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5章 Side:愛梨
10話
しおりを挟む「意識されてるって事だ」
「は!? 何言っ……」
「愛梨が俺を『男』だって気付き始めたんだ。俺と大人の関係になれるって、愛梨の心と身体が理解し始めた証拠」
雪哉の声が一段と低くなる。けれどそれは怒りの感情などではなく、色と艶と、恋焦がれる感情。
腕から離れた雪哉の手は、服の上からするすると愛梨の腕のラインを辿り、ゆっくりと肩の上を通過して、やがて首元に辿り着く。指先で首を撫でる動きが妙にいらやしくて、そこから逃れようと身を捩る。
「ちょ、ユキ……!」
「あと何回キスしたら、俺の事だけ考えてくれるようになる?」
まるで早くそうなって欲しいとでも言いたげな、甘美な視線。黒い子猫のような昔の愛らしさは消え去り、狙いを定めた黒ヒョウのように艶やかで鋭い眼差し。
資料室でキスされた時と同じように、雪哉の長い指先が愛梨の身体を掴まえて捉える。恋慕の深淵に誘うようにじっと見つめられると、金縛りに遭ったように動けなくなってしまう。
「好きだ。愛梨が欲しくて、たまらない」
雪哉の顔の位置が下がる。
またキスされてしまう、と気付くと焦りと緊張感が金縛りの効力を更に強める。簡単に拒絶出来るはずの腕を振り解けない。だから自分でも困っているのか、望んでいるのかわからなくなってきてしまう。
どうしよう――と思った瞬間。
ガチャ。と背後でドアが開く音がした。
「!!」
音に驚いて咄嗟に離れようとした。けれど雪哉に身体を固定されていた所為で、思ったより距離は取れなかった。
ノックをせずに通訳室に入って来る人など、雪哉以外には2人しかいない。雪哉と同じ派遣会社から依頼されて来ている通訳の澤村浩一郎と。
細木友理香。
「雪哉? ……愛梨?」
至近距離のまま動きを止めている愛梨と雪哉の様子に気付き、入室してきた友理香が不思議そうな声を上げた。数秒遅れ、友理香の顔が動揺と不快感を示す。
「何、してるの…?」
「別に何も」
顔を歪ませた友理香の詰問を、雪哉がさらりと受け流す。その声にはあまり感情がない。そこはもっと焦るところでしょ、と愛梨の方が焦ってしまうのに。
「雪哉…! 今度は愛梨なの…!?」
雪哉よりも、友理香の方が余程焦ったような声を出した。一瞬だけ愛梨の顔をちらりと見たが、完璧なアイラインと上品なアイシャドウに彩られた綺麗な瞳は、すぐに雪哉の顔へ向き直る。
「やっぱりクライアントの社員を誘ってるって噂、本当なんだ…!?」
「いや、そんなこと1度もしたことない。本当に違うから、その言い方止め……」
「違わないでしょ!? 仕事でそんなに距離近いなんて、絶対変だよ…!?」
興奮したように詰め寄る友理香とは対照的に、雪哉はやや辟易したように溜息を洩らした。わざと友理香の神経を逆撫でするような態度をとる必要はないのに、何故か雪哉の態度は大人げない。
周囲の温度を下げるほどに冷めた雪哉の態度と、逆に温度を上げるほどに熱い友理香の気配を感じ取ると、反射的に愛梨の方が声を出してしまった。
「友理香ちゃん。本当に何もないから」
注意をこちらに向ければきつく睨まれるのかと思ったが、友理香は割り込んだ愛梨に対してはただ動揺したような視線を向けただけだった。
友理香には以前社員食堂で『雪哉の事が好き』と告げられていたし、愛梨に恋人がいることも伝えていた。だからもっと軽蔑の眼差しを向けられると思っていたのに、友理香は愛梨には敵意を向けて来ない。
友理香には申し訳ないと思ったが、自分の話ならば聞いてくれそうだと気付くと無意識のうちに更なる言い訳が口をついて出た。
「ちょっと目にゴミが入って、それを見てもらってただけなの。でも洗面所に行った方が良さそう」
にこりと作り物の笑顔を浮かべる。また1つ、雪哉のせいで本来必要のない嘘をついてしまったと気付いたのは、口にした後だった。
「愛梨」
雪哉と友理香が同時に呼び止める声がしたが、会釈だけ残して急いで通訳室を出た。
そのまま喧嘩でもしてしまいそうな2人を残す事には一抹の不安を覚えたが、雪哉と距離が近かった理由を咄嗟に目の中のゴミの所為にしてしまった。下手な言い訳を自分自身でフォローするためには、あの場に長居は出来ない。
誰も居ないエレベーターに滑り込み、はぁと息をつく。雪哉と友理香の言い合いは、2人で何とかするだろう。本当に何もない、誤解なのだから。それに口をついて出たのは虚偽の内容だが、一応それっぽい言い訳には聞こえる筈だ。だからあとは雪哉が上手く処理してくれることを願うしかない。
そして心臓の音は自分で鎮めるしかない。
通訳室に入室したときは確かに雪哉に対して怒っていた。なのに熱い視線を向けられ、甘い言葉を囁かれ、細身の割に力強い指先に捉えられると全く抵抗が出来なくなってしまった。
雪哉はまた、愛梨にキスしようとしていた。友理香の帰室があと10秒遅かったら、きっとそのまま唇を重ねていたと思う。
「はぁ……もう……」
あのまま雪哉を受け入れていたら、もう言い訳は出来ないと、わかっているのに。
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