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第35話
しおりを挟む相変わらず私のことをお姫様扱いしてくれるのは嬉しいけどネル君の前でキスされるのは気恥ずかしいからやめて欲しかった。
――この歳になってごっこ遊びしているのをネル君に知られるのは恥ずかしいわ。ネル君はまだ子供だけど、恋愛については充分理解している年頃よね。……ちょっと刺激が強かったかしら?
今度またエードリヒ様がお姫様と騎士の挨拶をネル君の前でしようとしたらやめるようにお願いしないと。
私がデイジーの花束を眺めながら考え込んでいると、下から声がした。
「お嬢様」
花束を退けて下を見下ろすとネル君が目の前に立っている。
いつもにも増して真剣な表情を浮かべているので、私は真摯に耳を傾けるために一旦花束を邪魔にならない場所に置いた。
「改まってどうしたの?」
「ちょっと右手を出してくれます?」
「うん? 構わないわよ」
不思議に思いながらも、先程エードリヒ様にキスをされた方の手を差し出す。
ネル君は私の手を両手で優しく掴むと、ぎゅっと力を込めてきた。伏し目がちになった白金色の長い睫毛はネル君の白い肌に影を落とす。
やがて瞼を閉じたネル君はエードリヒ様がキスしたところに自分の唇を上書きするように落とした。エードリヒ様はいつも触れるか触れないかの軽いキスだったけど、ネル君のキスはしっとりとした柔らかな唇が肌で感じ取ることができてしまうほどだった。
実際の時間だと一秒も経っていないはずなのに、長い間キスされていたような錯覚に陥ってしまう。
「ネ、ネル君!?」
突然のキスに驚いた私はまごつきながらも話しかける。
するといつにも増して弱々しい声が返ってきた。
「……前にも言いましたけど、僕にとってお嬢様は僕の行く道を照らす太陽。だから、僕だけを照らして欲しい」
今度は私の手を頬に引き寄せるとすりすりと頬ずりしてくる。続いてネル君はゆっくりと顔を上げて私を見上げてきた。
その表情を見た私はハッと息を呑む。夜空の星々を閉じ込めたかのような紺青色の瞳。ずっと見ていたくなるような美しい瞳に、私は吸い込まれそうになった。
「これは僕の我が儘だってことは分かってます。だけど……誰のものにもならないで」
痛切な声が頭の奥にまで響いたかと思うと、脳裏にアル様の姿が浮かんでくる。
ネル君の紺青色の瞳を眺めていたせいだろうか。アル様と同じ色の瞳に見つめられたせいでアル様の姿が頭から離れない。
それを消し去るように目を閉じてから再び瞼を開くと、いつもとは違う精悍な顔つきのネル君が視界に映る。
その瞬間、私の心臓がドドドッと激しく脈打った。あまりの激しさに驚いてしまった私は咄嗟にネル君に掴まれていない方の左手で胸の上の服をぎゅっと掴む。
――まだまだ年端もいかない子にドキドキするなんて。どうしちゃったの? これは多分ネル君の瞳がアル様に似ているせい……よね?
だって、そうじゃないと私は十二歳の男の子にときめいていることになってしまう。
――いろいろと困惑しちゃったけどネル君はアル様に似ているところがあるから、私はネル君の中にアル様を見出しているんだわ。
そうだ。そうに決まっている。
だから小児性愛に目覚めた訳じゃない。
犬や猫のように小さな子を愛でるのに関心があるだけ。邪な感情なんて一切ない。
良かった良かった、と自分の性的嗜好を確認してほっとしたのも束の間。
私はもっと重大なことに気がついてしまった。
――ちょっと待って。そうなると、私は…………アル様が好きってこと?
アル様のことが……好き?
誰が? ――私が。
本当に!?
そこまで考えて私は急いで思考を停止させた。これ以上自分の感情の分析が進んだら何も手につかなくなるし、下手をすれば気絶してしまう。
というより、既に私は何も考えられなくて呆然とその場に立ち尽くしていた。
顔を真っ赤にさせて突っ立ている私は端から見たら滑稽に違いない。
なのにネル君は心配そうに私の顔を覗き込んで声を掛けてくれる。
「お嬢様? あの、大丈夫ですか? 僕の気持ちは迷惑ですか?」
「め、迷惑じゃないわ。ネル君みたいな子に素敵な言葉を掛けてもらえてとても嬉しい」
可愛い男の子に『太陽みたいな存在』だなんて言われて悪い気はしないし、ネル君を愛でる一ファンとしては冥利に尽きる言葉だ。
ところがネル君は腑に落ちないといった様子で表情を曇らせた。
「もしかして、お世辞だと思ってますか?」
「……え?」
突然の質問に反応が遅れてしまう。
ネル君は私の手を掴むと自分の指と絡めるようにして握り締めてくる。
「僕は本気だよ。お嬢様だから自分の気持ちを正直に伝えてるだけ。僕はずっとあなたのスミレ色の瞳に映っていたいし、赤みを帯びた金色や白い肌に触れたいと思ってます」
私を射貫く真っ直ぐな眼差しに嘘偽りはなく、ただ大人の真似ごとをしたいというわけでもないようだった。
こんなに真剣な言葉は人生で一度も言われたことがなかった。ネル君から発せられた言葉は刺激的で。もうどんな顔をしていいのか、どう対処していいのか混迷を極めた私はとうとう顔を伏せてしまった。
「耳の先まで真っ赤な反応を見るに、こんな姿の僕でも望み薄じゃないって希望を持ってもいいのかな? ……ねえ、シュゼットお嬢様」
「……っ!!」
吐息混じりの声が耳朶に触れ、私の顔に再び熱が集中する。柔らかな声はまだ少年らしさがあるというのに凜々しさが交じっている。
そのせいだろうか。不思議なことにその声質はアル様を連想させ、今度は耳の先までと言わず全身がカアッと熱くなった。
「シュゼット令嬢」
ネル君は空いている方の手を私の頬へおもむろに伸ばしてくる。
……ドンドン。
突然、厨房勝手口を力強く叩く音が聞こえてきた。助け船が来たと言わんばかりに私はさっとネル君から離れると、勝手口の扉を開けにいく。
確か今日は材料配達の日だ。この間小麦粉とふくらし粉を大量に注文したから届けてくれる手はずになっている。
「来るのが早いわね。配達どうもありが……」
相手を確認した途端、笑顔で対応しようとしていた私の気持ちが一気に削がれた。
戸口の前に立っていたのは品の良い壮年の男性で、彼はプラクトス伯爵家の執事。その背後にいるのは彼の下で仕える侍従だった。
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