が丸め込んだけど、過剰防衛で問題になりかけたんだ」

 秋山が言った。
 いつも通りスカした様子の春日に比べ、秋山は同情するような表情を浮かべている。

『でも、それは……僕のためで……』
「猫ちゃん、残念だけど、こういうとき僕らは起こった事実だけをみるしかない。君に怪我を負わせたことと、過剰防衛の件で、僕らは吉良くんを感情的で危険な人と判断せざるを得ない」

 春日の言葉に首を振り、僕は助けを求めるように秋山に顔を向けた。だけど、秋山も首を振っている。

「通常パートナーは女が多いからって言うのもあって、相手が男の場合、牧瀬家の判断はよりナーバスだ。厳しいかもしれないけど……」
『そんな……』
「だから、彼の中に猫ちゃんの記憶を残しておくことはできない。そして、それに伴って、辻褄を合わせる意味で周りの人間からも記憶を消さなければいけない」
『……い、いや……グスッ……嫌だ…スビッ』

 ブルブルと首を振ると、さっき拭ったのにまた溢れた涙と鼻水が飛び散った。

『ぜったい……絶対に…イヤダーー!!!』

 気がついたら、僕はペラペラのクッションを後ろ足で蹴り飛ばしていた。
 それがひらりと中空を舞って、同時に僕も飛び出した。
 僕がリビングの扉に向かうと三毛猫たちが驚いてすみに飛び退いた。モーゼの如く拓いた道を、僕は一心不乱に突き進んだ。

「こら! 待てっ!」

 背後で叫んでいるのは秋山だ。
 僕はそれを無視して玄関へと向かった。ドアノブにぶら下がり、後ろ足を振り子にして勢いをつけると、ステンレスの扉がガチャリと開き、僕は体を外に投げ出した。
 地面を蹴ってひたすら進んだ。
 後ろは振り返らない。だから、秋山や春日が追いかけてきているのかどうかもわからなかった。声は聞こえない。
 ただひたすらに、僕は走った。
 鼻が冷たくて、喉の奥が痛みだした。ぐっと唾を飲み込むと、今度は胸が痛い。
 車でしか移動したことのない道を記憶を頼りに進んでいく。途中息が続かなくて、ふらふらと路地裏に座り込んだ。走って休んでを繰り返して、僕がそこに辿り着いたのは、日が沈みかけた夕方だった。
 吉良くんのマンションの入り口だ。
 だけど、僕は猫のまま飛び出してきてしまったから、例によって服がない。
 エントランスに入ることもできないまま、入り口近くの植え込みでずっと息を潜めていた。
 ベビーカーを押した女の人が通り過ぎ、散歩中の犬にはかなりしつこく吠えられた。
 ポツポツ雨が降り始めて、走りながらエントランスに駆け込む綺麗な女の人、タクシーからは、仕事帰りらしきスーツの男が降りてきた。
 僕はじっと彼らが行き来するのを見つめていた。
 雨が強くなってきて、植え込みの低木では凌ぎきれなくなっている。
 土が濡れて、ポツポツと僕の体を雨が濡らした。
 寒くて体が濡れて心細かった。
 だけど僕はぐっと奥歯を噛み締めて、込み上げてくるものをおさえつけ、ただじっと待っていた。
 寒さで体が硬くなって、瞼が重くなる頃だった。
 足元の雨をぴしゃぴしゃ踏み締め、透明の傘を刺しながら、吉良くんがマンションの前に現れた。
 エントランスへ向かって歩く吉良くんの姿に、僕は縋るような気持ちでのそのそと植え込みから這い出した。だけど、一度足を止める。
 吉良くんはまだ、僕のことを覚えているのだろうか。呼びかけて、振り向いて、なんだ猫かと言われたら。そんなふうに思ったら、足がすくんだ。
 言葉が出ないまま、吉良くんの背中を見あげていたら、雨粒がポツリと鼻に落ちた。

「クチンッ!」

 くしゃみが出た。
 と、同時に吉良くんの傘が揺れ動き、びくりと僕を振り返った。吉良くんの視線は高い位置から、徐々に下へと降りてきて、そして足元の僕を見つけた。
 僕が見上げたまま、雨で濡れて重たい耳を伏せ体を低く丸めていると、吉良くんは僕に一歩近づき、膝を折って屈みながら傘を前に突き出した。

「……ツナ?」
「ぅにゃぁぁぁぅぅぅ"!」

 吉良くんが僕の名前を呼んだ途端、僕の胸で何かが弾けて、バカみたいな鳴き声が出ると同時に目から感情が溢れ出した。
 びしょ濡れの体で飛びついたら、吉良くんが傘を手離し両手で僕を抱きしめてくれた。

 吉良くんだ! 吉良くんはまだ僕を覚えていてくれた! あったかくて、優しくて、すごくすごくいい匂いだ!!


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