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第一部【牧瀬くんは猫なので】

35.四回寝た後①

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 ◇





 生後三ヶ月の猫は人間で言うと五歳ほどになるそうだ。
 その頃、僕は人間に姿を変えられるようのなったばかりだった。
 鏡に映る、人間の僕。
 アーモンド型で少し目尻が上がった目元。瞳は髪の色と同じ薄いブラウンだ。肌が白く幼いせいで、髪が長ければ少女のようにも見えたかも知れない。
 もう少し大きくなったら、人間として暮らすための研修を受けることができる。
 それまでは無闇に人間になって出歩くことはあまり好ましくはないとされていた。だけどそんな曖昧なルールを守らなければと言う気持ちより、子猫は好奇心のほうが勝るのだ。
 兄達の試験の準備の付き添いを理由に僕は世田谷にある牧瀬家に遊びに来ていた。こっそり忍び込んだ部屋のクローゼットの中から、人間の衣服を拝借する。
 僕よりもう少し大きい子供用の服だ。僕は大きめのトレーナーを頭から被った。
 続けて履いたボトムはウェストがガブガブかだ。ずり落ちてきそうだったので、近くにあったクリップで留めた。
 そこまで準備を整えて、僕はこっそりと牧瀬家を抜け出した。
 人間の言葉は喋れないけど、いくつかの簡単な単語は理解できる。今はそれだけで十分だ。
 住宅街をすり抜けて、人通りの多い道に出た。人間たちはここで食べ物を買うらしい。
 魚のマークの旗が揺れているお店から甘くていい匂いがしている。
 魚にしては甘い匂いなんて珍しい!
 僕が店をのぞいていたら、「お嬢ちゃん、ママは?」とカウンターの奥のおじさんに声を掛けられた。
 ママというのは母親のことだ。
 僕はずり落ちそうだったズボンのクリップを止め直しながら首を横に振った。
 そうしたら、おじさんが「内緒だよ」と言いながら甘い魚を一つくれた。
 人間の言葉のお礼がわからないので、僕はただ笑顔を返すと、おじさんは同じように笑顔で手を振ってくれた。
 もらった魚を齧りながら、僕は先へ進んだ。
 魚は外が香ばしくて、中が濃い紫色だ。甘いのは中身の方だった。僕は甘いのが好きなので、中身を大事に食べようと、外側を先に齧っていたら手がベタベタになってしまった。
 少し進んだ先の公園で、小さな犬を連れた女の人が蛇口を捻っていた。女の人は柔らかそうなお皿に水を入れると連れていた犬に飲ませている。
 僕が近寄ると、女の人は「こんにちは」と笑顔になった。犬を見ている僕に、女の人は「撫でてみるか」と聞いてきたけれど、僕がベタベタになった手のひらを見せると、「あらあら」と言って、蛇口を捻って手招きしてくれた。
 僕はその水で手を洗うと、パッパと振ってからトレーナーの裾に擦り付けた。
 そしてしゃがみ込んで犬を眺める。
 普段厄介な犬だけど、こんなふうに繋がれて連れ回されている姿はちょっとかわいそう。僕ら猫は自由気ままにうろちょろするけど、犬はだいたい不自由そうだ。
 女の人に勧められたように、僕が撫でてやろうと犬に手を伸ばしたら「キャン」と鳴かれてしまった。
 僕は女の人にやっぱり触らないと首を振ってから、公園の奥へ向かった。
 そこには何人かの人間の子供がいた。
 公園には僕が遊ぶ猫用の遊具と似たようなのがいくつかあって、人間の子供もその遊具の高いところから滑り降りて遊んでいた。どうやら猫と同じで、人間の子供も高いところが好きみたいだ。
 僕は彼らが遊ぶその場所に近づいてみた。その遊具は小さな山みたいに見えた。中が空洞で進むと向こう側につながっている。
 外に出て形を辿ると、掘り込まれたような段差があって、それを登ると子供達が滑る窪みがあった。
 僕がじっとみていると、滑ってみるかと少し大きな子供が手招きをした。僕が頷き、彼らを真似て登った先の窪みの間に腰を下ろすと、誰かが背中を押してくれた。
 顔に当たる風が前髪を小さく掻き分け、少しだけ疼くお腹の奥が気持ちよかった。
「楽しかった?」と聞かれ、僕が頷くと子供たちは手を引いてもう一度滑らせてくれた。

 いつの間にか日が傾いて、子供たちは徐々に少なくなっていった。
 最後に手を引いてくれた子の元に母親が迎えに来ると、僕は薄暗くなった公園で一人になった。
 もう少しだけ遊びたくて、階段を登った。滑り降りた後で、後一回、今度は頭を下にして滑ってみたらどうなるか試してみたくなった。
 階段を登ってお腹をつけた。漕ぎ出すようにして、トレーナーを擦り付けながら坂道を下る。
 そして終点の砂の中に手をつくと、体を起こして手と服についた砂を払った。

「おい、こんな時間に女の子1人じゃ危ないぞ」

 僕は声を掛けられて顔を上げた。
 男の人だった。若いお兄さんだ。
 研修を始める時期の三毛猫の兄たちが人間になった時と同じくらいの年に見える。ということは二十歳とかそのくらいだろうか。
 お兄さんはすっとした形のいい眉と切れ長の目元で、なんだかかっこいいライオンみたいで整った顔立ちをしている。僕とは違って黒い髪で、背が高いようだ。右肩にはバックを背負っていて、左手にビニール袋をぶら下げている。そして右手に持ったものを何やら口に運んでもぐもぐと食べているようだった。
 さっきの魚はとっくに僕の胃袋からなくなっている。お兄さんが何か食べているのを見ていたら、僕のお腹がぐぅと鳴ってしまった。

「おまえ、親は? 家この近く?」

 お兄さんはもぐもぐと口を動かしながら聞いてくる。
 親も家も意味は知っていたが、答え方がわからなかったので僕は首を横に振った。あとはもうお兄さんの食べているものしか目に入らない。

「食う?」

 お兄さんはビニール袋からもう一つ取り出して僕に差し出してきた。

「魚肉ソーセージだけど」

 そう言って、お兄さんは僕の前で屈みながら、開けにくそうな「魚肉ソーセージ」の封を切った。お兄さんはバナナみたいに皮を剥くと、下の部分を持って僕に差し出してくれた。
 僕はどうしていいかわからなくて、でもお腹がすいてしまっていたので、ついつい我慢できずにお兄さんの手から直接魚肉ソーセージに齧り付いた。
 魚肉ソーセージは見た目通り柔らかい嚙ごたえで、口の中がちょっとしょっぱくなって、その後で魚の風味が広がった。

「うまい?」

 僕はお兄さんのその問いに頷いた。
 お兄さんは僕がお兄さんの手から直接食べる姿を不思議に思ったようだった。だけど、注意したりはしてこないで、その代わり、「変な食べ方だなぁ」と言って少し笑っていた。
 僕が最後の一口まで口に運んだのを確認した後で、お兄さんは僕に「今更俺がいうのもなんだけど、知らない人から食べ物とかもらっちゃダメだぞ」と言った。
 なんでダメなのかよくわからなかったけど、僕はひとまず頷いて見せた。その後で僕は咳き込んだ。喉が渇いて塩味で咽せたのだ。
 お兄さんは咳き込んだ僕をみてまた袋を漁った。でも中を見て少し悩んでから、お兄さんは僕に手招きをした。お兄さんが示した公園の隅には大きな光る箱がある。
 ガラスの中にいくつかカラフルな縦長の入れ物が並んでいて、それを指差しながら「どれがいい?」とお兄さんが僕に聞いた。
 僕はどれがいいのかわからないまま、ガラスの中を見上げていた。
 するとお兄さんは「甘いの好き?」と尋ねてくるので、僕は首を縦に振った。

「冷たいのでいい?」

 お兄さんの言葉にもう一度僕が頷くと、お兄さんは光る箱に何かを押し付けていた。ピッと音が鳴った後、下の方に何かがガタリと落ちてくる。お兄さんから手渡されたのは、ガラスの中に並んでいた縦長の入れ物と同じだった。手に持つと、それはひんやりとしていた。

 僕が戸惑っていると、お兄さんはその入れ物の上の方を捻って、蓋を開けてくれた。
 僕は鼻を近づけて、くんくん匂いを嗅いでみる。甘くてとてもいい匂いがした。口をつけると、想像通りにとろけるような甘い味が口内に広がった。

「うまい?」

 僕はお兄さんのその問いにまたこくこくと頷いた。

「それやるから、早く家帰れ」

 もう一口飲んでから、僕はお兄さんに手を振った。
 角を曲がるまで何度か振り返るとお兄さんは、まだ同じ場所で何かもぐもぐと食べながらこちらを見ていた。そして振り返った僕に気づくと、お兄さんは少し雑に手を振ってくれた。

 人間は僕に優しかった。
 食べ物をくれたし、手を洗ってくれた。一緒に坂から滑り降りてくれた。それに最後にもらった飲み物は最高に甘くて幸せな気分になった。

 牧瀬家に戻って猫になると、僕は借りた服をベッドの下に隠した。
 泥だらけの僕を見て、何してたんだ、と兄にきかれたけれど、庭にネズミが三匹出たから追い返しておいたと嘘をついた。
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