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第四幕&終幕
「おまえの幸せのためなら、オレは全て犠牲にできる。世界も、オレ自身でさえも。」~勇者の友情、魔王の涙外伝2~
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第四幕
フェアは、区画を一周したが、殺された男の恋人は、影も形も見つけられなかった。他に不審者と思われるような人物も。そもそも、出歩いている人自体がほとんどいなかった。祭の期間中とは言っても、イベントも屋台もこんな深夜までやっていないので、不自然なことではない。もともと、住人自体が少ない、寂れた区画だ。
フェアは、勇者の剣を鞘に納め、やや拍子抜けした気分で、ラントたちを待たせている路地裏まで戻って来た。
「ラント、待たせて悪い。ルウナ、おまえを襲ったっていう女、見つからなかったぜ。」
と、言ったところで。
フェアは、
「ラント!?」
と、相棒に駆け寄った。
俯き加減のラントは、思いつめた表情で立ち尽くしている。
抜き身の短剣を手にして。
白い頬にかかる銀色の髪は、月光を浴びてきらきらと眩い。それだけに、表情の暗さが際立つようで。
整い過ぎている美貌は、表情によっては、崩れ落ちそうな危うさを醸し出す。保護欲を刺激されるほどに。
自分がいなかったごく短い時間に、何があったというのか。
(残していくべきじゃなかったのか…?)
焦燥にかられながら、フェアはラントの肩に手を置く。
「ラント、オレがいなかった間に、何か。」
答えたのは、フェアが聞きたい声ではなかった。
「ラントさんは、フェアさんを殺したいんだよ。」
フェアは、がん、と鈍器で後頭部を殴られたような衝撃によろめいた。
「そんなわけがっ…!」
上ずった声で反射的に否定したフェアは、声の主の変貌に、ここでようやく気付く。
「おまえ、ルウナなのか?」
全身が、金褐色の毛に覆われた、半人半獣。爪も牙も狼のそれだ。
愛らしい少年の面影が残っているのは、顔だけだ。
「そうだよ。でも、フェアさん、本当はボクのことなんかどうでもいいんでしょう?あなたの大事なラントさんが大変だもんね。」
見抜かれているが、フェアには取り繕う気も無い。ルウナの言う通りだった。
「ラント、おまえがオレ殺したいなんて、うそだよな?」
フェアは、思わず、ラントの肩をつかんだ手に力を入れてしまい、細い肩が折れたらどうしようと怖くなった。慌てて力を緩めたフェアの手を、ラントが振り払った。
「ラント!」
「本当だ、と言ったら?」
鈴の音のような美声は、一切の感情を消し去ると、ゾッとするほど冷酷に響いた。
「ラント…。」
凍りつくフェアを見据える、最高級のルビー。鮮血の真紅。
ラントが、抜き身の短剣をフェアに向ける。
ラントの髪を映して、冷たく無慈悲な銀に光る刃。
「ラント、おまえ、ルウナに操られて…?」
「オレは正気だ。」
フェアの、か細い一縷の望みを、一切の容赦なく断ち切って。
「フェア。」
と、呼ぶラントの声は、とろけるように甘い。極上の蜜の芳香を放っているかのよう。
今まで何度もラントに呼ばれてきたけれど、こんなに甘い声で、縋るように呼ばれたことがあっただろうかと、フェアは、凍りついた思考の片隅で思う。
「ここで、おまえを殺せば、おまえは永遠にオレのものだ。」
☆
「そうだよ、ラントさん、それでいいんだ!」
ルウナが歓喜の声を上げる。
「裏切られてから悔やんでも遅いんだから!」
ルウナに背を向けているラントの表情は見えない。
けれど、フェアの漆黒の双眸が、驚愕に見開かれ、それが次第に絶望に染まっていくのはよく見えた。
ラントが爪先立ちをして、フェアの耳朶に珊瑚色の唇を寄せる。
何か、決定的な一言を告げられたのだろうか。
「ラント、おまえ。」
ラントは、最後まで言わせなかった。
短剣を一閃する。
どさ、とフェアが崩れ落ちる。
ラントの手から、血に染まった短剣が、カランとすべり落ちた。石畳を赤く濡らす。
ルウナが、無邪気な、それゆえに残酷な笑みを浮かべて、二人に近づく。
目を閉じてうつ伏せに倒れているフェアの傍らに膝をつき、うっとりと琥珀の目を細める。
「よかったね、フェアさん。死んでしまえば、ラントさんを裏切ることは無い。」
フェアが跳び起きた。
「え。」
ルウナが立ち上がる間はなかった。
勇者の剣が鞘走る。
月光を眩く反射して。
フェアの、電光石火の一撃が、ルウナの片足の腱を切り裂いた。
「うああああああっ!」
ルウナが絶叫する。
鮮血が噴き上がる。
血飛沫が舞う。
石畳に、紅の雨が降り注ぐ。
「そ、んな…。どうして…?」
倒れたルウナが、必死で顔を上げ、フェアとラントを見上げた。
フェアは無傷だった。服の布地すら切られていない。
「あの血は…。」
「オレの血だよ。」
と、答えたのはラントだった。
白い腕に浮かぶ、鮮やかな赤い一筋。
自分でつけた傷は、深くはないのだろう。それでも、処女雪の肌に際立つ真紅が痛々しい。
「ああ、なるほど…。さっきの耳打ちは…。」
ルウナはようやく、欺かれたことに気づく。
ラントは、フェアに、斬られたふりをして倒れろとでも言ったのだろう。
「人狼は、例外的な存在とは言え、人型の魔族には変わりない。不意を突かなければ倒せないからな。」
ラントは慎重で計算高い。確実に仕留めるために策を巡らす。
ルウナの言葉に乗せられたふりをした。
ルウナが、は、と鼻先で嗤った。
「愚かなことをするね、ラントさん。ボクは、本当に親切で言ったんだよ。ボクの言葉に嘘はない。フェアさんは、いつか必ず貴方を裏切るよ。」
「勝手に決めるな!」
吠えたのはフェアだった。
激昂が、空気を切り裂いて響き渡る。
目も眩むほどの怒りに任せて。
「オレは、ラントを絶対に裏切らない!!」
「フェア、わかってる。」
ラントが静かにフェアを制した。
「ラント。」
物言いたげにラントを見るフェアに、
「わかってる。」
ラントは重ねて言う。
ラントは、醒めた眼差しで二人を眺めていたルウナに向き直る。
真夏の夜を清めるような、涼やかな一陣の風が吹く。
ラントの銀髪が、ざっとなびいた。
「浄化せよ、銀星陣。」
ルウナが倒れている石畳の上に、銀色の五芒星が浮かぶ。
真昼のごとき明るさで周囲を照らす、白銀の光。
ルウナを光の檻に封じ、その中を清廉な光で満たす。
「くっ…。」
歯を喰いしばるルウナからは、次第に獣の部分が消えていく。
体毛は抜け落ち、獣の耳は引っ込む。牙も、犬歯にもどり、目には白目が。
ラントは、裸のルウナに、服と厳しい声音を投げた。
「おまえは人として罪を償うんだ。」
「…殺さないの?きみたちは、勇者と魔法使いなのに。」
ルウナは不自由になった足に苦労しながら、衣服を身に着ける。人狼の肉体の強靭さは、人とは比べものにならない。おそらく、切れた腱も、いつかは元通りなるだろう。傷が塞がるのも桁違いの早さだ。既に血も止まっているが、それでも、瞬時に再生するわけではないらしい。
「おまえを殺したら、冤罪を生んじまうだろ。」
答えたのはフェアだった。
「それに。」
と、深い夜空の瞳でルウナを見据える。
「おまえが殺したあの男は、褒められた性根じゃなかったけど、それでも親も友人もいたはずなんだ。おまえは、そういう人たちの嘆きや憎しみを、受け止める義務がある。」
ラントが思わずフェアの横顔を見る。
失われた故郷。竜の炎で焼き尽くされた村を、フェアは思い出しているのかもしれないと、ふと思った。
ラントの視線に気づいたフェアは、軽く頷きを返した。大丈夫だ、という言葉の代わりに。
フェアは、指を唇に当てて、指笛を吹く。
自警団への合図だ。教えられた通りに、高く長く三度。どこかもの悲しく、夜に響き渡った。
その余韻にかぶせるように、ルウナがぽつりと呟いた。フェアやラントに聞かせるためではないのだろう。思わず零れ落ちた独白。
「オルテンシアにも、いたのかな。」
どこかで聞いた名前だった。どこで、と思い出す前に、
「勇者さま、何かありましたか!?」
指笛を聞きつけた自警団のメンバーが駆けつけてくる足音が響いた。
☆
自警団に引き渡されたルウナは、男を殺めたことを淡々と告白し、抵抗する素振りもなく、自警団に連れられて行った。「あの男が、突然、訪ねて来て、刀を振り回したから、怖くて、反撃しました。夢中だったから、よく覚えていません。」という、ルウナの言葉が、どこまで真実かは謎だが、めった刺しの説明はつく。
ラントの銀星陣は、魔族を浄化し、魔力を弱める魔法だが、完全に奪うものではない。だが、ルウナの様子を見る限り、もはや人に害をなす気はなさそうだった。
ただ、あの森には用心するべきだろう。あそこは、魔族の森だった。キマイラや吸血鬼、人狼だけではなく、もっと多くの魔族がいるのかもしれない。どのようなきっかけで、町を襲うかは定かではないが、この町の規模なら、常駐する勇者の一行がいるはずだ。彼らに伝えておくべきだった。
去り際、ルウナは独り言の続きのように、フェアにもラントにも視線を向けずに言った。満月を見上げて。
「人は命短き泡沫の種。それゆえ、彼らの心は移ろいやすく、常に揺れ動く。人に永遠を求めてはならぬ。それは、魚に陸で生きよと命じるに等しき愚行。」
ルウナは、遠い夏に思いを馳せる。
滴るような森の緑の中の、鮮烈な赤。
咲き誇る薔薇の、むせかえるような甘い芳香。
友と過ごす永遠を信じた、もう戻らない幼い日を。
歌うように語った最後に、つけ加える。
「ボクがずっと昔に言われた言葉だよ。」
フェアとラントは、それには何も答えなかった。誰に、とも聞かなかった。ルウナにも親しい同族がいたのだろう。ルウナを心配して忠告をくれた相手が。届かなかったけれど。
宿への帰り道、ラントはぽつんと呟いた。さっきのルウナのように、独白めいたささやき。
「短剣突きつけられて、よくオレの言うことを信じる気になったな。」
「正直、ちょっとびびった。おまえの演技力、無駄に高いな。」
と、答えるフェアはいつもの調子。
「信じたっつーか、おまえが本気でオレを殺したいなら、まあ、いっかーって考えたら、逆に冷静になったんだよな。」
「あのな。」
ラントが呆れた声を上げる。フェアが、まあまあ、というように、ひらひら手を振る。
「一瞬だけだよ。やっぱり殺されたくはない。これからも、おまえと一緒に生きていきたいからな。」
明るく笑うフェアの笑顔が眩しくて、ラントは目を細めた。
(これからも、か。それは、いつまでだ?)
フェアはラントに言った。「オレは、一緒、おまえを離さないからな。」と。ラントは、フェアが本気で言ったと信じている。ただ、それは「今」のフェアの本気だと知っているのだ。
☆
宿に戻ったフェアは、さっさと寝るつもりだったのだが、ラントは夜着に着替えたものの、ぶ厚い本から目を上げない。
ラントの使うベッドは、壁に接する形で設置されており、ラントは壁にもたれ、立てた膝に本を置いていた。
魔法で作りだした光の玉を浮かべているので、細かい字で書かれた本のタイトルがフェアにも読めた。
どうやら、祭の起源になった伝承について、登場人物の設定や結末が微妙に異なるパターンの話や解説、考察などを記したものらしい。女将が貸してくれた、うすっぺらい本は、子ども向けの「おとぎばなし」に近かったが、こちらは固い専門書のようだ。
今朝、死体が見つけた騒ぎの後、しばらく、自警団と街を一巡した。そのうちに、店も開く時間になったので、ラントが本屋で買って来た。
フェアは、本からラントの腕に視線を移す。
夏らしい半袖の夜着なので、白い肌に残る一直線の赤い傷が痛々しい。ラントは、浅手だからと洗っただけで済ませようとし、フェアが強引に薬を塗った。ラントは、「大げさな。」と迷惑そうだったが。
「ラント、」
と、話しかけたフェアを、ラントは
「オルテンシアを殺したのはルウナ・ベスティアだ。」
と、遮った。本に目を落したまま。
「は?」
フェアは突然のラントの言葉を理解しそこねて、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「それって、何百年も前の伝説だろ?なんでルウナが出てくるんだ?それに、オルテンシアを殺したのは、森の精霊だろ?」
「人狼は魔族だ。何百年も生きる。それに、あの物語の筋では、主役が精霊である必然性はない。虚飾を全てはぎとれば、残るのは、満月の夜、オルテンシアという青年が、恋人とともに惨殺されたという事実だけだ。」
ルウナは、一言も、いつからこの町にやって来たのか言わなかった。フェアとラントが、勝手に旅の占い師で、祭りの時期は稼ぎ時だろうからやって来たのだろうと推測しただけ。
彼は、ずっとこの町にいたのだ。数百年前から。伝承通り、同族に森を追われたのか、自ら去ったのかは定かではないが。
おそらくは、姿を変え、名を変え。ルウナはなぜ、手にかけた親友の暮らした場所で生きると決めたのだろう。愛らしい少年の外見そのままに無邪気でありながら、同時に底知れない残酷さを見せたあの人狼の心情は、フェアにもラントにも理解不能だ。
「ラント、おまえ、気にしてんだろ、ルウナに、オレがおまえを裏切るって言われたこと。」
「自意識過剰。」
ラントは素っ気なく返す。
フェアは、ムッとした表情になって、ラントの正面に座った。安い宿屋の一人用に寝台は、ぎし、と音をたてる。
フェアは、ラントの手から本を引ったくった。投げ出すように、脇に置く。
「おい。」
ラントが、抗議の声を上げるが、相変わらずフェアを見ようとしない。
「気にしてないなら、なんでオレのこと見ないんだよ!」
フェアが、ラントに怒りをぶつける。
ラントは、フェアの視線から逃げるように俯く。
はら、と落ちた銀髪が、ラントの表情を隠してしまう。フェアが、ラントの横髪をかき上げた。
固く引き結ばれた珊瑚色の唇は、何かを必死でこらえているように、フェアには見えた。
声のトーンを落として続ける。
「オレは、絶対におまえを裏切りたくない。だから、ちゃんと言えよ、オレにしてほしいことも、してほしくないことも。」
「っ。」
ラントは思わず唇をかみしめた。血が滲むほどに強く。
フェアの言葉は、ラントの心を蕩かす、麻薬だった。その甘さに、溺れそうになる。理性が屈して、欲望に負けてしまいそうに。
「…誘惑はやめろ。」
その一言を搾り出すのに、相当の気力が必要だった。
ラントは、髪をかき上げているフェアの手を振り払い、肩で大きく息をした。
「オレが無茶なことを言い出したらどうするつもりだ。」
「いいよ。おまえが望むなら、オレはどんな無茶でも聞いてやる。」
間髪入れないフェアの即答に、ラントは叫びだしそうになった。目も眩むほどの怒りが、ラントの中で荒れ狂う。
ラントはそれを、必死で鎮める。
陥落しそうな理性を、繋ぎ止める。
いつもの顔で笑う余裕はなかった。
「うぬぼれるなよ、フェア。オレがおまえに要求することなんて、せいぜいオレの足を引っ張るなってことくらいだ。」
ラントは、手を伸ばして、フェアの鼻をぎゅっと思い切りつまんでやった。すぐにパッと離し、ラントがフェアから手を引きかけたとき。
フェアの手が、ラントの手首をつかんだ。
「あ。」
つかまれた手首から伝わるフェアの体温。それが熱くて。
「それでオレが誤魔化せると思ってんのか。」
にらみつけてくるフェアの瞳の光が強い。
聞いたことも無いくらい、低い声で。
もう、子どもの時代は終わったのだと、思い知らされる。
ラントが、泣き出す寸前の、悲愴な表情になったので、フェアがため息をついた。
「悪い。泣かせたいわけじゃねえよ。」
つかんだままのラントの手首を強く引く。
自分の胸に倒れこむラントを、腕の中に閉じ込める。
ラントが暴れても、フェアは離す気はなかったけれど、ラントは抵抗しなかった。
フェアは、大人しいラントに、逆に怖くなる。
正直、最近どんどん眩さを増すラントの美貌に、不安になるときがある。いつか、手の届かないところに行ってしまったらどうしようと。
それでも、ラントが強気な笑みを浮かべていてくれれば、フェアはまだ安心できる。頼むから、今みたいに物憂げな表情で俯かないでほしい。頼りなくて、儚げで、見ているだけで胸が締め付けられるから。
フェアは、ラントを抱きしめる腕に力をこめる。
(ああもう、なんでこいつ、肩も腰もこんなに細いんだよ。)
同い年の少年なのに。
(よっぽどのことがねーと、もう、ガチで殴り合いとかできねーだろうな。)
最後に取っ組み合いの喧嘩をしたのは、いつだっただろう。
さっきまでつかんでいたラントの華奢な手首には、フェアの指の痕が紅く残っている。肌が白いから目立つのだ。フェアの掌にも、ラントの滑らかな肌の感触が。
(痛かっただろうな。)
と、罪悪感に胸が軋んだ。
甘い香りがする。
部屋に生けられた、大輪の薔薇かと思ったが、違う。これはラントの銀髪の香り。
(おまえの心ごと、全部守りたいのに。)
「おまえが、今までとなんかちがうから…調子狂うんだよ。」
「オレは変わらないよ。」
(変わっていくのは、おまえの方だ、フェア。)
胸の内だけで呟いて、ラントは目を閉じる。
ここで時間を止めてしまいたいと、願わないと言えば嘘になる。
「もってあと数年。」とルウナに突きつけられて、ラントに生まれた焦燥。
いつか、そんな日が来るとわかっていたのに。
(オレは、自分が思っていたよりもずっと、フェアに依存していた…。)
それを、思い知らされた。
しんと静かな夜の底。
世界中から人が消え、フェアと二人きりになったように錯覚する。
ラントにはわかっている。
もしも、ラントが、「ずっと、オレとだけ一緒にいてくれ。」と願えば、フェアはきっと、いともあっさり受け入れると。
(だけど、オレはそんなことをしたくはない。)
ラントは、フェアに束縛されていい。
(だって、オレは、一生、おまえ以外の誰も好きにはなれないから。)
ラントは、この先何年生きても、どんな人間と出会っても、フェア以外誰も好きになれないとわかっている。今までずっとそうだったように。ラントは変わらない。否、変われない。
(だから、オレはおまえには、本当に感謝しているんだ。)
生まれてきてくれて。ラントと出会ってくれて。ラントの親友になってくれて。ラントにとって、そのどれもが奇蹟。
癪だから、ラントは一生フェアに言うつもりはないけれど。
ラントは、フェアがいなければ、深い深い、底なしの孤独の闇にいただろう。虚無の奈落に。
ラントは、フェアがいなかったらと思うと、心底肝が冷える。ラントにとって、フェアは唯一無二の光だ。
(でも、フェアはオレとはちがう。)
フェアには、誰かの恋人になり、夫になる未来があると、ラントにはわかっている。
否、「知っている。」という方が正確だ。どうして「知っている。」のか知らないけれど。
伝わってくるフェアの体温を、今、自分を支えてくれるこの腕を、失う日が来たら。
(オレはたぶん、泣くんだろうな。)
ラントは、フェアの胸に額をつけたまま、動かない。
(でも、それがフェアの幸せなら、オレは祝福できる。)
どんなに辛くても、苦しくても。この胸が張り裂けそうに痛んでも。
(おまえの幸せのためなら、オレは全て犠牲にできる。世界も、オレ自身でさえも。)
終幕
(そう思っていた。本当にそう思っていたのに!)
四年後、二十歳になったラントは、絶望に染まった瞳で、眠るフェアを見つめていた。
フェアの眠る寝台に腰かけて、ラントはフェアを見下ろしている。
精悍な青年に成長した今も、寝顔は子どものように無邪気だ。一つの寝台で眠った幼い日のままで。
ラントは思わず手を伸ばして、フェアの黒髪を一筋すくい上げて、すぐに戻した。起こしてしまいそうで、頬にも額にも触れられなかった。
明日、フェアはキルシュバオム王国の姫と結婚式を挙げる。
(だけど、オレはフェアの幸せを壊す。)
(オレはそんなことを望んでいないのに!)
心の中で叫んで、ラントは、ふっと背筋に氷を差し込まれたように戦慄した。
(本当に?)
(一瞬でも、望まなかったと言えるか?)
だとしたらこれは罰か、報いか。
ラントは、ぎりっと奥歯をかみしめた。
(それなら、罰を受けるのはオレだ。)
ラントは、無造作に寝台に立てかけられている、勇者の剣を手にして立ち上がる。
鞘から剣を抜き放つ。
十年間、フェアが振るってきた剣。その輝きを、ずっと隣で見てきた。
見慣れた黄金。神の創りだした金属、オリハルコン。
魔族を殺せる唯一の武器。
(オレはおまえの幸せを守る。そのためなら、オレは。)
ラントが、抜き身の刃を握りしめ、自分の首筋に当てようとして、その重さに手が止まる。
フェアがやすやすと扱う剣は、ラントの腕には重い。
ラントは鞘を置いて両手で剣を持とうとして、手が滑った。
鞘が寝台の縁に当たり、カタンと小さな音がする。
は、とラントが息を詰めたとき。
フェアが飛び起きた。
「ラント!」
☆
そこは、世界の果て。
魔王の居城。
巨大な、黒曜石に扉の前で、フェアは呟いた。
この扉の向こうにいる、親友に。
「ラント、オレはおまえに言ったよな。オレにしてほしいことも、してほしくないことも、ちゃんと言えって。」
磨きこまれた石の表面には、フェアの顔が映っている。フェアは、扉に手を置いた。
「なんで、言わなかったんだよ。オレは、おまえが望むなら、他の誰だって、全部切り捨てたのに。」
ラントが一言言ってくれていたなら、とフェアは思う。
キルシュバオム王国から旅立って、今頃、どこかの街の宿で、どうでもいい軽口でも叩いていたはずだ。
「気づいてやれなかったのは悪かったと思う。でも、言わなかったおまえも悪いんだぞ。」
フェアは、すうっと息を吸いこんだ。
ぐ、と力を込めて扉を押す。
音もなく開いていく。
「ラント。おまえ、オレに幸せになってくれって言ったよな。だけど、おまえが隣にいなかったら、オレは全然幸せじゃねえよ。」
そして、勇者と魔王の戦いが始まる。
終
フェアは、区画を一周したが、殺された男の恋人は、影も形も見つけられなかった。他に不審者と思われるような人物も。そもそも、出歩いている人自体がほとんどいなかった。祭の期間中とは言っても、イベントも屋台もこんな深夜までやっていないので、不自然なことではない。もともと、住人自体が少ない、寂れた区画だ。
フェアは、勇者の剣を鞘に納め、やや拍子抜けした気分で、ラントたちを待たせている路地裏まで戻って来た。
「ラント、待たせて悪い。ルウナ、おまえを襲ったっていう女、見つからなかったぜ。」
と、言ったところで。
フェアは、
「ラント!?」
と、相棒に駆け寄った。
俯き加減のラントは、思いつめた表情で立ち尽くしている。
抜き身の短剣を手にして。
白い頬にかかる銀色の髪は、月光を浴びてきらきらと眩い。それだけに、表情の暗さが際立つようで。
整い過ぎている美貌は、表情によっては、崩れ落ちそうな危うさを醸し出す。保護欲を刺激されるほどに。
自分がいなかったごく短い時間に、何があったというのか。
(残していくべきじゃなかったのか…?)
焦燥にかられながら、フェアはラントの肩に手を置く。
「ラント、オレがいなかった間に、何か。」
答えたのは、フェアが聞きたい声ではなかった。
「ラントさんは、フェアさんを殺したいんだよ。」
フェアは、がん、と鈍器で後頭部を殴られたような衝撃によろめいた。
「そんなわけがっ…!」
上ずった声で反射的に否定したフェアは、声の主の変貌に、ここでようやく気付く。
「おまえ、ルウナなのか?」
全身が、金褐色の毛に覆われた、半人半獣。爪も牙も狼のそれだ。
愛らしい少年の面影が残っているのは、顔だけだ。
「そうだよ。でも、フェアさん、本当はボクのことなんかどうでもいいんでしょう?あなたの大事なラントさんが大変だもんね。」
見抜かれているが、フェアには取り繕う気も無い。ルウナの言う通りだった。
「ラント、おまえがオレ殺したいなんて、うそだよな?」
フェアは、思わず、ラントの肩をつかんだ手に力を入れてしまい、細い肩が折れたらどうしようと怖くなった。慌てて力を緩めたフェアの手を、ラントが振り払った。
「ラント!」
「本当だ、と言ったら?」
鈴の音のような美声は、一切の感情を消し去ると、ゾッとするほど冷酷に響いた。
「ラント…。」
凍りつくフェアを見据える、最高級のルビー。鮮血の真紅。
ラントが、抜き身の短剣をフェアに向ける。
ラントの髪を映して、冷たく無慈悲な銀に光る刃。
「ラント、おまえ、ルウナに操られて…?」
「オレは正気だ。」
フェアの、か細い一縷の望みを、一切の容赦なく断ち切って。
「フェア。」
と、呼ぶラントの声は、とろけるように甘い。極上の蜜の芳香を放っているかのよう。
今まで何度もラントに呼ばれてきたけれど、こんなに甘い声で、縋るように呼ばれたことがあっただろうかと、フェアは、凍りついた思考の片隅で思う。
「ここで、おまえを殺せば、おまえは永遠にオレのものだ。」
☆
「そうだよ、ラントさん、それでいいんだ!」
ルウナが歓喜の声を上げる。
「裏切られてから悔やんでも遅いんだから!」
ルウナに背を向けているラントの表情は見えない。
けれど、フェアの漆黒の双眸が、驚愕に見開かれ、それが次第に絶望に染まっていくのはよく見えた。
ラントが爪先立ちをして、フェアの耳朶に珊瑚色の唇を寄せる。
何か、決定的な一言を告げられたのだろうか。
「ラント、おまえ。」
ラントは、最後まで言わせなかった。
短剣を一閃する。
どさ、とフェアが崩れ落ちる。
ラントの手から、血に染まった短剣が、カランとすべり落ちた。石畳を赤く濡らす。
ルウナが、無邪気な、それゆえに残酷な笑みを浮かべて、二人に近づく。
目を閉じてうつ伏せに倒れているフェアの傍らに膝をつき、うっとりと琥珀の目を細める。
「よかったね、フェアさん。死んでしまえば、ラントさんを裏切ることは無い。」
フェアが跳び起きた。
「え。」
ルウナが立ち上がる間はなかった。
勇者の剣が鞘走る。
月光を眩く反射して。
フェアの、電光石火の一撃が、ルウナの片足の腱を切り裂いた。
「うああああああっ!」
ルウナが絶叫する。
鮮血が噴き上がる。
血飛沫が舞う。
石畳に、紅の雨が降り注ぐ。
「そ、んな…。どうして…?」
倒れたルウナが、必死で顔を上げ、フェアとラントを見上げた。
フェアは無傷だった。服の布地すら切られていない。
「あの血は…。」
「オレの血だよ。」
と、答えたのはラントだった。
白い腕に浮かぶ、鮮やかな赤い一筋。
自分でつけた傷は、深くはないのだろう。それでも、処女雪の肌に際立つ真紅が痛々しい。
「ああ、なるほど…。さっきの耳打ちは…。」
ルウナはようやく、欺かれたことに気づく。
ラントは、フェアに、斬られたふりをして倒れろとでも言ったのだろう。
「人狼は、例外的な存在とは言え、人型の魔族には変わりない。不意を突かなければ倒せないからな。」
ラントは慎重で計算高い。確実に仕留めるために策を巡らす。
ルウナの言葉に乗せられたふりをした。
ルウナが、は、と鼻先で嗤った。
「愚かなことをするね、ラントさん。ボクは、本当に親切で言ったんだよ。ボクの言葉に嘘はない。フェアさんは、いつか必ず貴方を裏切るよ。」
「勝手に決めるな!」
吠えたのはフェアだった。
激昂が、空気を切り裂いて響き渡る。
目も眩むほどの怒りに任せて。
「オレは、ラントを絶対に裏切らない!!」
「フェア、わかってる。」
ラントが静かにフェアを制した。
「ラント。」
物言いたげにラントを見るフェアに、
「わかってる。」
ラントは重ねて言う。
ラントは、醒めた眼差しで二人を眺めていたルウナに向き直る。
真夏の夜を清めるような、涼やかな一陣の風が吹く。
ラントの銀髪が、ざっとなびいた。
「浄化せよ、銀星陣。」
ルウナが倒れている石畳の上に、銀色の五芒星が浮かぶ。
真昼のごとき明るさで周囲を照らす、白銀の光。
ルウナを光の檻に封じ、その中を清廉な光で満たす。
「くっ…。」
歯を喰いしばるルウナからは、次第に獣の部分が消えていく。
体毛は抜け落ち、獣の耳は引っ込む。牙も、犬歯にもどり、目には白目が。
ラントは、裸のルウナに、服と厳しい声音を投げた。
「おまえは人として罪を償うんだ。」
「…殺さないの?きみたちは、勇者と魔法使いなのに。」
ルウナは不自由になった足に苦労しながら、衣服を身に着ける。人狼の肉体の強靭さは、人とは比べものにならない。おそらく、切れた腱も、いつかは元通りなるだろう。傷が塞がるのも桁違いの早さだ。既に血も止まっているが、それでも、瞬時に再生するわけではないらしい。
「おまえを殺したら、冤罪を生んじまうだろ。」
答えたのはフェアだった。
「それに。」
と、深い夜空の瞳でルウナを見据える。
「おまえが殺したあの男は、褒められた性根じゃなかったけど、それでも親も友人もいたはずなんだ。おまえは、そういう人たちの嘆きや憎しみを、受け止める義務がある。」
ラントが思わずフェアの横顔を見る。
失われた故郷。竜の炎で焼き尽くされた村を、フェアは思い出しているのかもしれないと、ふと思った。
ラントの視線に気づいたフェアは、軽く頷きを返した。大丈夫だ、という言葉の代わりに。
フェアは、指を唇に当てて、指笛を吹く。
自警団への合図だ。教えられた通りに、高く長く三度。どこかもの悲しく、夜に響き渡った。
その余韻にかぶせるように、ルウナがぽつりと呟いた。フェアやラントに聞かせるためではないのだろう。思わず零れ落ちた独白。
「オルテンシアにも、いたのかな。」
どこかで聞いた名前だった。どこで、と思い出す前に、
「勇者さま、何かありましたか!?」
指笛を聞きつけた自警団のメンバーが駆けつけてくる足音が響いた。
☆
自警団に引き渡されたルウナは、男を殺めたことを淡々と告白し、抵抗する素振りもなく、自警団に連れられて行った。「あの男が、突然、訪ねて来て、刀を振り回したから、怖くて、反撃しました。夢中だったから、よく覚えていません。」という、ルウナの言葉が、どこまで真実かは謎だが、めった刺しの説明はつく。
ラントの銀星陣は、魔族を浄化し、魔力を弱める魔法だが、完全に奪うものではない。だが、ルウナの様子を見る限り、もはや人に害をなす気はなさそうだった。
ただ、あの森には用心するべきだろう。あそこは、魔族の森だった。キマイラや吸血鬼、人狼だけではなく、もっと多くの魔族がいるのかもしれない。どのようなきっかけで、町を襲うかは定かではないが、この町の規模なら、常駐する勇者の一行がいるはずだ。彼らに伝えておくべきだった。
去り際、ルウナは独り言の続きのように、フェアにもラントにも視線を向けずに言った。満月を見上げて。
「人は命短き泡沫の種。それゆえ、彼らの心は移ろいやすく、常に揺れ動く。人に永遠を求めてはならぬ。それは、魚に陸で生きよと命じるに等しき愚行。」
ルウナは、遠い夏に思いを馳せる。
滴るような森の緑の中の、鮮烈な赤。
咲き誇る薔薇の、むせかえるような甘い芳香。
友と過ごす永遠を信じた、もう戻らない幼い日を。
歌うように語った最後に、つけ加える。
「ボクがずっと昔に言われた言葉だよ。」
フェアとラントは、それには何も答えなかった。誰に、とも聞かなかった。ルウナにも親しい同族がいたのだろう。ルウナを心配して忠告をくれた相手が。届かなかったけれど。
宿への帰り道、ラントはぽつんと呟いた。さっきのルウナのように、独白めいたささやき。
「短剣突きつけられて、よくオレの言うことを信じる気になったな。」
「正直、ちょっとびびった。おまえの演技力、無駄に高いな。」
と、答えるフェアはいつもの調子。
「信じたっつーか、おまえが本気でオレを殺したいなら、まあ、いっかーって考えたら、逆に冷静になったんだよな。」
「あのな。」
ラントが呆れた声を上げる。フェアが、まあまあ、というように、ひらひら手を振る。
「一瞬だけだよ。やっぱり殺されたくはない。これからも、おまえと一緒に生きていきたいからな。」
明るく笑うフェアの笑顔が眩しくて、ラントは目を細めた。
(これからも、か。それは、いつまでだ?)
フェアはラントに言った。「オレは、一緒、おまえを離さないからな。」と。ラントは、フェアが本気で言ったと信じている。ただ、それは「今」のフェアの本気だと知っているのだ。
☆
宿に戻ったフェアは、さっさと寝るつもりだったのだが、ラントは夜着に着替えたものの、ぶ厚い本から目を上げない。
ラントの使うベッドは、壁に接する形で設置されており、ラントは壁にもたれ、立てた膝に本を置いていた。
魔法で作りだした光の玉を浮かべているので、細かい字で書かれた本のタイトルがフェアにも読めた。
どうやら、祭の起源になった伝承について、登場人物の設定や結末が微妙に異なるパターンの話や解説、考察などを記したものらしい。女将が貸してくれた、うすっぺらい本は、子ども向けの「おとぎばなし」に近かったが、こちらは固い専門書のようだ。
今朝、死体が見つけた騒ぎの後、しばらく、自警団と街を一巡した。そのうちに、店も開く時間になったので、ラントが本屋で買って来た。
フェアは、本からラントの腕に視線を移す。
夏らしい半袖の夜着なので、白い肌に残る一直線の赤い傷が痛々しい。ラントは、浅手だからと洗っただけで済ませようとし、フェアが強引に薬を塗った。ラントは、「大げさな。」と迷惑そうだったが。
「ラント、」
と、話しかけたフェアを、ラントは
「オルテンシアを殺したのはルウナ・ベスティアだ。」
と、遮った。本に目を落したまま。
「は?」
フェアは突然のラントの言葉を理解しそこねて、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「それって、何百年も前の伝説だろ?なんでルウナが出てくるんだ?それに、オルテンシアを殺したのは、森の精霊だろ?」
「人狼は魔族だ。何百年も生きる。それに、あの物語の筋では、主役が精霊である必然性はない。虚飾を全てはぎとれば、残るのは、満月の夜、オルテンシアという青年が、恋人とともに惨殺されたという事実だけだ。」
ルウナは、一言も、いつからこの町にやって来たのか言わなかった。フェアとラントが、勝手に旅の占い師で、祭りの時期は稼ぎ時だろうからやって来たのだろうと推測しただけ。
彼は、ずっとこの町にいたのだ。数百年前から。伝承通り、同族に森を追われたのか、自ら去ったのかは定かではないが。
おそらくは、姿を変え、名を変え。ルウナはなぜ、手にかけた親友の暮らした場所で生きると決めたのだろう。愛らしい少年の外見そのままに無邪気でありながら、同時に底知れない残酷さを見せたあの人狼の心情は、フェアにもラントにも理解不能だ。
「ラント、おまえ、気にしてんだろ、ルウナに、オレがおまえを裏切るって言われたこと。」
「自意識過剰。」
ラントは素っ気なく返す。
フェアは、ムッとした表情になって、ラントの正面に座った。安い宿屋の一人用に寝台は、ぎし、と音をたてる。
フェアは、ラントの手から本を引ったくった。投げ出すように、脇に置く。
「おい。」
ラントが、抗議の声を上げるが、相変わらずフェアを見ようとしない。
「気にしてないなら、なんでオレのこと見ないんだよ!」
フェアが、ラントに怒りをぶつける。
ラントは、フェアの視線から逃げるように俯く。
はら、と落ちた銀髪が、ラントの表情を隠してしまう。フェアが、ラントの横髪をかき上げた。
固く引き結ばれた珊瑚色の唇は、何かを必死でこらえているように、フェアには見えた。
声のトーンを落として続ける。
「オレは、絶対におまえを裏切りたくない。だから、ちゃんと言えよ、オレにしてほしいことも、してほしくないことも。」
「っ。」
ラントは思わず唇をかみしめた。血が滲むほどに強く。
フェアの言葉は、ラントの心を蕩かす、麻薬だった。その甘さに、溺れそうになる。理性が屈して、欲望に負けてしまいそうに。
「…誘惑はやめろ。」
その一言を搾り出すのに、相当の気力が必要だった。
ラントは、髪をかき上げているフェアの手を振り払い、肩で大きく息をした。
「オレが無茶なことを言い出したらどうするつもりだ。」
「いいよ。おまえが望むなら、オレはどんな無茶でも聞いてやる。」
間髪入れないフェアの即答に、ラントは叫びだしそうになった。目も眩むほどの怒りが、ラントの中で荒れ狂う。
ラントはそれを、必死で鎮める。
陥落しそうな理性を、繋ぎ止める。
いつもの顔で笑う余裕はなかった。
「うぬぼれるなよ、フェア。オレがおまえに要求することなんて、せいぜいオレの足を引っ張るなってことくらいだ。」
ラントは、手を伸ばして、フェアの鼻をぎゅっと思い切りつまんでやった。すぐにパッと離し、ラントがフェアから手を引きかけたとき。
フェアの手が、ラントの手首をつかんだ。
「あ。」
つかまれた手首から伝わるフェアの体温。それが熱くて。
「それでオレが誤魔化せると思ってんのか。」
にらみつけてくるフェアの瞳の光が強い。
聞いたことも無いくらい、低い声で。
もう、子どもの時代は終わったのだと、思い知らされる。
ラントが、泣き出す寸前の、悲愴な表情になったので、フェアがため息をついた。
「悪い。泣かせたいわけじゃねえよ。」
つかんだままのラントの手首を強く引く。
自分の胸に倒れこむラントを、腕の中に閉じ込める。
ラントが暴れても、フェアは離す気はなかったけれど、ラントは抵抗しなかった。
フェアは、大人しいラントに、逆に怖くなる。
正直、最近どんどん眩さを増すラントの美貌に、不安になるときがある。いつか、手の届かないところに行ってしまったらどうしようと。
それでも、ラントが強気な笑みを浮かべていてくれれば、フェアはまだ安心できる。頼むから、今みたいに物憂げな表情で俯かないでほしい。頼りなくて、儚げで、見ているだけで胸が締め付けられるから。
フェアは、ラントを抱きしめる腕に力をこめる。
(ああもう、なんでこいつ、肩も腰もこんなに細いんだよ。)
同い年の少年なのに。
(よっぽどのことがねーと、もう、ガチで殴り合いとかできねーだろうな。)
最後に取っ組み合いの喧嘩をしたのは、いつだっただろう。
さっきまでつかんでいたラントの華奢な手首には、フェアの指の痕が紅く残っている。肌が白いから目立つのだ。フェアの掌にも、ラントの滑らかな肌の感触が。
(痛かっただろうな。)
と、罪悪感に胸が軋んだ。
甘い香りがする。
部屋に生けられた、大輪の薔薇かと思ったが、違う。これはラントの銀髪の香り。
(おまえの心ごと、全部守りたいのに。)
「おまえが、今までとなんかちがうから…調子狂うんだよ。」
「オレは変わらないよ。」
(変わっていくのは、おまえの方だ、フェア。)
胸の内だけで呟いて、ラントは目を閉じる。
ここで時間を止めてしまいたいと、願わないと言えば嘘になる。
「もってあと数年。」とルウナに突きつけられて、ラントに生まれた焦燥。
いつか、そんな日が来るとわかっていたのに。
(オレは、自分が思っていたよりもずっと、フェアに依存していた…。)
それを、思い知らされた。
しんと静かな夜の底。
世界中から人が消え、フェアと二人きりになったように錯覚する。
ラントにはわかっている。
もしも、ラントが、「ずっと、オレとだけ一緒にいてくれ。」と願えば、フェアはきっと、いともあっさり受け入れると。
(だけど、オレはそんなことをしたくはない。)
ラントは、フェアに束縛されていい。
(だって、オレは、一生、おまえ以外の誰も好きにはなれないから。)
ラントは、この先何年生きても、どんな人間と出会っても、フェア以外誰も好きになれないとわかっている。今までずっとそうだったように。ラントは変わらない。否、変われない。
(だから、オレはおまえには、本当に感謝しているんだ。)
生まれてきてくれて。ラントと出会ってくれて。ラントの親友になってくれて。ラントにとって、そのどれもが奇蹟。
癪だから、ラントは一生フェアに言うつもりはないけれど。
ラントは、フェアがいなければ、深い深い、底なしの孤独の闇にいただろう。虚無の奈落に。
ラントは、フェアがいなかったらと思うと、心底肝が冷える。ラントにとって、フェアは唯一無二の光だ。
(でも、フェアはオレとはちがう。)
フェアには、誰かの恋人になり、夫になる未来があると、ラントにはわかっている。
否、「知っている。」という方が正確だ。どうして「知っている。」のか知らないけれど。
伝わってくるフェアの体温を、今、自分を支えてくれるこの腕を、失う日が来たら。
(オレはたぶん、泣くんだろうな。)
ラントは、フェアの胸に額をつけたまま、動かない。
(でも、それがフェアの幸せなら、オレは祝福できる。)
どんなに辛くても、苦しくても。この胸が張り裂けそうに痛んでも。
(おまえの幸せのためなら、オレは全て犠牲にできる。世界も、オレ自身でさえも。)
終幕
(そう思っていた。本当にそう思っていたのに!)
四年後、二十歳になったラントは、絶望に染まった瞳で、眠るフェアを見つめていた。
フェアの眠る寝台に腰かけて、ラントはフェアを見下ろしている。
精悍な青年に成長した今も、寝顔は子どものように無邪気だ。一つの寝台で眠った幼い日のままで。
ラントは思わず手を伸ばして、フェアの黒髪を一筋すくい上げて、すぐに戻した。起こしてしまいそうで、頬にも額にも触れられなかった。
明日、フェアはキルシュバオム王国の姫と結婚式を挙げる。
(だけど、オレはフェアの幸せを壊す。)
(オレはそんなことを望んでいないのに!)
心の中で叫んで、ラントは、ふっと背筋に氷を差し込まれたように戦慄した。
(本当に?)
(一瞬でも、望まなかったと言えるか?)
だとしたらこれは罰か、報いか。
ラントは、ぎりっと奥歯をかみしめた。
(それなら、罰を受けるのはオレだ。)
ラントは、無造作に寝台に立てかけられている、勇者の剣を手にして立ち上がる。
鞘から剣を抜き放つ。
十年間、フェアが振るってきた剣。その輝きを、ずっと隣で見てきた。
見慣れた黄金。神の創りだした金属、オリハルコン。
魔族を殺せる唯一の武器。
(オレはおまえの幸せを守る。そのためなら、オレは。)
ラントが、抜き身の刃を握りしめ、自分の首筋に当てようとして、その重さに手が止まる。
フェアがやすやすと扱う剣は、ラントの腕には重い。
ラントは鞘を置いて両手で剣を持とうとして、手が滑った。
鞘が寝台の縁に当たり、カタンと小さな音がする。
は、とラントが息を詰めたとき。
フェアが飛び起きた。
「ラント!」
☆
そこは、世界の果て。
魔王の居城。
巨大な、黒曜石に扉の前で、フェアは呟いた。
この扉の向こうにいる、親友に。
「ラント、オレはおまえに言ったよな。オレにしてほしいことも、してほしくないことも、ちゃんと言えって。」
磨きこまれた石の表面には、フェアの顔が映っている。フェアは、扉に手を置いた。
「なんで、言わなかったんだよ。オレは、おまえが望むなら、他の誰だって、全部切り捨てたのに。」
ラントが一言言ってくれていたなら、とフェアは思う。
キルシュバオム王国から旅立って、今頃、どこかの街の宿で、どうでもいい軽口でも叩いていたはずだ。
「気づいてやれなかったのは悪かったと思う。でも、言わなかったおまえも悪いんだぞ。」
フェアは、すうっと息を吸いこんだ。
ぐ、と力を込めて扉を押す。
音もなく開いていく。
「ラント。おまえ、オレに幸せになってくれって言ったよな。だけど、おまえが隣にいなかったら、オレは全然幸せじゃねえよ。」
そして、勇者と魔王の戦いが始まる。
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