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第四幕&幕間
「おまえさえいれば、帰る場所なんかいらない。」~雷の絆・炎の約束~
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第四幕 暁闇(語り 雷火)
ふと、顔を上げた。
夜空には、冴えた光を放つ月が坐し、京の夜を白々と照らしている。
それだけだ。なのになぜ、オレは今、誰かに呼ばれた気がしたのか。
オレを呼ぶ奴など、誰もいないというのに。そもそも、ここに見知った相手など。
いや、一匹、いるか。
ぎゃんぎゃんとうるさく喚くチビの顔が浮かんでしまい、オレはチッと舌打ちした。
そう言えば、と今更気づく。
ここ数日、あいつの顔を見ていない。どういう方法でオレの居場所を突き止めているのか知らないが、なぜか、オレの前に必ず現れる、うっとうしい奴だったのだが。
何度痛めつけても、懲りずに挑んできやがったが、流石にあきらめたか。
(!)
まただ。
つきり、角の根本が痛む。
なんだ、これは。
突き刺さってくるような、強く訴えてくるような、悲痛で、切ない、誰かの…声?
オレは、走り出した。
オレを呼んでいる声の元へ。
☆
小さな体が、鮮血の海に沈んでいる。
右腕で抱き起して、左手をかざした。
「天癒。」
かざした手から降り注ぐ、乳白色の光が、傷を塞ぎ、どくどくと流れ続けていた血を止めた。
「う…。」
唇からかすかな声がもれ、チビが薄く目を開けた。
「おまえ…なんで…。」
「黙れ。」
オレは、チビの言葉を一蹴する。
チビの手がゆっくりと上がり、オレの左手に触れた。
「名前…教えろ…。」
何を言い出しやがる。眉をひそめたオレに、チビが吐息だけで言葉をつむぐ。
「おまえの…名前…。」
「てめえ、この状況で、何言って。」
「死にたくないけど…死ぬかもしれない…だから…知りたい…。」
オレは、苛立ちと共に吐き出す。
「雷火。」
「雷の…火…?」
「ああ。」
チビは、かすかに笑った。同じ字、と呟いた気がしたが、よく聞き取れなかった。
かくん、と手が落ちる。
ぎょっとしたが、息はある。弱々しいが、鼓動も。傷はかろうじて塞いだ。今すぐにこの息が止まることはないだろう。
「雷火。てめえ、どういうつもりだ。」
憎々しげな村雨の声に、オレは顔を上げた。
チビを片手に抱えたまま、立ち上がる。
「それは、こっちの台詞だ。」
自分でも驚くほど低い、冷え冷えと凍てついた声だった。村雨の両肩が、びくりとはねる。
「こいつは、オレの獲物だ。勝手に手を出した以上、どうなるかわかってんだろうな。」
煮え立つように、腹の底からこみ上げる怒りがある。目の前が真っ赤に染まる。
その怒りのまま、オレは村雨を睨み据えた。
村雨が、一歩、後ずさった。それでも、顔を引きつらせながらも、声を張り上げた。
「ふざけんじゃねえよ!オレは見てたんだぜ!何度も見逃してたじゃねえか!結局、殺せねえんだろう!何が獲物だよ!情でも湧いたのかよ!てめえらしくもねえ。」
「天雷!」
これ以上、黙って聞いている気はなかった。
雷が、轟音とともに炸裂する。
「氷壁!」
村雨がとっさに作った氷の壁を、雷が粉砕する。
幾百の氷の破片が、月光を反射して降り注ぐ。
雷は、ほとんど勢いを削がれることなく、村雨たちを直撃した。
閃光。
全てが、蒼白い光に蹂躙される。
大地を揺るがす衝撃と、吹き荒れる爆風。
光が消えた時には、黒焦げの死体が転がっていた。
肉の焼けた臭いの中で。
何の感情も湧かない。
仲間だなどと思ったことは、一度も無い。それでも、何年も共に過ごした奴らだ。それを、この手で殺しても、罪の欠片も感じない。
オレはやはり鬼だなと、どこか他人事のように思った。
腕に抱えたままの軽い体が、かすかに身じろぎした。
オレは、ハッと我に返る。
とにかく、早くこいつの治癒を、と考えて、オレは凍りついた。
オレは、なぜ、こいつを助けようとしている?
こいつは、オレの獲物だ。横取りはさせない。それだけのはずだ。今ここでオレが殺せば、村雨たちに殺されたことにはならない。それなのに。
「これは、面白い光景だね。仲間の鬼は平気で殺して、どうして陰陽師の子どもは助けるのかな?」
オレの心を読んだかのように響いた、その声の主は。
「酒呑童子…。」
なぜここに、とは思わなかった。知った奴の気配なら、オレでも追える。鬼の首領のこいつには、オレたちの居場所くらい、手に取るようにわかるだろう。
酒呑童子は、ゆっくりと歩み寄って来る。吐息のかかる距離まで。波打つ黒髪が、ぬらりと月光を弾く。
妖しく笑んだ深紅の唇。
オレは、チビを抱えた腕に力を込めた。
守らなければならない。
理由などどうでもいい。
オレは、こいつを、守らなければならない。
「雷火。」
ゾッとするほど妖艶で甘美で、なのに吐き気がするほどの猛毒を含んだ声。
「おまえは、その子どもに惹かれているね。」
「違う、オレは。」
「でも、その子を助けて、どうするつもりかな?その子どもは、人間。そして、陰陽師。けっして、我ら鬼とは相容れない。共に生きることなど、できはしないよ。」
「そんなことは望んでねえ。」
きっぱりと言う。
「そう。だったらおまえは、何を望んでいるのかな?」
酒呑童子は、オレの言葉を繰り返す。オレに問うのは、覚悟か、それとも。
「言っておくけれど、いくら私がおまえに甘くても、陰陽師を助けるために仲間を殺した罪を、見逃すことはできないよ。」
ささやくように、歌うように語る声は、優しげでさえある。だが、その奥に、魂を切り刻む、氷の殺意がある。
これが、酒呑童子の本性だ。
「ねえ、雷火。」
酒呑童子は、膝を折って、オレをのぞきこんだ。ふわりと、甘い香りがする。酩酊を誘うような甘さだ。
「私は、本当に、おまえが気に入っているんだよ。初めて会ったあの夜から、ずっとね。」
耳朶に触れるほど間近から、ささやかれる声。遠い記憶が甦る。薄紅の桜吹雪。蒼い月光。唇の妖艶な朱。
「誰も信じないおまえ。誰にも心を開かないおまえ。だからこそ、その目を私に向けさせたい。おまえの心を、私が手に入れたい。」
鮮血の真紅の双眸。
「ずっとおまえが欲しかった。横取りされるのは、面白くないよ。」
すうっと、赤い目が三日月を描く。
「だから、おまえに考える時間をあげよう。ここでおまえを殺すことも、できなくはないけれど、それではつまらないからね。」
白い手が伸びてくる。
「その子を殺して、生首を私に持っておいで。」
オレは、その手を振り払った。
パン、と甲高い音がした。
「おまえが、自分の意志で私のもとに戻ってくるなら、今回の件はなかったことにしてあげよう。」
酒呑童子の表情も、声音も、何も変わらなかった。
流れるような優雅な所作で身を翻し、振り向かずに言った。
「戻らないなら、殺すよ。」
腹の底に響く凄みがあった。それなのに、蜜のように甘い声だった。
「血の果てまで追い詰めて、必ず殺す。私は、大江山の酒呑童子。怒らせて無事に済むと思ってはいないだろう?」
オレは、ぎりっと奥歯をかみしめた。
酒呑童子の強さは本物だ。だが、それがどうした。引く気はない。オレは、誰にも従わない。誰の指図も受けない。
すうっと、息を吸いこむ。
「忘れちまったのか、酒呑童子。」
酒呑童子の足が止まる。オレは、その背中に声を叩きつける。
「気に入らなきゃ、オレは出ていく。そう言ったはずだぜ。」
酒呑童子の肩が、小刻みに震えた。
「…まったく…これだから…おまえは、面白くてたまらない…。逃がさないよ、雷火。」
☆
京は、朱雀大路を挟んで、左京と右京に分かれる。大貴族の屋敷が立ち並ぶ左京と異なり、右京は荒れ果てている。
オレは、右京の一画、今にも崩れ落ちそうな廃屋の床に、チビの体を横たえた。
大量の血を吸って、元の色がわからなくなった水干をはだける。
無惨に肉が抉り取られているが分かり、オレは唇をかみしめた。
さっきの天癒は、かろうじて傷口の表面を塞いだだけだ。あの場では、奥まで再生させる余裕はなかった。血も失われすぎた。常とは違う、紙のような顔色。
「天癒。」
乳白色の光が傷を包み込み、少しずつ癒していく。その遅さに舌打ちする。
正直、癒しの術は不得手だ。今までほとんど使う機会がなかったせいだ。慣れていないせいで、効果は薄いくせに、力はやたらと喰う。肩の辺りがずしりと重くなってくる。流れ落ちる汗をぬぐい、オレは奥歯をかみしめる。
オレは、どうしても、こいつを死なせるわけにはいかない。
チビのまぶたが、ゆっくりと上がった。大きな漆黒の目がオレをとらえる。
「雷火…。」
力のない声だった。ほとんど吐息だけの。
くそっ。
聞きたいのはこんな声じゃねえ。
「助けてやる。絶対に。」
オレの中の全ての力を注ぎ込む。光が輝きを増す。
ずきり、とこめかみが痛んだ。眩暈がする。疲労がのしかかってくる。
限界が近いのか。それでも、オレは。
「信じる。ありがとう。」
「っ。」
笑った顔に呼吸が止まった。
生死の境をさまよう深手を負い、激痛の渦中にいることを感じさせない、満面の笑み。
一瞬、何もかも忘れて見惚れた。
炎のような、日輪のような、輝きだった。
☆
丑の刻を過ぎた。破れた天井からのぞく月でさえ、大分傾いた頃。
チビの顔に赤みが差してきた。失われた肉も、ほとんど再生した。
穏やかな寝息をたてて、チビは眠っている。
ふぅ、と息をついた。
峠を越えた。
肩から力が抜ける。崩れ落ちる。
体が重い。泥の中に沈んだように、もう、指一本動かせない。
眠りたい。
少しだけと決めて、オレはまぶたを閉じた。
幕間(語り 火陽・雷火)
腹の辺りがずんと重い。それが、鈍い痛みだと気づいて、オレは目を開けた。
最初に目に飛びこんで来たのは、銀の光。
淡い空色を帯びた純銀は、雷火の髪だとすぐにわかった。
(雷火…。)
違和感があったのは、その目が閉じられていたからだ。
刃のように鋭く輝く蒼い瞳が見えないと、けっこう子どもっぽい。オレよりは上だろうけど、兄上と同じくらいの年に見える。
目を閉じて、寝息をたてている雷火。
寝顔を見たのは初めてだ。というか、こんなに静かに、穏やかにこいつの顔を眺めたことなんて、今まで一度もなかった。
初めて会った夜、まだ何も知らずにその姿を見た時、美しさに見惚れたことを思い出す。
こんなに綺麗な顔をしていたんだよな。
ふいに、泣きそうになった。
(雷火が助けてくれた。)
痛みじゃない、痛みを打ち消すくらい熱いもので、胸が震えた。
手を伸ばしかけて、止める。
触ったら、起こしてしまうと思った。こいつは、野生の獣と同じだから。
このまま雷火を見ていたい。
☆
胸の辺りが温かくて、目が覚めた。
ぼんやりと目を開けた。つむじが見えた。伝わってくる鼓動。
チビが、オレの胸に頬をくっつけて眠っていた。
舌打ちしかけた。接近されて気づかないのは命とりだというのに。こいつが重傷だから無意識に油断したのか。それとも…こいつに敵意がないからか。
安心しきった、幼い寝顔だ。
揺さぶり起こそうと腕を上げて、止めた。
こんな時間は、すぐ終わる。刹那に消え去る、一時の夢幻だ。
だったらもう少しだけ、この眠りを守ってやってもいい。どうせ、こいつと共にいるのは、あと数刻だ。こいつが目を覚ますまでだ。
鬼になり、親に捨てられたあの日から、誰にも頼ったことはない。誰も信じたことはない。
鬼になる前のことは、既に記憶がおぼろげだが、その頃から、オレに情などなかっただろう。親に捨てられたことに傷ついてもいなければ、裏切られたと親を恨む気持ちすらない。親の顔も、つけられた名前も忘れたくらいだ。
オレには誰も必要ない。もちろん、こいつもだ。
オレは、一人で生きていける。
こいつとは違う。
こいつにはきっと、帰る場所も待つ相手もいるはずだ。寝顔を見ていたら、そう思った。
だったら、戻るべきだと。
ふと、顔を上げた。
夜空には、冴えた光を放つ月が坐し、京の夜を白々と照らしている。
それだけだ。なのになぜ、オレは今、誰かに呼ばれた気がしたのか。
オレを呼ぶ奴など、誰もいないというのに。そもそも、ここに見知った相手など。
いや、一匹、いるか。
ぎゃんぎゃんとうるさく喚くチビの顔が浮かんでしまい、オレはチッと舌打ちした。
そう言えば、と今更気づく。
ここ数日、あいつの顔を見ていない。どういう方法でオレの居場所を突き止めているのか知らないが、なぜか、オレの前に必ず現れる、うっとうしい奴だったのだが。
何度痛めつけても、懲りずに挑んできやがったが、流石にあきらめたか。
(!)
まただ。
つきり、角の根本が痛む。
なんだ、これは。
突き刺さってくるような、強く訴えてくるような、悲痛で、切ない、誰かの…声?
オレは、走り出した。
オレを呼んでいる声の元へ。
☆
小さな体が、鮮血の海に沈んでいる。
右腕で抱き起して、左手をかざした。
「天癒。」
かざした手から降り注ぐ、乳白色の光が、傷を塞ぎ、どくどくと流れ続けていた血を止めた。
「う…。」
唇からかすかな声がもれ、チビが薄く目を開けた。
「おまえ…なんで…。」
「黙れ。」
オレは、チビの言葉を一蹴する。
チビの手がゆっくりと上がり、オレの左手に触れた。
「名前…教えろ…。」
何を言い出しやがる。眉をひそめたオレに、チビが吐息だけで言葉をつむぐ。
「おまえの…名前…。」
「てめえ、この状況で、何言って。」
「死にたくないけど…死ぬかもしれない…だから…知りたい…。」
オレは、苛立ちと共に吐き出す。
「雷火。」
「雷の…火…?」
「ああ。」
チビは、かすかに笑った。同じ字、と呟いた気がしたが、よく聞き取れなかった。
かくん、と手が落ちる。
ぎょっとしたが、息はある。弱々しいが、鼓動も。傷はかろうじて塞いだ。今すぐにこの息が止まることはないだろう。
「雷火。てめえ、どういうつもりだ。」
憎々しげな村雨の声に、オレは顔を上げた。
チビを片手に抱えたまま、立ち上がる。
「それは、こっちの台詞だ。」
自分でも驚くほど低い、冷え冷えと凍てついた声だった。村雨の両肩が、びくりとはねる。
「こいつは、オレの獲物だ。勝手に手を出した以上、どうなるかわかってんだろうな。」
煮え立つように、腹の底からこみ上げる怒りがある。目の前が真っ赤に染まる。
その怒りのまま、オレは村雨を睨み据えた。
村雨が、一歩、後ずさった。それでも、顔を引きつらせながらも、声を張り上げた。
「ふざけんじゃねえよ!オレは見てたんだぜ!何度も見逃してたじゃねえか!結局、殺せねえんだろう!何が獲物だよ!情でも湧いたのかよ!てめえらしくもねえ。」
「天雷!」
これ以上、黙って聞いている気はなかった。
雷が、轟音とともに炸裂する。
「氷壁!」
村雨がとっさに作った氷の壁を、雷が粉砕する。
幾百の氷の破片が、月光を反射して降り注ぐ。
雷は、ほとんど勢いを削がれることなく、村雨たちを直撃した。
閃光。
全てが、蒼白い光に蹂躙される。
大地を揺るがす衝撃と、吹き荒れる爆風。
光が消えた時には、黒焦げの死体が転がっていた。
肉の焼けた臭いの中で。
何の感情も湧かない。
仲間だなどと思ったことは、一度も無い。それでも、何年も共に過ごした奴らだ。それを、この手で殺しても、罪の欠片も感じない。
オレはやはり鬼だなと、どこか他人事のように思った。
腕に抱えたままの軽い体が、かすかに身じろぎした。
オレは、ハッと我に返る。
とにかく、早くこいつの治癒を、と考えて、オレは凍りついた。
オレは、なぜ、こいつを助けようとしている?
こいつは、オレの獲物だ。横取りはさせない。それだけのはずだ。今ここでオレが殺せば、村雨たちに殺されたことにはならない。それなのに。
「これは、面白い光景だね。仲間の鬼は平気で殺して、どうして陰陽師の子どもは助けるのかな?」
オレの心を読んだかのように響いた、その声の主は。
「酒呑童子…。」
なぜここに、とは思わなかった。知った奴の気配なら、オレでも追える。鬼の首領のこいつには、オレたちの居場所くらい、手に取るようにわかるだろう。
酒呑童子は、ゆっくりと歩み寄って来る。吐息のかかる距離まで。波打つ黒髪が、ぬらりと月光を弾く。
妖しく笑んだ深紅の唇。
オレは、チビを抱えた腕に力を込めた。
守らなければならない。
理由などどうでもいい。
オレは、こいつを、守らなければならない。
「雷火。」
ゾッとするほど妖艶で甘美で、なのに吐き気がするほどの猛毒を含んだ声。
「おまえは、その子どもに惹かれているね。」
「違う、オレは。」
「でも、その子を助けて、どうするつもりかな?その子どもは、人間。そして、陰陽師。けっして、我ら鬼とは相容れない。共に生きることなど、できはしないよ。」
「そんなことは望んでねえ。」
きっぱりと言う。
「そう。だったらおまえは、何を望んでいるのかな?」
酒呑童子は、オレの言葉を繰り返す。オレに問うのは、覚悟か、それとも。
「言っておくけれど、いくら私がおまえに甘くても、陰陽師を助けるために仲間を殺した罪を、見逃すことはできないよ。」
ささやくように、歌うように語る声は、優しげでさえある。だが、その奥に、魂を切り刻む、氷の殺意がある。
これが、酒呑童子の本性だ。
「ねえ、雷火。」
酒呑童子は、膝を折って、オレをのぞきこんだ。ふわりと、甘い香りがする。酩酊を誘うような甘さだ。
「私は、本当に、おまえが気に入っているんだよ。初めて会ったあの夜から、ずっとね。」
耳朶に触れるほど間近から、ささやかれる声。遠い記憶が甦る。薄紅の桜吹雪。蒼い月光。唇の妖艶な朱。
「誰も信じないおまえ。誰にも心を開かないおまえ。だからこそ、その目を私に向けさせたい。おまえの心を、私が手に入れたい。」
鮮血の真紅の双眸。
「ずっとおまえが欲しかった。横取りされるのは、面白くないよ。」
すうっと、赤い目が三日月を描く。
「だから、おまえに考える時間をあげよう。ここでおまえを殺すことも、できなくはないけれど、それではつまらないからね。」
白い手が伸びてくる。
「その子を殺して、生首を私に持っておいで。」
オレは、その手を振り払った。
パン、と甲高い音がした。
「おまえが、自分の意志で私のもとに戻ってくるなら、今回の件はなかったことにしてあげよう。」
酒呑童子の表情も、声音も、何も変わらなかった。
流れるような優雅な所作で身を翻し、振り向かずに言った。
「戻らないなら、殺すよ。」
腹の底に響く凄みがあった。それなのに、蜜のように甘い声だった。
「血の果てまで追い詰めて、必ず殺す。私は、大江山の酒呑童子。怒らせて無事に済むと思ってはいないだろう?」
オレは、ぎりっと奥歯をかみしめた。
酒呑童子の強さは本物だ。だが、それがどうした。引く気はない。オレは、誰にも従わない。誰の指図も受けない。
すうっと、息を吸いこむ。
「忘れちまったのか、酒呑童子。」
酒呑童子の足が止まる。オレは、その背中に声を叩きつける。
「気に入らなきゃ、オレは出ていく。そう言ったはずだぜ。」
酒呑童子の肩が、小刻みに震えた。
「…まったく…これだから…おまえは、面白くてたまらない…。逃がさないよ、雷火。」
☆
京は、朱雀大路を挟んで、左京と右京に分かれる。大貴族の屋敷が立ち並ぶ左京と異なり、右京は荒れ果てている。
オレは、右京の一画、今にも崩れ落ちそうな廃屋の床に、チビの体を横たえた。
大量の血を吸って、元の色がわからなくなった水干をはだける。
無惨に肉が抉り取られているが分かり、オレは唇をかみしめた。
さっきの天癒は、かろうじて傷口の表面を塞いだだけだ。あの場では、奥まで再生させる余裕はなかった。血も失われすぎた。常とは違う、紙のような顔色。
「天癒。」
乳白色の光が傷を包み込み、少しずつ癒していく。その遅さに舌打ちする。
正直、癒しの術は不得手だ。今までほとんど使う機会がなかったせいだ。慣れていないせいで、効果は薄いくせに、力はやたらと喰う。肩の辺りがずしりと重くなってくる。流れ落ちる汗をぬぐい、オレは奥歯をかみしめる。
オレは、どうしても、こいつを死なせるわけにはいかない。
チビのまぶたが、ゆっくりと上がった。大きな漆黒の目がオレをとらえる。
「雷火…。」
力のない声だった。ほとんど吐息だけの。
くそっ。
聞きたいのはこんな声じゃねえ。
「助けてやる。絶対に。」
オレの中の全ての力を注ぎ込む。光が輝きを増す。
ずきり、とこめかみが痛んだ。眩暈がする。疲労がのしかかってくる。
限界が近いのか。それでも、オレは。
「信じる。ありがとう。」
「っ。」
笑った顔に呼吸が止まった。
生死の境をさまよう深手を負い、激痛の渦中にいることを感じさせない、満面の笑み。
一瞬、何もかも忘れて見惚れた。
炎のような、日輪のような、輝きだった。
☆
丑の刻を過ぎた。破れた天井からのぞく月でさえ、大分傾いた頃。
チビの顔に赤みが差してきた。失われた肉も、ほとんど再生した。
穏やかな寝息をたてて、チビは眠っている。
ふぅ、と息をついた。
峠を越えた。
肩から力が抜ける。崩れ落ちる。
体が重い。泥の中に沈んだように、もう、指一本動かせない。
眠りたい。
少しだけと決めて、オレはまぶたを閉じた。
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腹の辺りがずんと重い。それが、鈍い痛みだと気づいて、オレは目を開けた。
最初に目に飛びこんで来たのは、銀の光。
淡い空色を帯びた純銀は、雷火の髪だとすぐにわかった。
(雷火…。)
違和感があったのは、その目が閉じられていたからだ。
刃のように鋭く輝く蒼い瞳が見えないと、けっこう子どもっぽい。オレよりは上だろうけど、兄上と同じくらいの年に見える。
目を閉じて、寝息をたてている雷火。
寝顔を見たのは初めてだ。というか、こんなに静かに、穏やかにこいつの顔を眺めたことなんて、今まで一度もなかった。
初めて会った夜、まだ何も知らずにその姿を見た時、美しさに見惚れたことを思い出す。
こんなに綺麗な顔をしていたんだよな。
ふいに、泣きそうになった。
(雷火が助けてくれた。)
痛みじゃない、痛みを打ち消すくらい熱いもので、胸が震えた。
手を伸ばしかけて、止める。
触ったら、起こしてしまうと思った。こいつは、野生の獣と同じだから。
このまま雷火を見ていたい。
☆
胸の辺りが温かくて、目が覚めた。
ぼんやりと目を開けた。つむじが見えた。伝わってくる鼓動。
チビが、オレの胸に頬をくっつけて眠っていた。
舌打ちしかけた。接近されて気づかないのは命とりだというのに。こいつが重傷だから無意識に油断したのか。それとも…こいつに敵意がないからか。
安心しきった、幼い寝顔だ。
揺さぶり起こそうと腕を上げて、止めた。
こんな時間は、すぐ終わる。刹那に消え去る、一時の夢幻だ。
だったらもう少しだけ、この眠りを守ってやってもいい。どうせ、こいつと共にいるのは、あと数刻だ。こいつが目を覚ますまでだ。
鬼になり、親に捨てられたあの日から、誰にも頼ったことはない。誰も信じたことはない。
鬼になる前のことは、既に記憶がおぼろげだが、その頃から、オレに情などなかっただろう。親に捨てられたことに傷ついてもいなければ、裏切られたと親を恨む気持ちすらない。親の顔も、つけられた名前も忘れたくらいだ。
オレには誰も必要ない。もちろん、こいつもだ。
オレは、一人で生きていける。
こいつとは違う。
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「今まで一緒にいたのが間違いなんだよ。」雷火(らいか)の突然の豹変。火陽(かよう)を傷つけて、追い詰めて嗤う。「いい表情だな。もっと見せろよ。」体以上に、心が痛む火陽。(オレは、おまえさえいれば、他に何もいらないくらい、おまえのことが好きなのに。)二人を引き裂いたのは、雷火に仕掛けられた罠。「これは、私がおまえにかける呪い。けして解けない永遠の呪縛。」この話は、「おまえさえいれば、帰る場所なんかいらない。」~雷の絆・炎の約束~の続編ですので、先にそちらを読んでいただけるとありがたいです。京の陰陽師(見習い)だったが、鬼である雷火と共に生きるために、全てを捨てた少年、火陽。(12歳。)火陽に押し切られる形でそれを受け入れた雷火(13歳)。旅をする二人は、妖怪から村の子どもを助けたことから、その子どもの村にしばらくの間、滞在することになった。雷火との生活を無邪気に楽しむ火陽に対し、雷火は、火陽は京に帰るべきだと感じていた。火陽に優しくできない自分の苛立ちながら。それでも、表面上は平和だった日常に迫る魔の手。手の主は、残酷な愉悦の笑みとともにささやく。「やっとつかまえた。」「本当に目障り。私の雷火を誑(たぶら)かして。」雷火は、最後の理性で叫ぶ。「オレに近寄るな!今のオレは、おまえに何するかわからねえんだよ!!」雷火の悲痛な叫びは、現実になってしまうのかー。平安時代風異世界を舞台に、陰陽師の少年と鬼の少年の、戦いと絆を描いた和風ファンタジーです。
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「おまえって、なんで、オレのやったこと全部許すんだよ。」七柱の龍神が建国した、龍神国。そこは、妖が跳梁跋扈し、それらを調伏する神官が、龍神の力を行使する術、神術によって、無辜の民を守っている。神官候補生として修行中の少年、翡蓮(ひれん)は、候補生たちのまとめ役である<宝珠>であり、皆から慕われている。ただ一人、天才児だが異端児である少年、緋皇(ひおう)を除いて。問題ばかり起こす緋皇を、翡蓮は庇い続けるが、緋皇は翡蓮に心を開かない。候補生や神官が暮らす神殿から脱走した緋皇。自分の全てを懸けてでも、緋皇を守ろうとする翡蓮。翡蓮の思いは、緋皇に届くのか。そして、なぜ、翡蓮はそこまで緋皇に執着するのか。緋皇が翡蓮に向ける苛立ちの奥には、何が秘められているのか。全ての始まりは、遠い夏の日に交わされた約束。「絶対、おまえに会いに行くから、待ってろ。」少年たちの危うい絆の行き着く先は…?
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