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序幕&第一幕
「おまえの牙にかかるなら、本望だぜ。」
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序幕
オレが、あいつのこと、そこまで好きな理由?
きっかけは、アレだな。小四ときか。
え?生まれたときからの付き合いじゃなかったのかって?べつに、嘘ついてたわけじゃねーよ?出会った記憶がないくらいの幼馴染なのはホント。家、近所だし。いちおー、親戚だし。オレんち、あいつんちの分家筋だから。って、ああ、それは知ってるんだっけ?
はいはい、話進めますよ。
五月のさあ、風は爽やかだけど日射しはもう夏かってくらいの、よく晴れた日だった。
その日の三時間目が、運動会のリレー練習でさ。休み時間の終わり頃には、ぼちぼち学年全員が運動場に整列しだしてた。運動会練習ってさ、入退場とかは正直かったるいけど、競技自体は結構燃えるわけ。学級対抗の全員リレーなんて、すげえ盛り上がるの。
で、あいつは当然のように、アンカーだった。
ほら、クラスに一人はいるだろ?天才型つーの?特に一生懸命やってるわけでもねーのに、勉強も運動も、飛び抜けてよくできるヤツ。もともとの能力値が高いハイスペック。
だけど、その頃から、この世の全てがつまんねーって顔してたな。
べつに、嫌われてるわけじゃねーのに、滅多に誰とも口きかねーし。ボッチってより、孤高って感じ。そんな小学生いるかって?いたんだよ。
幼稚園に入る前から知ってたけど、オレとは違いすぎて、接点なんてほとんどなかった。
そのときも、あいつは、くだらない話でゲラゲラ笑ってるやつらに、視線さえ向けないで、ただ前を見ていた。立っているだけで、周囲とはまとう空気さえ違ってた。
「つーか、走順って、結構いい加減に決めたけど、だいじょーぶか?うちのクラス、一番速いやつアンカーで、二番手スターターにしただけで、あと適当じゃん?」
練習始まる直前に、そんなこと言っても仕方ないじゃんってことを、誰だったかが言い出して。
「いいんじゃねーの?1組なんて名簿順だってよ。走順覚えやすいよーにってさ。」
「へー。そーいや、名簿順ってさあ…。」
そこから、名前の話になっていって。
「おまえの名前って、女みてーだよな。」
と、オレにふられた。
げ、とオレは一瞬顔がひきつる。
結構気にしていることだ。だから、オレは、大抵のやつには苗字で呼んでくれって言っている。
人が気にしていること、そーやって、気軽にふるなよな、とは思う。思うが。
「そーなんだよ。幼稚園の頃とか、姫とかつけられてさあ、サイアク。ちょっと親恨むぜ。」
オレは、へらっと笑って、返していた。もう反射的。
だってさー、ここで怒っても空気悪くなるだけだし。相手も、そこまでの悪意はないってわかってる。
ただ、小学生の男子なんて、ホントガキだからさあ、人の痛みにゃドンカンなんだよな。そんで、だからこそ、残酷なイキモノなんだ。
だから、そんなのは、よくあること。きっと、オレも、無意識にそっち側だったことなんて、たくさんあるんだろう。そういう世界なんだって、思ってた。その瞬間まで。
周囲のやつらが遠慮なく派手に笑う。
「ああ、そりゃいいや。」
「おもしれー、似合うじゃん、姫。」
オレも一緒になって笑っていたら。
ドスン、ドスン、ドスンって。
急に、そいつらが、倒れるように、地面に尻餅をついていった。
「へ?」
何が起こったか、一瞬、誰にも…そいつら自身にもわかってなかったと思う。
あいつが…火叢紅夜が、冷え切った声で、一言告げるまで
「目障りだ。」
氷のナイフで胸刺されたら、こんな感じじゃないかっていう声。
綺麗に澄んで、でも、一切の容赦がない声だった。
オレは、そこで、ようやく、紅がそいつらに、鮮やかに足払いを喰らわせたことに気づいた。地面に転がったやつらは、何が何だかわかってないって感じで、喧嘩に発展するどころか、誰も文句さえ言えない状態だった。
紅は、すっと、一瞬だけ、オレに視線を流した。
あの時の衝撃は、なんて言ったらいいんだろう。
心臓をわしづかみにされたみたいな、電流が体中に奔ったみたいな。ホントに一瞬だったのに。
その後、すぐにチャイムが鳴って、先生たちも集まって、リレー練習が始まったから、結局、オレはあいつに何も言っていないんだけど。
紅は、最下位でバトンを受け取ったにも関わらず、前の走者を次々抜いて、あっさり一位でゴールした。風になびく黒髪と、赤いはちまきの色が、ひどく鮮やかに目に焼き付いている。
背中に翼でも生えているんじゃないかっていうスピードで駆けて行くあいつの背中を見ながら、オレは、勝手に決めた。
こいつは、オレとは全然違う。
和を乱すことなんて、何とも思っていないから、全部、自分の思い通りに行動できる。一人で何でもできる。一人で生きていける。
でも、もしも、紅に助けが必要になるときが来たら、その時は。
オレは、何を犠牲にしてでも、命を懸けてでも、紅に手を差し伸べようって。
そのために、オレは、ずっとずっと、紅の隣にいようって。
オレは、あの時、誓ったんだ。
第一幕
都会の喧騒から遠く離れた山奥のキャンプ場。
少し前まではしゃいでいた子どもたちも、昼間の疲れが出たのか、眠りに落ちたようだ。どのテントもしん、と静まりかえっている。それを確かめた教師たちも引き上げていった。
静寂の中、紅夜は、す、と身を起こす。
光を遮ったテントの中だが、今の彼の目は特別だった。昼間と変わらずに…否、陽光の下よりもはっきりと、全てを見通すことができる。
紅夜は、肩が触れるほど近くで眠っていた友達の寝顔を見下ろす。
起きているときよりも幼く見える、無邪気な寝顔だ。穏やかな寝息。
紅夜の目が、妖しく輝いた。
飢えた獣が、獲物を前にしたときの、獰猛な目。それでいて、見る者を虜にする妖艶さを帯びている。
十かそこらの子どもにできる目つきではなかった。
紅夜は、ぐっすり眠っている少年に覆いかぶさるようにして、その首筋に唇を寄せる。
触れる寸前で。
「…紅…」
少年が小さく呟いた。
紅夜が、ハッと身を起こす。
驚愕に見開かれた双眸。
しかし、少年が目覚める気配はない。
紅夜は目を閉じた。
「…雪…。」
唇の動きだけで友を呼ぶ。
「白雪」という本名を苦手にしている友が、紅夜にだけ許した愛称。
紅夜は、何かを振り切るように、首を振り、音もなくテントから出て行った。
再びの、静寂。
☆
(なんか…寒い…?)
ふっと目が覚めたのは、肩からぬくもりが失われたためだった。
七月の上旬とはいえ、山の夜は冷える。長袖でも肌寒いくらいだった。
無意識に伸ばした手に、触れるものがない。そこで眠っているはずの友人が。
手さぐりで懐中電灯を探し当て、照らしてみる。
「…れ…?紅…?」
隣で眠っているはずの紅夜がいない。トイレかなと思い、しばらく待ったが、戻って来る気配がない。
テントを出たのは、嫌な予感がしたからだ。
いわゆる、虫の知らせというやつで…白雪のそれは、実によく当たった。
(ここ、最初から嫌な感じ、ビンビンしてたもんなあ…。)
山の中だから、空気は澄んでいる。風が葉を揺らす音。小川のせせらぎ。濃い緑のにおい。土のにおい。明るい月光が、行く先を照らしている。
五感は山特有の清浄さを感じ取るのに、もう一つの…最後の、第六感が告げるのだ。
この地に染み込んだ穢れを、淀みを、濁りを。
『おまえは、分家には珍しく、力が強いようだな。だから、直感が、まずい場所だと感じたら、すぐに離れることだ。そこには、何かがいる。人外のモノたちがな。』
(いやいや、じいさま。ここ、なんか嫌な感じがするから帰りますーって、キャンプ中止にして帰るとか無理だから。学校行事だから!)
本家の先代からの忠告はありがたいが、実行できるときとできないときがあるのだと、白雪は胸の内でぼやいた。
むきだしの木の根に、つまずかないように気をつけて進む。
向かうべき場所は、わかっていた。
不吉な、不穏な気配の源へ。
ぽっかりと開けた場所。
数時間前にキャンプファイヤーをした広場だ。
燃え残りの薪も、すっかり撤去された、その中心に。
白雪の探す相手はいた。
「っ!…。」
息を呑んで、見つめる。
とっさには、声すら出なかった。
見惚れるほど凄艶で、全身総毛立つほど恐ろしい光景だった。
真紅の血をまとって立つ、紅夜の姿は。
もともと、近寄り難いほどの美貌の少年だ。
光の輪が浮かぶ、艶のある黒髪。すべらかな白皙の肌。俊敏さをうかがわせる、すらりとした肢体。
眼光が鋭すぎて、美少年という言葉は似合わない。繊細さや脆弱さとは真逆の、他者を威圧する華麗さ。
その、紅夜の瞳が。
血赤珊瑚の色をしていた。
全身にまとう鮮血と同じ…否、それよりも鮮やかな、最高級のルビー。
月明かりの下でさえ、これほど鮮やかなら、陽の光を浴びたなら、目も眩むほどの真紅だろう。
「紅、おまえ、けが…。」
白雪が、ようやく言えたのは、それだけだった。
紅夜は、白い頬から鮮血が滴り落ちるのに構わず、いともあっさり言う。
「返り血だ。」
「か、返り血って、おまえ…。」
現代日本に生きてて、そんな言葉使う機会があるやつなんか、滅多にいねーよ、といつもの調子で返したかったが、さすがに無理だった。
紅夜の周辺に転がる骸。
大地を真っ赤に染めるほどの流血。血のにおいは、吐き気をもよおすほどに濃い。一目で、既に命はないのだと知れる。
そして、その骸は、人ではなかった。
ゆうに二メートルを超える巨躯。異様に発達した筋肉。カッと見開かれたまま息絶えているその目には、白目はない。耳まで裂けた口。そこからのぞく牙。そして、両のこめかみから伸びる角。
紅夜は、膝をついた。鬼の骸の一つに手をかけ、その首筋にかがみこむ。
「やめろっ!」
白雪は、反射的に、紅夜の両肩をつかんでいた。
わかってしまったのだ。紅夜が何をしようとしているのか。友が犯そうとする禁忌を。
「離せ。」
紅夜の声は、白雪の肌が粟立つほど冷たく、非情だった。
本能的に従いそうになりながらも、白雪は必死で踏みとどまる。
「だめだ!こんなの口にしたら、おまえ…おまえは…。」
「喉が渇いている。」
その鮮血の瞳に、獣じみた光がある。飢えた獣の凶暴さで、紅夜はそう言った。
「でも、だめだ。そんな…。」
泣きそうに顔を歪めた白雪に、紅夜は、ふ、と唇だけで笑む。冷酷な嘲笑だった。
犬歯というには鋭利に過ぎる、二本の牙がのぞく。
「だったら、おまえの血を寄越せ。」
できないだろう、とその赤い目が告げていた。
白雪は目を見開き、すぐに微笑んだ。
「わかった。」
「!?」
今度は、紅夜が瞠目する番だった。
声を失う紅夜に、白雪は、くすっと浮かべた笑みを、より明るいものへと変える。
(おまえが驚くのって、めずらしいじゃん。)
そんな状況じゃないのに、おもしろくなってくる。
白雪は、羽織っているジャージを脱いだ。中に着ているのはTシャツで、首筋の肌は出ているから、問題ないよな、と考える。
「…雪…おまえ、どうして…。」
紅夜が、かすれた声で呟く。
抗いがたい飢餓感に、薄れる理性を、必死でかき集めて。
白雪は、気負いなく告げる。いつも通りの、軽やかで屈託のない声。
「だって友達じゃん、オレたち。」
「!…。」
紅夜は、刹那、完全に呼吸を止め、笑う。さっきの、絶対零度の氷の笑みではなく、痛みをこらえるように。
「…馬鹿だな、おまえは。後悔するぞ?」
「そーか?ここで見なかったことにする方が、よっぽど後悔するわ。」
紅夜は、もう何も言わなかった。
限界だった。
意識が遠のくほどの、喉の渇き。それを潤す甘露が、目の前にある。
白雪は、間近に迫る赤い瞳が、濡れたように光るのを、ただ見返す。
生への欲望。
紅夜が、白雪の両肩を強くつかむ。
爪が食い込む。
白雪は、無言で耐える。
首筋に、紅夜の吐息がかかる。
かすかに甘くて、はっきりと熱い。
首筋を食んだ紅夜の唇は、柔らかかった。
けれど、次の瞬間、錐を差しこまれたような激痛。
白雪は、歯を喰いしばった。
うめき声一つ立てない。
吸い上げられる。
血を。
生命の源を。
心臓が早鐘を打つ。
どくどくと、首筋の脈動を感じる。
ふっと、全てが闇に沈む。
意識を手放す寸前。
紅夜の腕に抱き留められた。
☆
喉を通っていく白雪の血は、紅夜にとって、極上の蜜。
全身に行きわたって、細胞の全てを潤し、満たす。
このまま、吸い尽くしたいという欲望を、紅夜は意志の力でねじふせた。
崩れ落ちる白雪の体を支え、牙を抜く。
つうっと、白雪の首筋に伝わった血は、舌で舐めとった。
弛緩しきった白雪の体を、紅夜は抱きしめる。
耳もとにささやいた。聞こえていないと知りつつ。
「…おまえは、本当に馬鹿だ…!」
紅く濡れた唇で。
パキン、とごく小さな音がした。
視線を向けるまでもなく、紅夜は気づいていた。近づいて来る気配に。
「…手遅れでしたか。」
苦いものを含んだ声音。
仕立てのよい、オーダーメイドかブランドものとおぼしきスーツに、革靴。こんな山奥には不自然すぎる出で立ち。細面の優男だが、ノンフレームの眼鏡の奥の眼には、隙がない。
「…共鳴しましたね。この山の瘴気に。…しかたありません。」
男は、ふう、とため息を吐き出し、その一瞬で気持ちを切り替え…否、何かを切り捨てたようだった。
「こんばんは、初めまして。火叢紅夜くん。私、こういうモノでして。」
と、取り出して見せたのは、警察手帳。刑事ドラマのワンシーンよりもよほどあっさりと、悪く言えば雑に広げる。
記された階級は、警部。氏名には、土御門陵とある。
紅夜は、無言のまま、かすかに目を細めた。警戒しているのか、馬鹿にしているのか、その表情からは読み取れない。男は気にした風もなく、淀みなく話す。
「土御門には聞き覚えがありますか?キミと同じく、私も陰陽師の血筋です。どうして陰陽師が警察って思ってます?実は、公安には、霊的案件を取り扱う部署があります。明治になって廃された陰陽寮が、紆余曲折の末、そこに落ち着きまて。」
陵は、警察手帳をしまい、続ける。
「もちろん、表向きは存在しない部署です。怨霊も鬼も妖怪も、現代では架空の存在。いないことになっていますからね。でも、そうではないことを、キミは知っていますね?」
と、陵は、紅夜の周囲に散らばる鬼の骸にちらりと視線を流した。
それから、紅夜自身に。
瞳は鮮烈な紅、鋭く光る二本の牙、朱を佩いた唇。
「年間、行方不明者の届け出は、8万人以上。そのうち数百から数千人は、結局足取りがつかめません。彼らのうちの、さらに何割かは、異形のものたちの犠牲になっています。私たち、公安第零課の職務は、人に仇為す異形の駆除です。そして、パニックを避けるための、異形の存在の秘匿。ここで、困ったことが一つあるんですよねえ。」
陵は、にこ、と口角を引き上げる。
「その職務内容には、特殊な技能が求められるために、公安第零課は、慢性的に人手不足なんです。優秀な人材は、手元に置いて、育てたい。ここで、キミに提案です。火叢紅夜くん。キミ、私のスカウトに応じる気はありませんか?」
「オレに何の得がある?」
ここでようやく、紅夜が声を発した。
初対面の、得体のしれない、かつ、権力を持った大人に対して、臆する気配の欠片もなく。不遜で計算高く、冷徹な眼差しで、陵を見ている。十かそこらの子どもがするには、あまりに冷たい目だった。
しかし、陵も、相当の修羅場をくぐってきた身だ。表面上は動じない。
「いろいろありますよ。そう、たとえば…今、キミの周囲に転がっているモノの始末をこちらで引き受け。」
「カン!」
陵の言葉を遮り、紅夜が叫んだのは、不動明王一字呪。簡略した真言だが、効果は絶大だった。
一瞬で燃え広がった炎が、鬼の骸を焼き払う。
火の粉を巻き上げ、赤々と燃える火炎が、周囲を真昼の明るさで照らす。
朱金の火を映し、紅緋の双眸は、なおいっそう鮮やかに浮かび上がる。
「…なるほど。」
と、陵は、詰めていた息を吐いた。
「さすがは、中央にまでその名を轟かす、火叢の直系、というところですか。」
(末恐ろしい…これは、何としても、こちら側に。…やれやれ。切り札は、まだとっておきたかったのですが、そうはいかないようです。)
「では、キミの中の鬼を、封じて差し上げましょう。」
陵が、紅夜の腕の中の白雪を指す。
「その子の血を欲する衝動を。」
「!」
初めて、紅夜の表情が年相応の少年のものになった。
おそらく無意識に、白雪に視線を落とす。
白く細い首筋。そこに自らが穿った、二つの穴を。
紅夜は、友を抱える腕に力をこめる。
しかし、顔を上げた表情は、もう不敵で傲慢なものに戻っていた。
「いいだろう。取引に応じてやる。」
オレが、あいつのこと、そこまで好きな理由?
きっかけは、アレだな。小四ときか。
え?生まれたときからの付き合いじゃなかったのかって?べつに、嘘ついてたわけじゃねーよ?出会った記憶がないくらいの幼馴染なのはホント。家、近所だし。いちおー、親戚だし。オレんち、あいつんちの分家筋だから。って、ああ、それは知ってるんだっけ?
はいはい、話進めますよ。
五月のさあ、風は爽やかだけど日射しはもう夏かってくらいの、よく晴れた日だった。
その日の三時間目が、運動会のリレー練習でさ。休み時間の終わり頃には、ぼちぼち学年全員が運動場に整列しだしてた。運動会練習ってさ、入退場とかは正直かったるいけど、競技自体は結構燃えるわけ。学級対抗の全員リレーなんて、すげえ盛り上がるの。
で、あいつは当然のように、アンカーだった。
ほら、クラスに一人はいるだろ?天才型つーの?特に一生懸命やってるわけでもねーのに、勉強も運動も、飛び抜けてよくできるヤツ。もともとの能力値が高いハイスペック。
だけど、その頃から、この世の全てがつまんねーって顔してたな。
べつに、嫌われてるわけじゃねーのに、滅多に誰とも口きかねーし。ボッチってより、孤高って感じ。そんな小学生いるかって?いたんだよ。
幼稚園に入る前から知ってたけど、オレとは違いすぎて、接点なんてほとんどなかった。
そのときも、あいつは、くだらない話でゲラゲラ笑ってるやつらに、視線さえ向けないで、ただ前を見ていた。立っているだけで、周囲とはまとう空気さえ違ってた。
「つーか、走順って、結構いい加減に決めたけど、だいじょーぶか?うちのクラス、一番速いやつアンカーで、二番手スターターにしただけで、あと適当じゃん?」
練習始まる直前に、そんなこと言っても仕方ないじゃんってことを、誰だったかが言い出して。
「いいんじゃねーの?1組なんて名簿順だってよ。走順覚えやすいよーにってさ。」
「へー。そーいや、名簿順ってさあ…。」
そこから、名前の話になっていって。
「おまえの名前って、女みてーだよな。」
と、オレにふられた。
げ、とオレは一瞬顔がひきつる。
結構気にしていることだ。だから、オレは、大抵のやつには苗字で呼んでくれって言っている。
人が気にしていること、そーやって、気軽にふるなよな、とは思う。思うが。
「そーなんだよ。幼稚園の頃とか、姫とかつけられてさあ、サイアク。ちょっと親恨むぜ。」
オレは、へらっと笑って、返していた。もう反射的。
だってさー、ここで怒っても空気悪くなるだけだし。相手も、そこまでの悪意はないってわかってる。
ただ、小学生の男子なんて、ホントガキだからさあ、人の痛みにゃドンカンなんだよな。そんで、だからこそ、残酷なイキモノなんだ。
だから、そんなのは、よくあること。きっと、オレも、無意識にそっち側だったことなんて、たくさんあるんだろう。そういう世界なんだって、思ってた。その瞬間まで。
周囲のやつらが遠慮なく派手に笑う。
「ああ、そりゃいいや。」
「おもしれー、似合うじゃん、姫。」
オレも一緒になって笑っていたら。
ドスン、ドスン、ドスンって。
急に、そいつらが、倒れるように、地面に尻餅をついていった。
「へ?」
何が起こったか、一瞬、誰にも…そいつら自身にもわかってなかったと思う。
あいつが…火叢紅夜が、冷え切った声で、一言告げるまで
「目障りだ。」
氷のナイフで胸刺されたら、こんな感じじゃないかっていう声。
綺麗に澄んで、でも、一切の容赦がない声だった。
オレは、そこで、ようやく、紅がそいつらに、鮮やかに足払いを喰らわせたことに気づいた。地面に転がったやつらは、何が何だかわかってないって感じで、喧嘩に発展するどころか、誰も文句さえ言えない状態だった。
紅は、すっと、一瞬だけ、オレに視線を流した。
あの時の衝撃は、なんて言ったらいいんだろう。
心臓をわしづかみにされたみたいな、電流が体中に奔ったみたいな。ホントに一瞬だったのに。
その後、すぐにチャイムが鳴って、先生たちも集まって、リレー練習が始まったから、結局、オレはあいつに何も言っていないんだけど。
紅は、最下位でバトンを受け取ったにも関わらず、前の走者を次々抜いて、あっさり一位でゴールした。風になびく黒髪と、赤いはちまきの色が、ひどく鮮やかに目に焼き付いている。
背中に翼でも生えているんじゃないかっていうスピードで駆けて行くあいつの背中を見ながら、オレは、勝手に決めた。
こいつは、オレとは全然違う。
和を乱すことなんて、何とも思っていないから、全部、自分の思い通りに行動できる。一人で何でもできる。一人で生きていける。
でも、もしも、紅に助けが必要になるときが来たら、その時は。
オレは、何を犠牲にしてでも、命を懸けてでも、紅に手を差し伸べようって。
そのために、オレは、ずっとずっと、紅の隣にいようって。
オレは、あの時、誓ったんだ。
第一幕
都会の喧騒から遠く離れた山奥のキャンプ場。
少し前まではしゃいでいた子どもたちも、昼間の疲れが出たのか、眠りに落ちたようだ。どのテントもしん、と静まりかえっている。それを確かめた教師たちも引き上げていった。
静寂の中、紅夜は、す、と身を起こす。
光を遮ったテントの中だが、今の彼の目は特別だった。昼間と変わらずに…否、陽光の下よりもはっきりと、全てを見通すことができる。
紅夜は、肩が触れるほど近くで眠っていた友達の寝顔を見下ろす。
起きているときよりも幼く見える、無邪気な寝顔だ。穏やかな寝息。
紅夜の目が、妖しく輝いた。
飢えた獣が、獲物を前にしたときの、獰猛な目。それでいて、見る者を虜にする妖艶さを帯びている。
十かそこらの子どもにできる目つきではなかった。
紅夜は、ぐっすり眠っている少年に覆いかぶさるようにして、その首筋に唇を寄せる。
触れる寸前で。
「…紅…」
少年が小さく呟いた。
紅夜が、ハッと身を起こす。
驚愕に見開かれた双眸。
しかし、少年が目覚める気配はない。
紅夜は目を閉じた。
「…雪…。」
唇の動きだけで友を呼ぶ。
「白雪」という本名を苦手にしている友が、紅夜にだけ許した愛称。
紅夜は、何かを振り切るように、首を振り、音もなくテントから出て行った。
再びの、静寂。
☆
(なんか…寒い…?)
ふっと目が覚めたのは、肩からぬくもりが失われたためだった。
七月の上旬とはいえ、山の夜は冷える。長袖でも肌寒いくらいだった。
無意識に伸ばした手に、触れるものがない。そこで眠っているはずの友人が。
手さぐりで懐中電灯を探し当て、照らしてみる。
「…れ…?紅…?」
隣で眠っているはずの紅夜がいない。トイレかなと思い、しばらく待ったが、戻って来る気配がない。
テントを出たのは、嫌な予感がしたからだ。
いわゆる、虫の知らせというやつで…白雪のそれは、実によく当たった。
(ここ、最初から嫌な感じ、ビンビンしてたもんなあ…。)
山の中だから、空気は澄んでいる。風が葉を揺らす音。小川のせせらぎ。濃い緑のにおい。土のにおい。明るい月光が、行く先を照らしている。
五感は山特有の清浄さを感じ取るのに、もう一つの…最後の、第六感が告げるのだ。
この地に染み込んだ穢れを、淀みを、濁りを。
『おまえは、分家には珍しく、力が強いようだな。だから、直感が、まずい場所だと感じたら、すぐに離れることだ。そこには、何かがいる。人外のモノたちがな。』
(いやいや、じいさま。ここ、なんか嫌な感じがするから帰りますーって、キャンプ中止にして帰るとか無理だから。学校行事だから!)
本家の先代からの忠告はありがたいが、実行できるときとできないときがあるのだと、白雪は胸の内でぼやいた。
むきだしの木の根に、つまずかないように気をつけて進む。
向かうべき場所は、わかっていた。
不吉な、不穏な気配の源へ。
ぽっかりと開けた場所。
数時間前にキャンプファイヤーをした広場だ。
燃え残りの薪も、すっかり撤去された、その中心に。
白雪の探す相手はいた。
「っ!…。」
息を呑んで、見つめる。
とっさには、声すら出なかった。
見惚れるほど凄艶で、全身総毛立つほど恐ろしい光景だった。
真紅の血をまとって立つ、紅夜の姿は。
もともと、近寄り難いほどの美貌の少年だ。
光の輪が浮かぶ、艶のある黒髪。すべらかな白皙の肌。俊敏さをうかがわせる、すらりとした肢体。
眼光が鋭すぎて、美少年という言葉は似合わない。繊細さや脆弱さとは真逆の、他者を威圧する華麗さ。
その、紅夜の瞳が。
血赤珊瑚の色をしていた。
全身にまとう鮮血と同じ…否、それよりも鮮やかな、最高級のルビー。
月明かりの下でさえ、これほど鮮やかなら、陽の光を浴びたなら、目も眩むほどの真紅だろう。
「紅、おまえ、けが…。」
白雪が、ようやく言えたのは、それだけだった。
紅夜は、白い頬から鮮血が滴り落ちるのに構わず、いともあっさり言う。
「返り血だ。」
「か、返り血って、おまえ…。」
現代日本に生きてて、そんな言葉使う機会があるやつなんか、滅多にいねーよ、といつもの調子で返したかったが、さすがに無理だった。
紅夜の周辺に転がる骸。
大地を真っ赤に染めるほどの流血。血のにおいは、吐き気をもよおすほどに濃い。一目で、既に命はないのだと知れる。
そして、その骸は、人ではなかった。
ゆうに二メートルを超える巨躯。異様に発達した筋肉。カッと見開かれたまま息絶えているその目には、白目はない。耳まで裂けた口。そこからのぞく牙。そして、両のこめかみから伸びる角。
紅夜は、膝をついた。鬼の骸の一つに手をかけ、その首筋にかがみこむ。
「やめろっ!」
白雪は、反射的に、紅夜の両肩をつかんでいた。
わかってしまったのだ。紅夜が何をしようとしているのか。友が犯そうとする禁忌を。
「離せ。」
紅夜の声は、白雪の肌が粟立つほど冷たく、非情だった。
本能的に従いそうになりながらも、白雪は必死で踏みとどまる。
「だめだ!こんなの口にしたら、おまえ…おまえは…。」
「喉が渇いている。」
その鮮血の瞳に、獣じみた光がある。飢えた獣の凶暴さで、紅夜はそう言った。
「でも、だめだ。そんな…。」
泣きそうに顔を歪めた白雪に、紅夜は、ふ、と唇だけで笑む。冷酷な嘲笑だった。
犬歯というには鋭利に過ぎる、二本の牙がのぞく。
「だったら、おまえの血を寄越せ。」
できないだろう、とその赤い目が告げていた。
白雪は目を見開き、すぐに微笑んだ。
「わかった。」
「!?」
今度は、紅夜が瞠目する番だった。
声を失う紅夜に、白雪は、くすっと浮かべた笑みを、より明るいものへと変える。
(おまえが驚くのって、めずらしいじゃん。)
そんな状況じゃないのに、おもしろくなってくる。
白雪は、羽織っているジャージを脱いだ。中に着ているのはTシャツで、首筋の肌は出ているから、問題ないよな、と考える。
「…雪…おまえ、どうして…。」
紅夜が、かすれた声で呟く。
抗いがたい飢餓感に、薄れる理性を、必死でかき集めて。
白雪は、気負いなく告げる。いつも通りの、軽やかで屈託のない声。
「だって友達じゃん、オレたち。」
「!…。」
紅夜は、刹那、完全に呼吸を止め、笑う。さっきの、絶対零度の氷の笑みではなく、痛みをこらえるように。
「…馬鹿だな、おまえは。後悔するぞ?」
「そーか?ここで見なかったことにする方が、よっぽど後悔するわ。」
紅夜は、もう何も言わなかった。
限界だった。
意識が遠のくほどの、喉の渇き。それを潤す甘露が、目の前にある。
白雪は、間近に迫る赤い瞳が、濡れたように光るのを、ただ見返す。
生への欲望。
紅夜が、白雪の両肩を強くつかむ。
爪が食い込む。
白雪は、無言で耐える。
首筋に、紅夜の吐息がかかる。
かすかに甘くて、はっきりと熱い。
首筋を食んだ紅夜の唇は、柔らかかった。
けれど、次の瞬間、錐を差しこまれたような激痛。
白雪は、歯を喰いしばった。
うめき声一つ立てない。
吸い上げられる。
血を。
生命の源を。
心臓が早鐘を打つ。
どくどくと、首筋の脈動を感じる。
ふっと、全てが闇に沈む。
意識を手放す寸前。
紅夜の腕に抱き留められた。
☆
喉を通っていく白雪の血は、紅夜にとって、極上の蜜。
全身に行きわたって、細胞の全てを潤し、満たす。
このまま、吸い尽くしたいという欲望を、紅夜は意志の力でねじふせた。
崩れ落ちる白雪の体を支え、牙を抜く。
つうっと、白雪の首筋に伝わった血は、舌で舐めとった。
弛緩しきった白雪の体を、紅夜は抱きしめる。
耳もとにささやいた。聞こえていないと知りつつ。
「…おまえは、本当に馬鹿だ…!」
紅く濡れた唇で。
パキン、とごく小さな音がした。
視線を向けるまでもなく、紅夜は気づいていた。近づいて来る気配に。
「…手遅れでしたか。」
苦いものを含んだ声音。
仕立てのよい、オーダーメイドかブランドものとおぼしきスーツに、革靴。こんな山奥には不自然すぎる出で立ち。細面の優男だが、ノンフレームの眼鏡の奥の眼には、隙がない。
「…共鳴しましたね。この山の瘴気に。…しかたありません。」
男は、ふう、とため息を吐き出し、その一瞬で気持ちを切り替え…否、何かを切り捨てたようだった。
「こんばんは、初めまして。火叢紅夜くん。私、こういうモノでして。」
と、取り出して見せたのは、警察手帳。刑事ドラマのワンシーンよりもよほどあっさりと、悪く言えば雑に広げる。
記された階級は、警部。氏名には、土御門陵とある。
紅夜は、無言のまま、かすかに目を細めた。警戒しているのか、馬鹿にしているのか、その表情からは読み取れない。男は気にした風もなく、淀みなく話す。
「土御門には聞き覚えがありますか?キミと同じく、私も陰陽師の血筋です。どうして陰陽師が警察って思ってます?実は、公安には、霊的案件を取り扱う部署があります。明治になって廃された陰陽寮が、紆余曲折の末、そこに落ち着きまて。」
陵は、警察手帳をしまい、続ける。
「もちろん、表向きは存在しない部署です。怨霊も鬼も妖怪も、現代では架空の存在。いないことになっていますからね。でも、そうではないことを、キミは知っていますね?」
と、陵は、紅夜の周囲に散らばる鬼の骸にちらりと視線を流した。
それから、紅夜自身に。
瞳は鮮烈な紅、鋭く光る二本の牙、朱を佩いた唇。
「年間、行方不明者の届け出は、8万人以上。そのうち数百から数千人は、結局足取りがつかめません。彼らのうちの、さらに何割かは、異形のものたちの犠牲になっています。私たち、公安第零課の職務は、人に仇為す異形の駆除です。そして、パニックを避けるための、異形の存在の秘匿。ここで、困ったことが一つあるんですよねえ。」
陵は、にこ、と口角を引き上げる。
「その職務内容には、特殊な技能が求められるために、公安第零課は、慢性的に人手不足なんです。優秀な人材は、手元に置いて、育てたい。ここで、キミに提案です。火叢紅夜くん。キミ、私のスカウトに応じる気はありませんか?」
「オレに何の得がある?」
ここでようやく、紅夜が声を発した。
初対面の、得体のしれない、かつ、権力を持った大人に対して、臆する気配の欠片もなく。不遜で計算高く、冷徹な眼差しで、陵を見ている。十かそこらの子どもがするには、あまりに冷たい目だった。
しかし、陵も、相当の修羅場をくぐってきた身だ。表面上は動じない。
「いろいろありますよ。そう、たとえば…今、キミの周囲に転がっているモノの始末をこちらで引き受け。」
「カン!」
陵の言葉を遮り、紅夜が叫んだのは、不動明王一字呪。簡略した真言だが、効果は絶大だった。
一瞬で燃え広がった炎が、鬼の骸を焼き払う。
火の粉を巻き上げ、赤々と燃える火炎が、周囲を真昼の明るさで照らす。
朱金の火を映し、紅緋の双眸は、なおいっそう鮮やかに浮かび上がる。
「…なるほど。」
と、陵は、詰めていた息を吐いた。
「さすがは、中央にまでその名を轟かす、火叢の直系、というところですか。」
(末恐ろしい…これは、何としても、こちら側に。…やれやれ。切り札は、まだとっておきたかったのですが、そうはいかないようです。)
「では、キミの中の鬼を、封じて差し上げましょう。」
陵が、紅夜の腕の中の白雪を指す。
「その子の血を欲する衝動を。」
「!」
初めて、紅夜の表情が年相応の少年のものになった。
おそらく無意識に、白雪に視線を落とす。
白く細い首筋。そこに自らが穿った、二つの穴を。
紅夜は、友を抱える腕に力をこめる。
しかし、顔を上げた表情は、もう不敵で傲慢なものに戻っていた。
「いいだろう。取引に応じてやる。」
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