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第四幕&幕間

「おまえさえいれば、帰る場所なんかいらない。」~雷の絆・炎の約束~

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第四幕 暁闇(語り 雷火らいか

 ふと、顔を上げた。
 夜空には、冴えた光を放つ月が坐し、京の夜を白々と照らしている。
 それだけだ。なのになぜ、オレは今、誰かに呼ばれた気がしたのか。
 オレを呼ぶ奴など、誰もいないというのに。そもそも、ここに見知った相手など。
 いや、一匹、いるか。
 ぎゃんぎゃんとうるさく喚くチビの顔が浮かんでしまい、オレはチッと舌打ちした。
 そう言えば、と今更気づく。
 ここ数日、あいつの顔を見ていない。どういう方法でオレの居場所を突き止めているのか知らないが、なぜか、オレの前に必ず現れる、うっとうしい奴だったのだが。
 何度痛めつけても、懲りずに挑んできやがったが、流石にあきらめたか。
(!)
 まただ。
 つきり、角の根本が痛む。
 なんだ、これは。
 突き刺さってくるような、強く訴えてくるような、悲痛で、切ない、誰かの…声?
 オレは、走り出した。
 オレを呼んでいる声の元へ。

 小さな体が、鮮血の海に沈んでいる。
 右腕で抱き起して、左手をかざした。
「天癒。」
 かざした手から降り注ぐ、乳白色の光が、傷を塞ぎ、どくどくと流れ続けていた血を止めた。
「う…。」
 唇からかすかな声がもれ、チビが薄く目を開けた。
「おまえ…なんで…。」
「黙れ。」
 オレは、チビの言葉を一蹴する。
 チビの手がゆっくりと上がり、オレの左手に触れた。
「名前…教えろ…。」
 何を言い出しやがる。眉をひそめたオレに、チビが吐息だけで言葉をつむぐ。
「おまえの…名前…。」
「てめえ、この状況で、何言って。」
「死にたくないけど…死ぬかもしれない…だから…知りたい…。」
 オレは、苛立ちと共に吐き出す。
「雷火。」
「雷の…火…?」
「ああ。」
 チビは、かすかに笑った。同じ字、と呟いた気がしたが、よく聞き取れなかった。
 かくん、と手が落ちる。
 ぎょっとしたが、息はある。弱々しいが、鼓動も。傷はかろうじて塞いだ。今すぐにこの息が止まることはないだろう。
「雷火。てめえ、どういうつもりだ。」
 憎々しげな村雨むらさめの声に、オレは顔を上げた。
 チビを片手に抱えたまま、立ち上がる。
「それは、こっちの台詞だ。」
 自分でも驚くほど低い、冷え冷えと凍てついた声だった。村雨の両肩が、びくりとはねる。
「こいつは、オレの獲物だ。勝手に手を出した以上、どうなるかわかってんだろうな。」
 煮え立つように、腹の底からこみ上げる怒りがある。目の前が真っ赤に染まる。
 その怒りのまま、オレは村雨を睨み据えた。
 村雨が、一歩、後ずさった。それでも、顔を引きつらせながらも、声を張り上げた。
「ふざけんじゃねえよ!オレは見てたんだぜ!何度も見逃してたじゃねえか!結局、殺せねえんだろう!何が獲物だよ!情でも湧いたのかよ!てめえらしくもねえ。」
「天雷!」
 これ以上、黙って聞いている気はなかった。
 雷が、轟音とともに炸裂する。
「氷壁!」
 村雨がとっさに作った氷の壁を、雷が粉砕する。
 幾百の氷の破片が、月光を反射して降り注ぐ。
 雷は、ほとんど勢いを削がれることなく、村雨たちを直撃した。
 閃光。
 全てが、蒼白い光に蹂躙される。
 大地を揺るがす衝撃と、吹き荒れる爆風。
 光が消えた時には、黒焦げの死体が転がっていた。
 肉の焼けた臭いの中で。
 何の感情も湧かない。
 仲間だなどと思ったことは、一度も無い。それでも、何年も共に過ごした奴らだ。それを、この手で殺しても、罪の欠片も感じない。
 オレはやはり鬼だなと、どこか他人事のように思った。
 腕に抱えたままの軽い体が、かすかに身じろぎした。
 オレは、ハッと我に返る。
 とにかく、早くこいつの治癒を、と考えて、オレは凍りついた。

 オレは、なぜ、こいつを助けようとしている?

 こいつは、オレの獲物だ。横取りはさせない。それだけのはずだ。今ここでオレが殺せば、村雨たちに殺されたことにはならない。それなのに。
「これは、面白い光景だね。仲間の鬼は平気で殺して、どうして陰陽師の子どもは助けるのかな?」
 オレの心を読んだかのように響いた、その声の主は。
「酒呑童子…。」
 なぜここに、とは思わなかった。知った奴の気配なら、オレでも追える。鬼の首領のこいつには、オレたちの居場所くらい、手に取るようにわかるだろう。
 酒呑童子は、ゆっくりと歩み寄って来る。吐息のかかる距離まで。波打つ黒髪が、ぬらりと月光を弾く。
 妖しく笑んだ深紅の唇。
 オレは、チビを抱えた腕に力を込めた。
 守らなければならない。
 理由などどうでもいい。
 オレは、こいつを、守らなければならない。
「雷火。」
 ゾッとするほど妖艶で甘美で、なのに吐き気がするほどの猛毒を含んだ声。
「おまえは、その子どもに惹かれているね。」
「違う、オレは。」
「でも、その子を助けて、どうするつもりかな?その子どもは、人間。そして、陰陽師。けっして、我ら鬼とは相容れない。共に生きることなど、できはしないよ。」
「そんなことは望んでねえ。」
 きっぱりと言う。
「そう。だったらおまえは、何を望んでいるのかな?」
 酒呑童子は、オレの言葉を繰り返す。オレに問うのは、覚悟か、それとも。
「言っておくけれど、いくら私がおまえに甘くても、陰陽師を助けるために仲間を殺した罪を、見逃すことはできないよ。」
 ささやくように、歌うように語る声は、優しげでさえある。だが、その奥に、魂を切り刻む、氷の殺意がある。
 これが、酒呑童子の本性だ。
「ねえ、雷火。」
 酒呑童子は、膝を折って、オレをのぞきこんだ。ふわりと、甘い香りがする。酩酊を誘うような甘さだ。
「私は、本当に、おまえが気に入っているんだよ。初めて会ったあの夜から、ずっとね。」
 耳朶に触れるほど間近から、ささやかれる声。遠い記憶が甦る。薄紅の桜吹雪。蒼い月光。唇の妖艶な朱。
「誰も信じないおまえ。誰にも心を開かないおまえ。だからこそ、その目を私に向けさせたい。おまえの心を、私が手に入れたい。」
 鮮血の真紅の双眸。
「ずっとおまえが欲しかった。横取りされるのは、面白くないよ。」
 すうっと、赤い目が三日月を描く。
「だから、おまえに考える時間をあげよう。ここでおまえを殺すことも、できなくはないけれど、それではつまらないからね。」
 白い手が伸びてくる。
「その子を殺して、生首を私に持っておいで。」
 オレは、その手を振り払った。
 パン、と甲高い音がした。
「おまえが、自分の意志で私のもとに戻ってくるなら、今回の件はなかったことにしてあげよう。」
 酒呑童子の表情も、声音も、何も変わらなかった。
 流れるような優雅な所作で身を翻し、振り向かずに言った。
「戻らないなら、殺すよ。」
 腹の底に響く凄みがあった。それなのに、蜜のように甘い声だった。
「血の果てまで追い詰めて、必ず殺す。私は、大江山の酒呑童子。怒らせて無事に済むと思ってはいないだろう?」
 オレは、ぎりっと奥歯をかみしめた。
 酒呑童子の強さは本物だ。だが、それがどうした。引く気はない。オレは、誰にも従わない。誰の指図も受けない。
 すうっと、息を吸いこむ。
「忘れちまったのか、酒呑童子。」
 酒呑童子の足が止まる。オレは、その背中に声を叩きつける。
「気に入らなきゃ、オレは出ていく。そう言ったはずだぜ。」
 酒呑童子の肩が、小刻みに震えた。
「…まったく…これだから…おまえは、面白くてたまらない…。逃がさないよ、雷火。」

 京は、朱雀大路を挟んで、左京と右京に分かれる。大貴族の屋敷が立ち並ぶ左京と異なり、右京は荒れ果てている。
 オレは、右京の一画、今にも崩れ落ちそうな廃屋の床に、チビの体を横たえた。
 大量の血を吸って、元の色がわからなくなった水干をはだける。
 無惨に肉が抉り取られているが分かり、オレは唇をかみしめた。
 さっきの天癒は、かろうじて傷口の表面を塞いだだけだ。あの場では、奥まで再生させる余裕はなかった。血も失われすぎた。常とは違う、紙のような顔色。
「天癒。」
 乳白色の光が傷を包み込み、少しずつ癒していく。その遅さに舌打ちする。
 正直、癒しの術は不得手だ。今までほとんど使う機会がなかったせいだ。慣れていないせいで、効果は薄いくせに、力はやたらと喰う。肩の辺りがずしりと重くなってくる。流れ落ちる汗をぬぐい、オレは奥歯をかみしめる。
 オレは、どうしても、こいつを死なせるわけにはいかない。
 チビのまぶたが、ゆっくりと上がった。大きな漆黒の目がオレをとらえる。
「雷火…。」
 力のない声だった。ほとんど吐息だけの。
 くそっ。
 聞きたいのはこんな声じゃねえ。
「助けてやる。絶対に。」
 オレの中の全ての力を注ぎ込む。光が輝きを増す。
 ずきり、とこめかみが痛んだ。眩暈がする。疲労がのしかかってくる。
 限界が近いのか。それでも、オレは。
「信じる。ありがとう。」
「っ。」
 笑った顔に呼吸が止まった。
 生死の境をさまよう深手を負い、激痛の渦中にいることを感じさせない、満面の笑み。
 一瞬、何もかも忘れて見惚れた。
 炎のような、日輪のような、輝きだった。

 丑の刻を過ぎた。破れた天井からのぞく月でさえ、大分傾いた頃。
 チビの顔に赤みが差してきた。失われた肉も、ほとんど再生した。
 穏やかな寝息をたてて、チビは眠っている。
 ふぅ、と息をついた。
 峠を越えた。
 肩から力が抜ける。崩れ落ちる。
 体が重い。泥の中に沈んだように、もう、指一本動かせない。
 眠りたい。
 少しだけと決めて、オレはまぶたを閉じた。

幕間(語り 火陽かよう雷火らいか

 腹の辺りがずんと重い。それが、鈍い痛みだと気づいて、オレは目を開けた。
 最初に目に飛びこんで来たのは、銀の光。
 淡い空色を帯びた純銀は、雷火の髪だとすぐにわかった。
(雷火…。)
 違和感があったのは、その目が閉じられていたからだ。
 刃のように鋭く輝く蒼い瞳が見えないと、けっこう子どもっぽい。オレよりは上だろうけど、兄上と同じくらいの年に見える。
 目を閉じて、寝息をたてている雷火。
 寝顔を見たのは初めてだ。というか、こんなに静かに、穏やかにこいつの顔を眺めたことなんて、今まで一度もなかった。
 初めて会った夜、まだ何も知らずにその姿を見た時、美しさに見惚れたことを思い出す。
 こんなに綺麗な顔をしていたんだよな。
 ふいに、泣きそうになった。
(雷火が助けてくれた。)
 痛みじゃない、痛みを打ち消すくらい熱いもので、胸が震えた。
 手を伸ばしかけて、止める。
 触ったら、起こしてしまうと思った。こいつは、野生の獣と同じだから。
 このまま雷火を見ていたい。

 胸の辺りが温かくて、目が覚めた。
 ぼんやりと目を開けた。つむじが見えた。伝わってくる鼓動。
 チビが、オレの胸に頬をくっつけて眠っていた。
 舌打ちしかけた。接近されて気づかないのは命とりだというのに。こいつが重傷だから無意識に油断したのか。それとも…こいつに敵意がないからか。
 安心しきった、幼い寝顔だ。
 揺さぶり起こそうと腕を上げて、止めた。
 こんな時間は、すぐ終わる。刹那に消え去る、一時の夢幻だ。
 だったらもう少しだけ、この眠りを守ってやってもいい。どうせ、こいつと共にいるのは、あと数刻だ。こいつが目を覚ますまでだ。
 鬼になり、親に捨てられたあの日から、誰にも頼ったことはない。誰も信じたことはない。
 鬼になる前のことは、既に記憶がおぼろげだが、その頃から、オレに情などなかっただろう。親に捨てられたことに傷ついてもいなければ、裏切られたと親を恨む気持ちすらない。親の顔も、つけられた名前も忘れたくらいだ。
 オレには誰も必要ない。もちろん、こいつもだ。
 オレは、一人で生きていける。
 こいつとは違う。
 こいつにはきっと、帰る場所も待つ相手もいるはずだ。寝顔を見ていたら、そう思った。
 だったら、戻るべきだと。

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