ソレイユの秘密

紺乃 藍

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嘘愛スパイラル

偽物のキス

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※ ヒーローと、ヒロイン以外の女性とのキスを思わせる描写があります。苦手な方はご注意ください。



 毎週楽しみにしている恋愛ドラマ。女子3人でスタート5分前からテレビの前を陣取って、お茶とおやつを用意して。あおい深月みづきはソファ。菜摘なつみはカーペットの上の定位置。

 今のクールで見ている恋愛ドラマは3本。今日はそのうちの1つ、彩斗あやとがメインキャストで出演しているドラマ。

 このドラマが始まった頃は『同居人が出てるドラマを観るなんて不思議な気分だね』なんて3人で呑気に話していた。けれど回を追うごとにその呑気な感想は薄れ、先週の放送回から盛り上がる展開と反比例するように嫌な胸騒ぎを感じ始めていた。

「深月ちゃん?」

 ドラマが終わっても呆然としていたらしい。声をかけられてはっと我に返ると、葵が心配そうな顔でこちらを見ている。そんな葵の視線を避けるように顔を背けると、今度は菜摘と目が合った。菜摘も、渋い顔をしている。

 今日もドラマは面白かった。けれど緊張感と高揚感以上に、虚無感と疲労感を感じてしまった。何故ならメインキャストである彩斗と、ヒロイン役の女優とのキスシーンがあったから。

「なんか……」

 なんか。何だというのだろう。自問自答の末、先の言葉は空気の中に消えていく。

 深月と彩斗は本物の恋人じゃない。だから俳優である彩斗が、ドラマや映画の中で役として他の女優とキスをしている事をどうにか言う権利など、深月にはない。そんな権利は、例え本物の恋人だったとしてもあるはずがない。

 自分でも不思議だ。
 ソレイユに来る前は――彩斗の偽の恋人なんて大それた偽装恋愛を始める前は、俳優『たき 彩斗』のキスシーンを嫌だなんて思わなかった。

 いや、むしろ彩斗が出演しているドラマがあれば毎週喜んで観ていた。キスシーンなんてあろうものなら、1人で照れてテレビ画面の前で転がり回って悶絶していたのに。

 どうして喜べないんだろう。今はストーリーの中に惹き込まれて、ヒロインを羨ましがって、妄想の世界に浸れない。

「……なんでもない」

 自分の心境の変化についていけなくて、結局、何にも言えない。

 菜摘と葵が心配そうに、困ったように、けれどかける言葉もないと言った顔をする。菜摘は湊が他の人とキスしていたら何て言うのだろう。きっと、怒るに決まっている。葵は千里が他の人とキスをしていたらどう思うだろう。きっと、嫌に決まっている。

 けれど深月には怒る資格も嫌がる資格もない。本当の恋人同士でもそんな資格なんてないのに、本当は恋人同士ですらない深月には、それ以上に何もない。

「ただいま」

 5分間のニュース番組だけが聞こえるリビングルームに、帰宅してきた彩斗の声が響いた。びく、と肩が跳ねた深月は言葉を掛けられなかったが、代わりに菜摘と葵が彩斗を労ってくれた。

「おかえり……」
「……おかえりなさい」

 ただし、その声は暗くて低い。だからぎょっとした彩斗が 

「は? 何?」

 と眉根を寄せるのも無理はない。

「今、彩くんが出演してるドラマ観てたとこ」
「あぁ、そっか。今日火曜だもんな。今、何話どこ放送してんの?」
「……ごめん、先に寝るね」

 普段は適当な生活ぶりの彩斗も、仕事には熱心だ。演じることが好きなことは深月も知っているし、それなら放送話数を告げるだけで彩斗はその回のストーリーも、自分が演じた役の台詞もちゃんと思い出せるはず。

 それに気付いた時の彩斗の反応を直視する勇気が、今の深月にはなかった。
 




   *****





「お疲れさま」

 部屋に戻ってきた彩斗に冷静を装って声をかける。さっきは声を掛けられず、まるで無視したみたいになった。けれど今度はちゃんと明るく声を掛ける。

「次は舞台だっけ? 今は稽古中?」
「お、ちゃんと俺のスケジュール覚えてるんだな」

 彩斗がバッグを降ろしながら、楽しそうに笑った。先程の態度で不快な思いをさせていないと分かり、ほっと安心する。

「深月、毎週ドラマ録ってるんだって?」
「え……うん。一応……」

 深月はドラマに限らず、彩斗が出演している番組は全て録画している。ハードディスクがいっぱいになって同居人に迷惑をかける前にディスクにダビングして、リビングルームの録画機器からは順次消していく。そして本当は、録画機能はないが再生機能があるこの部屋で、1人で改めて観直している。

「だって『彼女』があまりに無関心だと、変でしょ?」

 けれどそこまで熱心に彩斗の姿を追いかけている事を、ただの『フリ』じゃなくて本当は自分がしたくてしていることを、本人には悟られたくない。だから冗談めかして言ったのに、彩斗は少し困った顔をして深月のベッドに腰かけてきた。

 部屋の中では明確に境界線を設け、テーブルとテレビが置いてある真ん中の共通スペースを境に、お互いのエリアには足を踏み込まないのが暗黙のルール。その境界線を易々と越えてきた彩斗に驚いている暇もなく。

「嫌な思いさせた?」

 顔を覗き込んできた彩斗が、深月の頬に触れながら問いかけてきた。ふと先程のドラマのシーンを思い出してまた顔が歪みそうになる。その度に『そんな権利はない』と自分自身を叱って無理に笑顔を作るのに、彩斗が切ない表情を見せるからまた画面の中の映像と胸の痛みを思い出してしまう。

「俺の勘違い?」
「……何が?」

 再度確認を重ねられ、今度こそ逃げられない心地を覚えながらも、やっぱり取り繕う。上手に笑えている気は全くしなかったが、彩斗は上手く騙せたようだ。

「俺より深月の方が演技上手だな。菜摘も葵も、深月が俺の事を本気で好きだって思ってる。俺と深月が本当の恋人だって、ちゃんと信じてる」

 彩斗の言葉に、チクリと胸が痛む。演技なんて全然出来ていない。菜摘も葵も、彩とのキスシーンをみて嫌だと感じた深月の心情に気が付いてくれた。そして恋人の仕事を素直に応援できない嫉妬の感情に、寄り添ってくれた。深月は優しい2人を騙して、最低な嘘を重ね続けていると言うのに。

「俺も、たまに騙される」

 罪悪感を感じていると、ふと彩斗がそんな言葉を呟いた。

 騙される? ――意味が分からない。彩斗は深月と一緒に嘘をついてここにいる。彩斗と深月は共犯者だ。なのに騙す、ではなく騙される、とはどういう事なのだろう。

 そんなことを考えていると、ベッドの隣に腰掛けた彩斗に突然肩を抱かれた。そしてそのままぐっと抱き寄せられる。

「深月。キスしようか」
「は……はぁ…!?」
「役なんかじゃなくて、……ほんとの」

 顔を覗き込まれて唐突に放たれた彩斗の言葉に、思わず飛び退きそうになった。けれど身体をしっかりと抱かれ、ひどく真剣な眼差しを向けられてしまうと、物理的にも心理的にも逃げられなくなってしまう。

「嫌?」

 さらに真剣な顔で首を傾げられても、彩斗の意図がわからないのでただ混乱してしまう。急に? 何で? どうして? と問いかけようにも言葉が詰まって出てこない。

 だから意思表示のかわりに、こくんと顎を引く。『嫌?』に対する『嫌』の答え。

 嫌だよ。
 だって彩斗は誰でもいいのかもしれないけれど、深月は誰でもいいわけじゃない。

 彩斗にとってはただの気まぐれでも、キスなんかしたら……深月は彩斗をもっと好きになってしまう。もう他の誰とも付き合えなくなってしまう。いつか終わる偽物の関係が、いつまでも終わらなければいいと卑怯な願望を持ってしまう。

 その『戯れ』を受け入れたら、終わりの瞬間に辛い思いをするのは目に見えているから。

「そっか……ごめん」

 謝罪を口にしても未だじっと顔を覗き込んでくる彩斗の視線に耐えられず、両手でその身体を押し返す。一瞬表情が曇った彩斗だが、身体はちゃんと離してくれた。

「聞いたら拒否されるから、次は聞かずにするか」
「……っ、冗談、言わないで」
「ははっ」
 
 可笑しそうに笑った彩斗が、変な空気にならないよう気を遣ってくれたことに気付く。だから『もう!』と怒ったふりをしてありがたくその冗談を受け取る。

 彩斗が一時の感情や空気に流されただけだとしても。それがどんなに嬉しくても、この領域を侵すことは出来ない。

 何の気まぐれかは知らないが、彩斗が今日踏み込んできた境界線は、本来は越えてはいけないもの。彩斗のマネージャーである青山との取引には、2人が親密な関係になる状況は組み込まれていない。だから間違っても彩斗の気まぐれを受け入れてはいけない。

 ドラマの中のキスシーンはただの偽物だが、そこには美しい物語がある。けれど彩斗と深月の間には正真正銘、何もない。『本物の偽物』である2人は、

 偽物のキスさえできない。

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