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第四幕&終幕

「おまえが泣いて嫌がっても、自由にしてやらないぜ。」~雷の絆・炎の約束 弐~

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第四幕 (語り 雷火らいか

 ヒュウッと吹き込んだ隙間風が、囲炉裏の火を震わせる。火にかけている鍋から上がる湯気もすうっと流れた。結局ウサギの肉は持ち帰ることができなかったから、今夜は備蓄してある食い物で、雑炊を作った。
 火陽かようの顔を照らしている火影が揺れて、火陽の表情が動いたような気がしたが、すぐに気のせいだと打ち消す。
 火陽は眠っている。
 オレの浄化に力を使い果たしたのか、眠りは深い。
 オレの体を侵していたのは、酒呑童子の血の毒だ。ほんの数滴とはいえ、生半可な力で浄化などできなかっただろう。
 背負って山を下りた時、それなりに揺れたはずだが、一度も目を覚まさなかった。
 傷口を洗い、手当をし、粗末な寝床に寝かせる間も。
 オレは、こいつの寝顔を見るのが嫌いだ。…正直に言えば苦手だ。
 起きている時は、常にやかましく騒いでいるから気にならないが、静かな寝顔を見ていると落ち着かない気分になる。
 以前にも、こんな風に、傷を負ったこいつが、昏々と眠る姿を見ていたことがあるからだ。そして。
 あどけない、と言っていいほどの、無邪気な幼い寝顔。
 出会った時は、ふっくらしていた頬の線が、少し丸みを削がれてきた。それは成長なのか、それとも暮らしのせいか。
 中流とはいえ、京の貴族の子息として、何不自由ない暮らしをしていたこいつが、なぜ、それを捨ててオレについて来たのか、正直オレには今だにわからない。
「ん…。」
 火陽が身じろぎした。頬を冷やしている濡れた手ぬぐいが落ちる。
 柔らかな線が失われつつある頬は、その片方が腫れ上がっている。治癒の術をかけて冷やしてはいるが、そう簡単に腫れは引かないだろう。
 治癒の術も鍛錬し、以前よりは上手く使えるようになっているが、所詮は付け焼刃だ。
 オレは、手ぬぐいを拾い上げて、冷水に浸し、きゅっと絞って再び火陽の頬に乗せる。
 今できるのは、これくらいだ。
 全身血塗れだったが、失った血は、命に関わるほどではなかった。太い血の管を傷つけてはいなかったせいだ。それは、オレが無意識に避けたのか、火陽の実力か、ただの運か。だが、全身に負わせた雷撃は、確実に火陽の身を蝕んだはずだ。
 オレの治癒の術で、どこまで回復させられたのか…。
 冷たいのが嫌なのか、火陽が身をよじる。また手ぬぐいが落ちそうになり、オレは思わず上から押さえた。
 その手に、火陽の小さな手が重なる。
「!」
 オレはびくっとして手を引きそうになったが、存外強い力で押さえられて、かなわなかった。
 ぱちっと、火陽の目が開く。
「雷火!!」
 叫んで身を起こそうとするのを
「寝てろ、馬鹿。」
と、逆の手で肩を押さえこんで止めた。
 一瞬大きく見開かれた目が、すぐに、笑みの形になる。
「よかったあ…。」
 ぎゅっと、オレの指を握りしめて、火陽が心底安堵したような吐息を吐き出す。
「いつもの雷火だ。」
「!!」
 感情が焼き切れた。
 全身の血が沸騰した気がした。
「馬鹿じゃねえのか!?何笑ってやがる!おまえをそんな状態にしたのはこのオレだ!わかってんのか!?」
「わかってる。」
 下からまっすぐにオレを見上げてくる目は、強い光を宿している。ああ、日輪の双眸だと思う。純粋で、烈しく、熱い。
「あれが、雷火の意志じゃなかったことくらい、わかってる。」
「っ。」
 何も知らないくせに、どうして全てを見抜いたようなことを言うのか。
「おまえっ…。」
 言いかけた言葉を呑みこむ。大きく息を吐いて、感情を鎮めた。
「…起きたなら、飯食え。」
 代わりに、それだけ言った。

「うめー!」
 一口頬張るなり、目を輝かせて叫んだ火陽は、後は夢中で雑炊をかきこんでいる。ガツガツ、という音がしそうな喰い方だ。
 いつもより遅い夕餉という以上に、霊力の消耗が激しいんだろう。途中でつまらせた火陽に
「馬鹿が。」
と、水を入れた椀を差し出す。目を白黒させながら、慌てて飲み干した火陽は
「ありがとな、雷火。あー死ぬかと思ったー。」
と笑う。本当に馬鹿だ。
 そのまま、オレを見上げ
「雷火は?食わねーの?」
と訊く。オレが答えるより早く
「雷火が食わないなら、オレもこれ以上はいらねーから。」
と、妙に強い口調で宣言してくる。オレが思わず舌打ちし、自分の分をよそうと、くすっと小さく笑う。ここではないどこかを見るような、遠い目をして。オレの怪訝そうな視線に気づいたのか、火陽は顔を上げた。
「前にも、おんなじこと、あったなーって。」
 ああ、そうだな。あの時と同じだな。
 図らずも、同じ記憶をたどっている。オレとこいつは。
 その後、火陽は、にぎやかにしゃべりながら、雑炊をたいらげた…直後から、とろんとした表情で目をこすっている。
「とっとと寝ろよ。」
と声をかけると、オレの狩衣の袖を引く。
「雷火も寝ようぜ。」
…何もわかっていないようで、勘づいているのか。
 眠気に勝てなくなった火陽は、オレの片袖を握りしめたまま、横になった。
 すうすうと、いつもと同じ寝息が、夜の空気に吸われていく。
 身をかがめて、上から寝顔をのぞきこんだ。
 無垢で稚い寝顔を、目に焼き付けるように、ただ見つめる。
「火陽。」
と、起こさないように、唇だけで名前を呼んだ。こいつがオレを呼ぶほどには、返してやらなかったなと、今さら思う。
 手を伸ばし、腫れていない方の頬にそっと触れる。指先に伝わるぬくもりに、柔らかさに、胸の奥が軋んだ。吐息だけで、ささやいた。
「…おまえと一諸の旅は、悪くなかったぜ。夢みたいな時間だった。」
 ふっと、苦い笑みがこぼれた。
「そろそろ、夢から覚める時間だ。オレも、おまえも。」 
 …本当は、もっと早く、こうするべきだった。オレさえいなくなれば、こいつは京に帰る。こいつを待つ家族のもとへ。わかっていたのに、ずるずると旅を続けていたのは、オレの弱さか。
 何かを振り切るように、断ち切るように、オレは火陽の頬から手を引く。それだけの動きに、ひどく気力が必要で、思わず舌打ちしそうになった。
 立ち上がりかけた時。
 くいっと、袖を引っ張られて、膝立ちのまま固まる。
 火陽は、まだ、オレの狩衣の袖を握りしめている。
 眠っているはずなのに、力がこもったままだ。
 オレは、オレのものより一回り小さな手に、指先を伸ばしかけて、やめた。
 シュッと、自由な方の手の爪を伸ばす。鬼の肉体は、この程度のことはたやすい。
 ザン、とオレは火陽がつかんでいる部分を切り落とした。
 振り向かずに、小屋を出る。

 山の中腹で、足を止める。
「いい加減に、姿を見せやがれ。」
 獣が低く唸るように、声を放つ。濃い夜闇に向かって。
 小屋を出てから間もなく、ねっとりとまとわりつくような視線を感じた。
 かつて、最も身近だった相手。何年も共にあった、肌に馴染んだ気配は、変わらず匂い立つように妖艶で、どろりと甘い。
 一瞬の静寂の後。
 くすくすと、無邪気で軽やかな、笑い声が響いた。
「相変わらず鋭い子だね、雷火。」
 闇をまとって、闇から姿を現したのは、見慣れた美貌の男。
 豊かな漆黒の髪が、波打ちながら膝裏まで落ちている。濃い紫苑の狩衣。こめかみから伸びる二本の角。
 にい、と細められた両の瞳は、鮮血の真紅。まるで、今までこいつが屠って来た、おびただしい人間の血に染まったかのような、不吉で残酷で、それなのにどこまでも鮮やかな紅珊瑚。
 その眼差しが近づいて来るのを、挑むように顔を上げて待つ。
 吐息のかかる距離で、酒呑童子はゆっくりとオレに視線を這わせた。
「…ふうん?」
と、小首をかしげて、唇を尖らせる。まるで、幼児が不満を訴えているような顔で。
「つまらないなあ。私の血に狂う雷火が見たかったのに。」
 血に狂う、というその言葉に、ゾッとした。
 真相が、わかってしまった。
 突然暴れ出した、この山の主。酒呑童子が、血を与えたからだ。オレたちが、この村に来ると読んで、罠を仕掛けた。おそらく、ここまで全てが、こいつの掌の上。
「浄化、されちゃったね。」
 そして、紅を刷いたような朱色の唇を、悪戯っぽい笑みの形に引き上げた。
「あの小さな陰陽師、なかなかやるね。」
 瞬間、顔色が変わったのが自分でわかった。鏡もないのに。
 酒呑童子は、オレの心情など、手にとるようにわかるのだろう。からかうように、けれど本気だと伝わる声で嗤う。
「本当に目障り。私の雷火を誑かして。楽には死なせてやれないね。私の毒を最小限に抑えて、のたうち回るほどの、だけど気を失うこともできない苦痛で責めさいなんであげよう。生きながらにして、肌が、肉が、骨が腐って、ぐずぐずと溶けていくんだ。いつ、自分から「もう殺してくれ。」って哀願するか、とても愉しみ。賭けない?雷火。」
 冷静になれと、自分を叱咤した。頭に血が上った状態で、敵う相手じゃない。
 酒呑童子が、上からオレの顔をのぞきこむ。
 長い睫毛の数までわかる。昔からこいつは、すぐに距離を詰めてきた。
 紅緋の双眸を三日月のように細めて。
「雷火。怒っているね?自分の手であの子を傷つけたことが、そんなに許せない?それとも、私があの子を殺すと言ったから?」
 まるで、見てきたように言う。こいつのことだ。手段はいくらでもある。何年も傍にいたが、こいつの力は計り知れない。その胸の内も。
「でも、悪いのは雷火だよ。」
 瞳の奥に、酷薄な光が瞬く。
「鬼と人が一諸に生きていけるわけないのに。全ては、愚かな夢を見た代償だと。」
「わかっている。」
 酒呑童子の言葉を遮った。
「だから、オレが落とし前をつける。」
 覚悟は決めた。
「おまえは殺す。刺し違えてでも。」
 火陽に手出しはさせない。
 オレが火陽にしてやれるのは、それだけだ。
「妬けちゃうなあ。あの子のために、そんなに一生懸命になっちゃって。」
 酒呑童子が、拗ねたように言い、すぐに、くすくすと笑う。
「これは、お仕置きが必要だね。手足を切り落としてあげようか。そうしたら、二度と私のもとから逃げられない。」
 背筋が寒くなるほど残酷な笑みに、本気で言っているとわかる。
 怯みはしない。
 オレは、ニヤリと笑みを返した。
「簡単に行くと思ったら、大間違いだ!」
 地を蹴って叫ぶ。
「電撃!!」
 バリバリバリバリッ!!
 拳に最大級のいかづちをまとう。
 激しく放電し、周囲の夜闇を弾き飛ばす。空気がビリビリと震える。
 オレは、右の拳を、酒呑童子に叩き付ける。
「瘴壁。」
 ぶわっと、一気に視界が黒く染まる。
 酒呑童子の全身から放たれた、濃密な瘴気。
 それが強固な壁となって、オレの拳を阻んでいる。
「電撃程度で、私の瘴気を防げるとでも。」
「雷獣!!」
 拳を、瘴気の壁にめりこませたまま、オレは叫ぶ。
「!」
 酒呑童子の真紅の目が見開かれたのは、拳から放たれる雷が、無数の獣と化したからだ。
「雷獣!!」
 左の拳も、瘴気の壁に叩き付ける。
 左の拳も、壁を突き破ることはできないが、ぶつかった途端に、雷獣が生まれる。
 雷獣の大きさは、大型の犬程度。しかし、無数に生まれた雷獣は、次々と瘴気の壁にぶつかっていく。
 ぶつかっては、弾かれて消え、しかし、わずかに入った亀裂を見逃さず、次の獣がそこに体当たりする。
 瞬きほどの間に繰り返される光芒。
 ついに、瘴気の壁を突き破る。
 しかし、その時には、既に酒呑童子は瘴気の壁の後ろにはいない。
 波打つ漆黒の髪をなびかせて、オレの背後の優雅に舞い下りた。
 オレは即座に体を反転させ、酒呑童子と向き合う。
 酒呑童子の緋色の瞳は、熱っぽく輝いていた。
「すごいね、雷火。腕を上げたね。」
 オレは舌打ちする。
 この余裕。
 気に食わないが、オレとこいつの間には、それだけの実力差があるから当然だ。
 だが、だからこそ、その油断に、付け入る隙はある。必ず。
「私も少しは本気を出さないと失礼かな。」
 酒呑童子の紅い唇が弧を描く。
「腐矢。」
 その手に生まれたのは、弓矢。しかも、普通よりも大きい剛弓。
 酒呑童子の白く長い指が、弦を引き絞る。女のものと見まごうような、細い指だが、そこに宿る力は鬼のもの。
 ヒュンッ!
 風を切って、矢羽が飛ぶ。
 オレは、とっさに身をかわしたが、酒呑童子はそれは読んでいた。否、最初から、一の矢は外すつもりだったのだろう。
「ご覧、雷火。」
と、指さす先で、鏃が一本の大木に突き刺さった。
 と、思った時には。
 どろりと、大樹の輪郭が闇に溶けた。
「!」
 一瞬で腐り落ちた。
 あれが刺さったら、いや、かすめただけでも。
 背筋が冷たくなると同時に、酒呑童子が矢を射かけてきた。
「雷刃、百華!!」
 雷の刃を放つ。
 いかづちの刃と、毒の矢がぶつかり合う。
 毒の矢は、雷に打たれてもその威力は消えず、落ちた先で大地を、岩を、木々を溶かしていく。
 毒の矢が、雨のように降り注ぐ。
「雷刃、百華!!」
 漆黒の空を、稲光が駆け抜ける。
 応戦するのが精いっぱいだ。
 せめて、射程距離から一歩でも離れようと、じりじりと後退し…オレはずるりと、大地に足をとられて膝をついた。
 どろどろに融解した地面。腐矢で溶かされたせいだ。
(しまった!) 
 酒呑童子は、ここまで、計算して。
 と、わかった時には、酒呑童子が一気に間合いを詰めていた。
 片膝をついた状態では、逃げようがなかった。
「迅雷!!」
 酒呑童子目がけて落した雷も、
「瘴壁。」
の一言で生じた、瘴気の壁に阻まれて霧散する。
 刹那の攻防の間に、酒呑童子の指が、オレの首を締め上げた。
 両手で引き剥がそうとしても、びくともしない。思い切り爪を立てると、血の珠が浮き上がったが、眉一つ動かさなかった。
「封縛。」
 ドクンと、オレの体に不可視の力が撃ち込まれた。
 体の奥底に、重しが乗せられたような、楔が埋め込まれたような、これは、何だ。
 戸惑いながらも、オレは
「迅雷!」
と叫ぶ。酒呑童子がオレを捕えているということは、オレの間合いに入っているということでもある。この勝機を見逃す手はない。
 だが。
 闇を眩く裂くはずの雷が生まれない。
(まさか、今のは。)
「わかった?雷火。封縛は、おまえの力を封じる技だよ。相手に触れていないと行使できないという制約があるから、私の技の中でも秘中の秘。おまえにも見せたことはなかったね?」 
 言いながら、ぎりぎりとオレの喉を締め上げてくる。
 罠に落ちた獣を見て、舌なめずりをしている顔で、満足そうに。
「もう、おまえは力を外には出せない。既に勝負はついた。賢いおまえならわかっているね。」
 赤い唇の両端がつり上がり、犬歯と呼ぶには尖りすぎた牙がのぞく。
「声が出せるうちに、誓いなさい、雷火。私のもとに戻ると。あの陰陽師の子どもは、おまえの手で殺させてあげる。生首を私に持っておいで。」
 いつかの言葉を、酒呑童子はオレの耳元で囁く。甘い毒を注ぎ込むように。
「私に拷問されて嬲り殺されるより、おまえの手で一息に。私は結局、おまえに甘いね。」
 酒呑童子は、ゆっくりと指の力を強くしていく。
 次第に息ができなくなっていき、意識が朦朧としてくる。
 木々がたてる葉擦れの音。肌を撫でる冷え切った真冬の風。五感の全てが遠くなっていく。首に食い込む酒呑童子の指さえもが。
 その中で。
 ふっと脳裏に浮かんだ、火陽の顔だけが鮮明だった。
 まっすぐにオレを見上げる、漆黒の双眸。オレよりずっと弱いくせに、どんな窮地でも最後まで希望を捨てない、頑固で融通の利かないー。
 それが、オレを現実に引き戻す。
(ふざけるな。)
と、オレは強く唇をかみしめた。かみ切った唇から、血の味がした。
(諦めるな。考えろ。足掻け。)
 自分を叱咤する。
 何かないか。力を封じられたオレに打てる手は。
 酒呑童子の言葉を反芻する。
 -閃いた。
 オレの中に、なら。
 結果がどうなるかはわかっている。
 だけど構わない。
 もともと、酒呑童子と刺し違える覚悟はできている。悔しいが、こいつの方が遥かに強い。まともにやりあって、勝てる見込みは無いのだ。
 オレは、両手を酒呑童子の角に伸ばした。
 渾身の力で握りしめる。
 酒呑童子の真紅の瞳が見開かれる。
 こいつは頭が切れる。瞬時に気づいただろう。オレの狙いに。
「やめなさい、雷火!」
 パッと手を離される。解放されて、肺腑に、空気が流れ込む。
 オレはゲホッとむせながら、それでも酒呑童子の角を握りしめたままだ。
「こんなことをしたら、おまえも死ぬ!」
 珍しく、切羽詰まった声だった。こいつとは長い付き合いだが、初めて聞いたかもしれない。
 酒呑童子が、オレの腹に拳を叩きこむ。
 吹っ飛ばされそうな勢いだったが、角にしがみついて耐える。
「砕雷!!」
 オレが、しようとした瞬間。
「オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン!!」
 火陽の声が、響き渡って。
 カッと、光が弾けた。否、爆発した。
 全てが純白の閃光に包まれたー。

 世界そのものが発光しているように、眩しくて何も見えない。一面の雪景色が、日輪に照らされたような白銀の中で。
「雷火、走れ!」
 火陽の手が、オレの腕をつかむ。オレよりも小さい火陽の手。いつもは、抑え込むことも振り払うこともたやすいその手が、力強くオレを引く。
 白い闇の中で、それが唯一のしるべ。頼りないはずなのに、オレは何の迷いもなく全力で駆け抜ける。
 走って走って。
 息が上がりきった頃。
 ぼんやりと、世界に色が戻ってくる。
 最初に目に入ったのは、狩衣に包まれた、火陽の小さな背中だった。
 それが次第に明瞭になり。
 火陽の背中で揺れる黒髪の一本一本まで見分けることができるようになった頃。
 火陽は、ようやく止まった。
「っ…ここまでっ…くればっ…もう…だいじょうぶ、だろっ…。」
 ぜいぜいと、荒い息の下から、無理やりに声を出している。真冬の夜だというのに、ぽたぽたと汗が頬を流れ、肌は薄紅に上気している。
 まだオレの腕をつかんだままの掌は熱く、ドクドクという鼓動が伝わってくる。
 火陽が唱えたのは、光明真言。確か、正式には不空大灌頂光真言。大日如来の真言であると同時に、一切の諸仏諸菩薩の総呪だと、昔、酒呑童子から聞いたことがある。
 高い威力を誇る危険な技だから警戒しろと。しかし、霊力の消費が激しく、並の陰陽師では扱えないとも。 
 オレは息を整えながら、火陽を凝視する。
 火陽の消耗は、単に全力疾走しただけじゃねえ。無理な大技を使ったせいだ。酒呑童子に的を絞って発動させたのだろうが、近くにいたオレも、しばらく視界を封じられたほどだ。
 気がついたら、火陽の手を振り払い、ひどく冷ややかな声を投げていた。
「何で来た。」
 我ながらゾッとするほど冷然とした声だったが、火陽は怯まなかった。
 キッと、大きな目でオレをにらみつけてくる。
「何でだと!?それは、こっちの台詞だ!!」
 わん、と周囲にこだます大音声だった。
 鼓膜に突き刺さって、耳の奥がキンと痛むほどの。
 一瞬気圧されたオレに、ドンと火陽がぶつかってくる。
 小さな体なのに、その無茶苦茶な勢いのせいで、オレは踏み止まれなかった。
 地面に押し倒された形になって、背中を打つ。
「てめえ、何しやが。」
 途中で声が宙に浮いた。
 オレの上に馬乗りになって、胸倉をつかんだ火陽の目から、ぼろぼろっと大粒の涙があふれ出た。
 月光を弾いて、煌めきながら零れ落ちる。水晶のように。
「雷火のうそつき!!」
 ひくっと、細い喉が鳴った。
「オレたち、ずっと一緒に行くんだろ!!おまえ、自分で約束するって言ったくせに!!」
 泣きながら、火陽はオレをにらみつける。
 痛てえな、と思った。
 皮膚も肉も骨も突き抜けて、魂を射抜く目というものを、オレは初めて見た。
「何でオレを置いて行くんだよ!?」
 獣のように、火陽が吠える。
「置いていくつもりは。」
 オレは、とっさに誤魔化そうとして、火陽の逆鱗に触れた。
「うそだ!!」
 火陽の手が、オレの襟から離れた。代わりに、ぎゅうっと、右手をつかまれ、オレは悲鳴を押し殺した。
 オレの右手は、内側が焼け爛れている。
 見抜かれているとは思わなかった。
 冷たい汗が、背中を伝う。
「おまえ、自分ごと、あの鬼を殺そうとしたんだろ!!」
 オレは唇をかみしめる。
 力を外に出せなくなったオレの、唯一とれた手段が自爆だった。火陽が飛びこんできたおかげで、発動はしなかったが、最初に爆発させるつもりだった右腕は、しばらく使い物にならない。
 オレは、火陽から目を反らした。
 もう、終わりにしなければならない。火陽がオレに向ける思いは、火陽を不幸にする。火陽は、あるべき場所にもどるのが一番いい。こいつにふさわしい、明るくて、優しい場所に。オレには縁遠い世界に。
「オレの命をどう使おうが、オレの勝手だ。」
「!!」
 火陽は、一切の表情を失くして凍りついた。
 また泣かせるのかと危惧したが、火陽はオレから手を離して、立ち上がっただけだった。
 ひどく静かに、オレを見返す。
 波一つ立たない、凪の湖面のようだった。四六時中一緒にいるのに、初めて見る表情だった。
 ドクンと、胸の奥で何かがざわめく。
 火陽はオレに背を向けて、そのまま告げた。
「だったら、オレも、勝手にする。あの鬼探して、一人で戦ってやる。それで死んでも、オレの勝手で、雷火には関係ないよな。」
「!!」
 目が眩むほどの怒りだった。
 腹の底が、火がついたように熱くなる。
 駆け出した火陽の腕を、左手でつかんだ。力加減する余裕は無かった。
「痛ッ。」
と、火陽がとっさに声を上げる。
「ふざけんな!!」
 つかんだ腕を強引に引く。向き合う形になった火陽の背中を、そのまま手近な木の幹に叩き付けた。
「オレが左手一本で抑え込める非力さで、血迷ったこと抜かしてんじゃねえぞ!!」
 小さな体を上から抑え込んで威嚇する。
 オレを映した火陽の瞳が大きく揺れて。
 けれど、火陽が感じたのは恐怖ではないと、わかってしまった。
 火陽が、底抜けに明るい、いつもの笑顔になったから。
「うん。だから。」
 輝く瞳。日輪のようだと初めて気づかされたのは、いつだったか。
「二人で一諸に戦おうぜ!!」
「-!!」
 ああ、もう駄目だな。
 勝てない。
 オレは、火陽のこの笑顔には。
 火陽の腕をつかんでいる手が緩んだ。
 火陽は、するりと手を引き抜いて、爪先立つ。
 両手を、オレの首筋に回した。
 逃がさない、と無言で訴えるかのように、その力は強い。すがりつくような必死さと、包み込むような暖かさを、同時に感じる。
「っおい。」
 火陽は、オレの声を無視して、続けた。
「だってオレたち、友達だもんな!!」
 オレの耳元で言った火陽の顔は見えなかった。
 だが、どんな顔をしているか、簡単に想像できてしまう。
 オレは、肺腑が空になるくらい、大きく、長く嘆息してから、火陽の小さな体を、腕の中に閉じ込める。
 抱き上げたことはある。火陽から抱きつかれたことは何度もある。だが、抱きしめるのは、初めてだった。
「!」
 火陽は、一瞬、驚いたように両肩をはねさせた。予想外だったらしい。
 けれど、すぐに、もっと強く抱きついてくる。

「なら、いつかおまえが後悔しても、泣いて嫌がっても、自由にはしてやらないぜ。」

 その耳朶に、吹き込むこれは、呪いだろうか。火陽の四肢に、不可視の鎖を絡みつかせるような。
「永遠に。」
「約束、な。今度は絶対、破るなよ!」
 答える火陽の声は、軽やかに弾んでいた。

 火陽は、さっきまでオレに抑え込まれていた大木を背にして、じっと待っている。
 感情がそのまま出る、いつもの顔ではない。ほんのひと時も留まることなく、くるくると変わる顔でもなかった。
瞳は閉じられ、牡丹色の唇は一文字に引き結ばれている。厳かとも言える表情で、こいつはこんな顔もできるのかと思った。
 感覚を研ぎ澄まし、どんな些細な周囲の変化も、全身で感じ取ろうとしている。あれが、陰陽師の顔か。
 オレは、火陽の張った結界に身をひそめ、気配を殺して時を待った。
 ひどく長い時間がかかった気がしたが、実際にはそれほどではなかっただろう。月は今だ、中天に座して、白々と平等に無慈悲に地上を照らしている。
 ふっと、甘い香りが漂った。くらりと眩暈がするような、かぐわしいのに肌が粟立つような。
 火陽は、目を開き、現れた酒呑童子を睨み据える。
 酒呑童子は、波打つ長い黒髪を揺らして、ゆっくりと火陽に近づく。
 その体に、目立った損傷はない。ただ、いつもは全身に満ちている、邪悪な気が薄い。火陽の光明真言は、鬼や妖怪の内側を蝕むものだったらしい。至近距離でまともに喰らって、一時的に動きを封じられた、というところか。並の鬼なら、一瞬で消滅させる威力だが、流石は鬼の首領、大江山の酒呑童子。
 いつもより力が落ちているとはいえ、オレたちを遥かに凌駕していることに変わりはない。
 酒呑童子が、小首をかしげて、火陽を見下ろす。
「雷火をどこに隠したの?」
「おまえには、絶対に見つからないとこだ。」
 火陽が、不敵に笑う。鬼の王相手に、いい度胸だなと、オレは笑いをかみ殺す。
 酒呑童子は、格下相手に激することはなかった。紅を刷いたように華やかな唇を、にこりとつり上げる。
「切り刻むのが愉しみになる返答をありがとう。いい声で鳴いてね。そうしたら、雷火は出てくるだろうから。」
 酒呑童子の笑みが深くなる。鬼の王にふさわしい、残虐な笑みだった。
「腐矢。」
 出現した剛弓。つがえた矢が飛ぶ。
 火陽は、刀印を結び、宙に五芒星を描く。
「バン・ウン・タラク・キリク・アク!!」
 カッと発光した五芒星が、腐矢を阻む。
 そこに、豪雨のように、腐矢が降り注ぐ。鋭い鏃が、狙ったように同じ個所にあやまたず突き刺さっていく。
 パキッと、光の壁に小さな亀裂が入る。
 火陽は、素早く十字を切った。
「臨める兵、闘う者、皆陣やぶれて前に在り!!」
 光の筋が闇を切り分ける。瞬き一つの間に完成した、光の格子が、五芒星の前に出現し、腐矢を阻んだ。
「なるほど。」
と、酒呑童子は真紅の目を細めて頷く。
「根競べ、というわけだ。でも、キミは、光明真言でかなりの霊力を消費している。いつまでもつのかな?」
 嗜虐の笑みに、くつくつと喉を鳴らす酒呑童子に対し、
「光明真言で消耗してんのは、おまえも一緒だろ!」
 火陽は、臆することなく吠える。
 酒呑童子は、ふっと、真顔になった。
「キミのこういうところに、雷火は惹かれたのかな?…よく似てる。」
 ギギギッ!!と、耳障りな音が、空気を軋ませる。
 次々打ち込まれる酒呑童子の腐矢が、火陽の築いた二重の障壁を揺らす。
 火陽の額から、汗が玉になって滑り落ちる。
 限界が近いのがわかる。
 オレは、ギリッと奥歯を噛みしめた。
 オレは、ぎりぎりまで耐えて、それを放った。

「雷刃、百華!!」
 轟音とともに、空を穿つ、百の雷。
 それを一点に…酒呑童子に集中させる。
 火陽に向き合う、無防備な、その背中に。
 しかし。
「瘴壁。」
 くるりと体を反転させた酒呑童子が放った瘴気の壁に、阻まれる。
 全ての光を吸い込んで消滅させるかのような、禍々しく不吉な毒の霧。雷すらも捕食する。
「甘いよ、雷火。」
 酒呑童子が、罠に落ちた獣を憐れむように片頬を歪める。
「この子は囮なんだろ?おまえの殺気に、この私が気づかないとでも思ったの?」
 血色の瞳が、冷徹に光る。
「腐矢。疾風はやて。」
 凄まじい速さで飛んだ矢に貫かれてーは、瞬時に姿を変えた。
 否。戻った。
 人形ヒトガタに切り抜かれた、一枚の紙に。
 鏃が刺さった紙片が、腐り落ちる。そこに巻かれた、銀の髪一筋も。
「式神!?陰陽師の?」
 酒呑童子が驚愕の声を上げた。
 これが本当の囮。火陽がオレの髪を使って作りだした。それを、オレが放った。
 酒呑童子の一瞬の隙をついて、オレは、結界から飛び出した。

「雷刃、千剣破ちはや!!」

 ドンッ!!
 天変地異のように、空が真っ二つに裂けた。
 千の雷が、瀑布のごとくなだれ落ちる。
 酒呑童子を直撃した。
 そして全ては、薙ぎ倒されて、白い光芒に沈む。

「雷火!しっかりしろ!大丈夫か!?」
 ぱちっと目を開けると、火陽の顔が飛びこんで来る。
「ああ、よかったあ…。」
 火陽が、心底安堵したように、大きく息を吐き出す。
 上からのぞきこまれていたので、火陽の息が前髪を揺らした。
「無茶苦茶するよなあ。あんな大技使って、体何ともないのかよ。」
 心配そうな火陽に、
「無茶苦茶はお互いさまだろ。ほとんど霊力空のくせに、ぎりぎりまで粘りやがって。」
 体を起こしながら言うと
「だってさあ、そうでもしないと、あいつ罠にはめるなんて無理じゃん。」
と返された。
 確かに、その通りだ。
「酒呑童子は。」
と問うと、火陽はすっと視線を向けた。
 濃い血のにおいと、肉の焼けるにおいが漂ってくる。
 酒呑童子は、仰向けに倒れていた。
 近づくと、全身の肉が抉られ、焼け爛れ、所々、骨が露出している。
 無意識のうちに、息を呑んでいた。
 酒呑童子が、傷を負った姿を、オレは今まで一度も見たことが無かった。
 絶対的な力で、大江山の鬼たちの上に君臨し、京を恐怖に突き落とす、鬼の首魁。それが、オレの知る酒呑童子だった。
 それでも、息絶えてはいない。
 オレを見上げて、ゆるりと唇が弧を描く。いつも血に濡れたように紅い唇が、今は本当に血に染まっている。返り血を浴びた姿は、幾度となく目にした。だが、今、こいつは、自分自身の流した血に塗れて横たわっている。
 それなのに、不思議と穏やかな眼差しだった。
「おまえに留めを刺されるなら、悪くないね。」
 何故、と思うオレの胸の内を読んだように、酒呑童子がささやいた。
 オレは、目を見開き、愕然と酒呑童子を見返す。
(殺す?オレが、酒呑童子を?)
 そうするべきだと、オレの中のひどく冷静で非情な部分が告げている。ここで酒呑童子の息の根を止めなければ、こいつは何度でも追ってくる。どこまでも。『地の果てまでも追い詰めて、必ず殺す。』酒呑童子の声が、耳の奥に甦る。
 鮮血の瞳が、オレを射抜く。
 初めて会った時と変わらない、残忍で冷酷で…けれどどんな宝玉よりも美しい瞳。
『おいで。』
 そう言って差し伸べられた、白く優美な手は、今、無惨に焼け爛れて投げ出されている。
「おまえに、言っておくことがある。」
 と、切り出したオレを、酒呑童子は淡雪の笑みで見上げている。
「なに?最後くらい、可愛いことを言ってほしいな。」
 戯言のような問いかけに。
 強く、言い切る。
「オレは雷火だ。これからも、ずっと。」
 見開かれた真紅の瞳に走った感情を、最後まで見届けて、オレは背を向ける。
 そのまま歩き出した。

終幕 (語り 雷火らいか

 火陽には、すぐに追いつかれた。
 いつものように「オレを置いていくなよ!」とぎゃんぎゃん喚かれるかと思ったが、火陽は黙ってオレの隣を歩いていた。
 無言で歩き続けて。火陽がオレを見上げて訊く。
「雷火。おまえ、あれでよかったのか?」
「…ああ。」
 雷火。
 そう名付けたのは酒呑童子だ。実の親がつけた名なんてとっくに忘れた。
 生きていく術を、オレに教えたのはあいつだ。思えば、文字も、この国の政の仕組みも、酒呑童子が。
「あいつ、またおまえを追ってくるだろうな。」
「…ああ。」
 火陽が、何もわかっていないはずなのに、全部お見通し、みたいな顔で笑った。
「でも、大丈夫だよな。オレたち二人なら!」
 オレは足を止めて、火陽を凝視しー。
「な、なんだよ?」
と、ちょっと怯んだ火陽に。
「おまえはほとんど役に立ってねーだろ。」
と、冷たく言ってやった。とたん、火陽の顔が怒りで赤くなる。
「そんなことねーよ!!結界張っておまえを隠してたのも、身代わりの式神作ったのもオレじゃん!」
「オレの偽物、下手くそな出来だったぜ。」
「そっくりだった!!おまえって本当の意地悪だ!!」
 毛を逆立てた仔猫みたいにキャンキャン言い出すのが面白くて、オレは思わず笑みがこぼれた。。
 きっと、オレたちは、こんな風に、ずっと一緒にいるんだろう。
                               終
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