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第一部【牧瀬くんは猫なので】
32.サーモンアボカドサンド
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大きなベッドで布団を被って丸くなっていた僕を、吉良くんが見つけた。
あの日から四ヶ月ほど経って、僕と吉良くんはとても仲良くなった。
僕は週の半分くらい、こうして吉良くんの家で寝泊まりするようになっていた。もちろん、牧瀬家にも許可をもらっている。パートナー候補と親交を深めるための行動で、事前に許可さえとっていれば、牧瀬家はけっこう寛容なのだ。
「おい、いい加減起きろ」
秋が深まるこの頃は、冬の気配を感じるような肌寒い朝も増えていた。
吉良くんの家は基本的に快適な温度だけど、僕は温かくて吉良くんの匂いがする布団を頭まですっぽりかぶると、気持ち良過ぎてなかなか起きることができなかった。
吉良くんは布団越しに僕の上に跨るように膝をつくとガバリと僕の布団をめくった。
眩しいのと体を包んでいた温もりを失ったのとで、僕はギュッと瞼と眉をよせて、吉良くんに奪われた布団を取り戻そうと引っ張った。
「こらこら、また寝ようとすんな。間に合わなくなるぞ」
吉良くんは僕の両手を掴んだ。
上半身だけ無理やり起こされた僕は、そのまま流れるように吉良くんの胸元にパタリと倒れ込んで鼻を擦り付け、すぅっと吉良くんの匂いを吸い込んだ。それから、吉良くんの背中に手を回してぎゅっとしがみつき、そしてまた目を……(スヤァ)
「アホ、寝るなって! 朝飯いつものとこでサンドウィッチ買ってやるから」
吉良くんにペチリと額を叩かれ、僕はしぱしぱする瞼を持ち上げた。
「……サーモンの……やつ……?」
「おう、ホットココアも付けてやる」
「……起きる」
吉良くんのマンションの道路を挟んで向こう側のビルの一階に、朝早くからやってるパン屋があって、そこのサーモンアボカドサンドは僕の好物だ。
吉良くんはのそのそ身支度をする僕の横で、いそいそと荷物を揃えて準備をしていた。時々玄関から外に出てそれを運び出し、車に荷物を移している。
僕は吉良くんに急かされるようにして、マンションの地下駐車場の吉良くんの車の助手席に収まった。
後部座席は空いているけど、そのもう一つ後ろには荷物がぎゅうぎゅうに詰まっている。
しばらく待つと、吉良くんが紙袋を持って運転席に乗り込んだ。紙袋には向かいのパン屋の店名が入っている。
渡された袋は温かくて、僕は中からホットココアとコーヒーの入った紙コップを取り出して、二人の間のドリンクホルダーに収めた。
袋にはちゃんとリクエストしたサーモンアボカドサンドとおまけのスコーンが入っている。コーヒーとココアとパンの匂いで、僕の胸は高揚した。
車の中でこの匂いがする朝は、だいたい楽しいことがある日の朝だ。
僕たちはこれからサークルの合宿にいく。
合宿というのは、前に吉良くんが教えてくれた、天然の岩を登ったり、バーベキューで肉を焼いたりする遊びだ。
僕は窓の外に流れる早朝の街並みと、吉良くんの飲むコーヒーの匂いを嗅ぎながら、サーモンとアボカドの挟まったサンドウィッチを齧った。
少し走って駅の近くに車を停めると、大きい荷物を背負った莉央と河本がやって来た。二人も一緒にこの車でキャンプ場に向かうのだ。
もう絶対入らないと思っていたけど、吉良くんは一度車を降りて、荷台に無理やり莉央と河本の荷物を詰め込んだ。どうやったのか不思議だけど、なんとか収まったみたい。
莉央と河本が後部座席に乗ると、背中が一気に楽しくなって、走る車で僕は何度も振り返った。
吉良くんははしゃぐ僕と莉央に「朝からテンションが高ぇ」と文句を言っていたけど、それでもサングラスの奥の目は笑っていた。
都心の風景が途絶え、しばらく長いコンクリートの道が終わると、少しずつ景色に木々が増えていった。
滑らかだった路面から未舗装の道にかわったことが車の振動で感じ取れた。
道下に川が見えたところで、吉良くんが僕が座る助手席側の窓を開けてくれた。
飛び込んでくる空気に紛れて、湿った葉と土と水の匂いがする。
車を停めてキャンプ場内に荷物を運ぶと、すでに到着していたらしい見知ったサークルメンバーの顔があった。
テントの設営だけを済ませると、クライミング組とハイキング組はそれぞれ身支度をした。
残るメンバーでバーベキューやもろもろの準備をしておいてくれるそうだ。少し申し訳なくも思ったけど、「あいつらは先に酒が飲みたいだけだから大丈夫」という吉良くんの言葉を信じて、僕はクライミング組に混ざらせてもらった。
キャンプ場の脇には清流があってそこから少し冷たい風が時折心地よく流れてきた。その脇を通って進むと山に入る道があった。
ハイキングコースに沿って少しズレたところに、数カ所のクライミングスポットがあるみたいだ。
ジムではカラフルなホールドを追って掴めば良かったけれど、天然の岩場では自分でそれを見定めなければいけないんだって。
とはいえ、今回の場所は難所ではなく、初心者でもそこそこ気軽に楽しめるようなところを、吉良くんたちが選んでくれた。
身一つで登る程度の高さのものもあったけど、今回僕は吉良くんや河本、莉央と一緒に二人一組で行うトップロープクライミングをする予定だ。
これはゴール地点にあらかじめ掛けられているロープを介して、クライマーと、ビレイヤーという補助役に別れて登る方法だ。
ゴール地点を頂点として、井戸の水を組むみたいに、クライマーとビレイヤーをロープで繋いで、ビレイヤーはそのロープを維持することでクライマーの転落を防ぐ安全確保の役割がある。大変そうに感じるけれど、補助役がいるから比較的安全で初心者でも挑戦しやすい方法らしい。
四人の中で、僕と莉央が初心者で、吉良くんと河本は経験者だった。
「万が一落下してきた時に衝突するから、クライマーの真下には入らない。あとは重さで引っ張られて岩壁に激突する場合もあるから、ビレイヤーは必ず岩壁に沿って待機すること」
僕は近ごろかなり言葉を覚えていて、河本がしてくれた説明のほとんどを理解することができた。
初心者だというのに十メートルほどの岩壁に連れてこられた僕と莉央は若干緊張しながら、河本の説明を聞き漏らすまいと真剣に耳を傾けていた。
「じゃ、とりあえず、俺と河本でやってみせるから」
吉良くんが腰に付けたたくさんの装備を確認しながらそう言った。
クライマーよりもビレイヤーの方が安全確保という役割のためか、重要度が高いらしい。今日は経験者の二人がその役割を交互にやってくれるそうだ。
クライマーが河本でビレイヤーが吉良くんだ。
お互いにロープやデバイスの装着を確認し合うと、河本が岩壁の麓の窪みに手足をかけた。
行くよと声をかけた河本に吉良くんが答える。
ルートのわかりやすい初心者向けのポイントということもあってか、経験者の河本は比較的すんなりと中間地点の大きなへこみのあたりまで到達した。
河本が声をかけると、吉良くんがロープを張った。窪みに足をかけて少し休んでいるようだ。
再開した河本は、ゴール地点まで到達すると余裕の合図をこちらに向けた。そして吉良くんにロープを調整してもらいながら、ゆっくりと地上に戻ってくる。
「まあ、こんな感じですよ」
少し得意げな河本に、莉央が「やるじゃん」などと声を掛けている。
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