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第一部【牧瀬くんは猫なので】

37.右がイエスで左がノー

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 ◇






「探した。大丈夫か?」

 目を開けると吉良くんがいた。
 僕の大好きな切れ長の目がこちらを見つめている。
 背の高い吉良くんは、たいがい僕を見下ろすけど、今は埃っぽいウッドデッキに手をついて頬が擦れそうなほどに頭を下げて、猫の姿でうずくまる僕を覗き込んでいる。

 岩壁から落ちてうっかり猫になってしまった僕は、吉良くんの前から逃げ出した。
 もしかしたら僕は吉良くんのことを考えすぎて、幻を見ているのかもしれない。
 今目の前にいるのが本物の吉良くんかどうか確かめるために、僕はまだ開き切らない瞳のままで、吉良くんの首元に擦り寄って鼻をつけた。
 吉良くんは本物だったみたいだ。僕の体を抱き上げると、体を起こして胡座をかいた脚にゆっくりと乗せた。吉良くんの手のひらは優しく包むように僕の両脇を抱えている。

「怪我ない?」

 吉良くんのその質問に、僕は「にゃぅ」と小さく答えた。
 周りはすっかり日が落ちていた。触れた吉良くんの体温を感じて初めて、僕は寒かったのだと実感した。

「まじで焦った。熊にでも食われてたらどうしようかと思ったわ」
「うにゃっ⁉︎ (熊出るの⁈)」

 背中の毛がぽわりと逆立ち、無意識に吉良くんの衣服に爪を立ててしがみついた。

「てか、お前。牧瀬だよな? 俺知らない猫に話しかけてる痛いやつになってねぇ?」

 吉良くんはまた僕の脇に両手を入れて、体を持ち上げた。猫の僕は後ろ足からだらんと伸びて、吉良くんと目線の位置が同じになった。
 僕が答えようがなくて黙っていると、少し考えてから吉良くんは静かに僕をウッドデッキの上に下ろした。
 僕は伏せるように体を丸めて、吉良くんを見上げている。
 吉良くんは座ったまま手の届く範囲に落ちていた小石を二つ僕の前に並べると、右の石がイエスで左の石がノーだと指差した。
 僕は少しだけ顔を起こして、右側の小石(イエス)を鼻で押した。
 それを見た吉良くんは、起こった出来事をなんとか承服しようとしているのか、小さく口を開けて空気を吸い込んでいた。

「えっと、じゃあ。猫、人間」

 吉良くんが指で指し示した。
 右が猫で左が人間。
 その質問は難しかった。僕は鼻で右の小石を押した後、前足で左の小石を突いた。
 吉良くんはなるほどと呟き腕を組んで、なかなかすっきりしない表情だ。

「戻れる、戻れない」

 吉良くんが聞いたのは、人間の姿になれるかという意味だろう。少し緊張した様子の吉良くんの問いに僕は答えないでいた。
 すると今度吉良くんは「戻れるけど戻りたくない、戻りたいけど戻れない」と、目の前の石に交互に触れた。僕は「戻れるけど戻りたくない」の石を突いた。

「なんで?」

 今度の問いは二択じゃないから、猫のままじゃ答えられない質問だ。
 僕は吉良くんの服の裾を小さく爪でひっかいてみた。

「あ、なるほど」
 
 吉良くんは着ていたマウンテンパーカーを脱ぐと僕の背中にあてがうように広げてくれた。
 どうやら吉良くんは、僕は服がないから戻りたくないんだと思ったみたい。

「にゃーうぅぅ…」
「なんだよ、俺の服じゃ不満か?」

 違う。僕は吉良くんに嘘をついていたことと、これから何が起こるかを言葉にして話すのが怖いんだ。
 僕は吉良くんが置いてくれたパーカーの中に潜り込んで、隠れるように裾を掻き集め、その中に立てこもった。
 服の中はまだ体温を残している。吉良くんの匂いがして心地よくて、無性に泣きたくなった。

「おい、こら。牧瀬」

 僕は服越しに吉良くんに突かれた。
 無視していると、吉良くんはパーカーの裾を持ち上げて覗き込もうとしてきたので、僕は猫パンチで応戦した。

「ツナ、こら、出てこい」
「にぁうっ!」

 ほとんど駄々を捏ねるみたいな僕の行動に、吉良くんは小さくため息をついた。

「なあ、ツナ、顔見せろって」

 吉良くんはきっと、人間の僕の顔のことを言っているのだろう。
 僕はぐっと口元を結んで、ますます丸くうずくまった。

「ツナ?」

 また吉良くんが服越しに体を突ついて、僕の前に小石を並べた。僕はパーカーに立てこもっているので、見えているわけではないけど、コツコツという小さな音が聞こえて、それがわかった。
 吉良くんは、僕から見て右がイエスの石で左がノーの石だとだと言った。

「どっかいってほしい。一人になりたい」

 吉良くんのその問いに、僕はパーカーの裾の隙間から片方の前足だけをゆっくり出した。そして、ちょんちょんと手探りでウッドデッキの撫でてから、左(ノー)の小石を突っついた。

「何も話したくない」

 僕は右を突いてから、左を突いた。

「お腹すいた」

 右。

「寒い」

 左。

「俺のこと嫌い」

 僕は左を弾き飛ばした。
 それを見た吉良くんの、息を柔らかく吐くような笑い声が聞こえた。

「なあ、ツナ。好きだよ。出てこい。話したくなかったら何も聞かねぇから」

 僕は吉良くんのパーカーの中で、声を殺して前足で涙を拭った。鼻がツンと痛くなった。

「俺のこと好き?」

 僕はまだ溢れる涙をもう一度だけ拭ってパーカーの隙間から小さな前足をゆっくり伸ばした。
 右(イエス)の石に触れようとしたら、僕の前足が吉良くんの手に触れた。その感触と温度が愛しくてたまらなかった。
 僕は吉良くんのパーカーの中から飛び出すと、その胸元に飛びついた。
 吉良くんは僕を受け止めて、ボワボワのお尻に手を添えた。すっぽりと吉良くんの胸元に収まると、温かくて、とてもとても安心する。ずっとここにいたいくらいだ。
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