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19. 物分かりのいい従者

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 マルコムの示した予定通り、実験データの収集を終えると、進行している研究は論文作成開始の直前段階で一度中断することになった。

 これで来週の勤務時間のすべてを自由に使えることが確定したので、セシルはその週末の夕方から自らの研究に使えそうな資料探しを始めた。しかし。

(うーん、やっぱり研究所の蔵書にはないか……)

 王立魔法研究所が長い間蓄積してきた書物や文献、先人たちが書き記してきた論文を片っ端から調べてみたが、やはりセシルの生まれ持った特殊魔法についての情報は得られそうにない。

 もちろん簡単に情報が見つからないことは百も承知だった。なぜならセシルは同系統の魔法を扱える人に会ったことがないし、話を聞いたこともない。それほどまでに稀有な魔法ならば、詳しく研究されてきた事実があるとも考えにくい。

 ならば次はどうしようかと考えながら図書室を出て廊下を歩いていると、後ろから誰かに声をかけられた。

「セシル!」
「……ん?」

 名前を呼ばれたので振り返ると、研究所の廊下の先に想像だにしていなかった人物が――王子であるレオンが佇んでいた。

「えっ、レ……アレックス殿下!?」

 誰が聞いているのかわからない状況を考慮し、レオンをこれまでと同じように『アレックス』と呼ぶ。その呼び名にピクリと反応したレオンが、不機嫌な顔でセシルの元へ近寄ってくる。

 どうして彼はまた研究所にいるのだろう。前回は視察だと聞いていたが、今日はレオンを含め王族の来所があるという話は聞いていない。

 二日前の朝にレオンと別れたときは『またしばらく会うことはないだろう』と考えていたのに、その彼が突然職場に現れた。予想外の出来事にそわそわと緊張するセシルだったが、密かにときめく感情はすぐに別の気持ちに置き換わった。

「おい、セシル! なんで逃げようとするんだ!」
「だ、だって……!」

 不機嫌な表情のレオンが近付いてくると、あまりの形相に思わず踵を返して立ち去りたくなってしまう。綺麗に整った顔が怒りをあらわにして迫ってくる姿は、思いのほか迫力があったのだ。

 しかし尻尾を巻いて逃げ出す直前で、レオンの腕に捕まってしまう。ぐいっと腰を引き寄せられ、ついでに首に彼の唇が押し当てられた。

「ひゃっ!? ちょ……あ、あの!」

 突然のスキンシップに驚き、ばたばたと手足を動かしてレオンの腕から逃れようとする。だが思ったより強い力で掴まれては逃れることも敵わない。

 そのまま身体をがっちりと掴まれて、二度と離してくれそうもない勢いで抱きしめられる。

 恥ずかしいからやめてほしい、ここはセシルの職場だというのに。

「僕と親しくしてるところを人に見られたくないのでは……!?」
「ん?」

 思わずそう叫ぶと、レオンが不思議そうな声を出す。アイスブルーの瞳と目が合うと、不思議そうに首を傾げられる。

「ああ、昔は卒業と同時に離れることが決まってたからな。一般市民を政略に巻き込ませないために距離を置いていたが……もういいだろ」
「よくはないと思います!」

 レオンの呟きについ大声で反論してしまう。本当は照れ隠しも含まれていたが、それを抜きにしても好ましい状況ではないだろう。王族と平民が親しげに話す様子など、問題になることはあっても良しとされることはないはずだ。

 レオンだってそれを理解しているはずなのに、セシルの姿を見つけると、すぐに駆け寄ってきて思いきり抱きしめられた。おまけに『アレックス』と呼ぶと不機嫌な表情までされてしまう。

(そんなに辛かったのかな……)

 学園でレオンの元から逃走したことと、手紙の返事を出来なかったことや使者の迎えに応じられなかったことがよほど堪えたのだと思われる。もちろんどれもわざと拒否したのではなく、ただの不可抗力だっただけなのだが。

「それにこの時間はもうほとんど人がいない、大丈夫だ」
「全然大丈夫ではありませんよ、殿下」

 セシルの身体を抱きしめて耳元で低く囁くレオンのせいで、ふと数日前の情事を思い出す。思わず叫びそうになったセシルだったが、口にしようとしていた内容と全く同じ台詞が、なぜか背後から聞こえてきた。

 聞き覚えのない声に驚き、びくっと身体を震わせておそるおそる振り返る。

 するとそこには短髪の黒髪に眼鏡をかけた身なりの良い青年――王家に直接仕えることを許された者の証『忠誠の印』の徽章をつけた男性が、不機嫌な顔で仁王立ちしていた。

「……いたのか、ローランド」
「いますよ。急にいなくなるのやめて下さい」

 ハァ、と大きなため息をつく男性にレオンがフン、と鼻を鳴らしてそっぽを向く。小言は聞きたくないと言わんばかりの態度をとるレオンだが、傍にやってきた青年にレオンの態度を気にする様子はなかった。

「初めまして、セシル様。アレックス殿下の側仕えを拝命しております、ローランドと申します」
「は、はじめまして……! セシル・ダーウィスです」

 レオンの腕の中で挨拶をするのもどうかと思ったが、彼が身体を解放してくれないのでどうしようもない。

 年の頃はセシルやレオンとほぼ同じか、それより少し上の二十代半ば頃だろうか。艶のあるさらさらの黒髪に、中性的で物腰の柔らかい言葉遣いと穏やかな表情。レオンの側近だと名乗る青年ローランドにぺこりと頭を下げると、セシルを抱きしめたままのレオンがムスッとした表情でぽつりと呟いた。

「ローランドは俺の事情をすべて知っている」
「そ、そうなんですね……」

 ということはつまり、彼は意図的に『レオン』を『アレックス』と呼んでいるのだろう。王族に直接仕える忠臣は、本人以上に秘密の漏洩に対する対策をしっかりと行っていると聞く。

 納得しそうになるセシルだったが、ふとその『事情』の中にレオンと自分の関係も含まれているのだと気付いた。

 だがそれも当たり前なのだろう。公共の場で抱き合って……というよりレオンが一方的に抱きついていても、レオンを咎めたりその行動を不思議に思う様子がない。おそらく彼を取り巻く環境や彼自身の考えを把握しているからこそ、この状況を疑問に思っていないのだ。

 セシルとしては疑問に思ってほしいし、なんなら止めて欲しいのだけれど。

「可愛らしい方ですね」
「セシルには手を出すなよ」
「!?」
「さすがに殿下の恋人には手は出しませんよ」
「!?」

 ローランドににこりと親しげな笑顔を向けられて照れそうになったセシルだったが、レオンのありえない威嚇が照れの感情を吹き飛ばす。

 何を言っているのか、と文句を言うつもりのセシルだったが、それより先にレオンの台詞を否定してきたローランドに別の衝撃を覚えた。ガバッと振り返って従者の表情を確認すると、にこりと涼やかな笑顔を向けられた。しかしセシルとしては、さわやかに微笑まれても困る。

(ぼ、僕たち恋人だったんだ……)

 知らなかった。
 と言ったら怒られるだろうか。

 でも本当に知らなかった。レオンから向けられる特別な感情には気付いていたし、それを嬉しいとも思っていたが、言葉に出して恋人として付き合おうと言われたわけではなかった。なのにまさか、恋人同士ということになっているなんて。

 この二人の間でどういう報告がされて、ローランドがどう理解しているのかと想像するだけで、表情筋が固まって笑顔が引きつってしまう。

「セシル様、殿下がご無体をなさったら遠慮なく私に教えてくださいね。こちらで御しますから」
「え……えっと」
「やめろ。お前また仕事増やす気だろ」

 ローランドがレオンの嘆きには応えず黒髪を揺らしながらにこにこ笑う。レオンの怒りの表情に慣れているのか、ローランドには一切怯えたり動じたりする様子がない。そのやりとりから、ローランドの采配次第でレオンの行動を多少ならコントロールできることが窺い知れた。

 そしてかなりの時間差でセシル『には』手を出すなと言ったレオンの牽制と、殿下の恋人『には』手は出しませんと言ったローランドの返答を思い出す。

 普通ならセシルとレオンが男性同士であることに驚いてもいいはずなのに、まったく動じる様子がないことや否定する箇所が微妙にずれていることから、ローランドも似たような性趣向であることが窺えた。色々と驚くことばかりである。

「今もまだ忙しいのか?」

 側近との会話を切り上げたレオンに訊ねられたので、ふと視線を上げて彼の顔を見つめる。

 強い抱擁こそ解かれたが未だに腰を掴まれているので距離がやけに近く、身長差があるのでこうして見上げなければならないのが少しだけ悔しい。セシルだってあと十センチ身長が高ければ、こんなにもレオンを見上げる必要はないと思うのに。

「え、えっと……実験期間の調整が入ったので、来週はむしろ余裕があります」
「へえ?」
「その間に自分の魔法について勉強とか実験をしたいんですけど、前例がないのでまずは資料探しが必要で……でもなかなか難しいですね」

 セシルが自分の研究室の状況と自分がやりたいと思っていることをかいつまんで説明すると、それを聞いたレオンがふむ、と鼻から息を漏らした。

「それなら、城の資料庫を見てみるか?」
「え……?」
「王城の図書室の奥に、一般には開示できない記録や魔導書を保管する資料庫があるんだ。閲覧には王族の許可と立ち会いが必要だが、セシルがもし見てみたいなら誰かに頼んでやる」
「……誰かに頼む?」

 レオンの説明ににわかに喜ぶセシルだったが、会話を聞いていたローランドが不意に横やりを入れてきた。

 てっきり怒られてだめだと言われるのだろうと肩を落としかけたセシルだったが、ため息混じりにローランドが指摘したのは、セシルが王城の書物を閲覧することについてではなかった。

「いや、なんでそこで『俺が行く』って言わないんですか」

 ローランドが呆れたように肩を竦めるので、それを聞いたセシルの動きもぴたりと止まる。レオンも動きを止めて側近の顔を凝視していたが、すぐに彼の諫言に納得したらしい。

「ああ、そうか……別に俺でもいいのか」
「つくづく思うんですが『レオン殿下』は本当に王族の自覚がないですよね」
「そんなものあるわけないだろ。持ちたくもない」
「持ってもらわないと困るんですが?」

 けろりと言い放ったレオンに対してローランドがやや苛立ったように返す。だがセシルが王城の資料庫に入って中の書物や文献を閲覧すること自体を禁止したいわけではないらしい。

 ほっと胸を撫でおろすと同時に、レオンが再度セシルの意思を確認してくる。

「というわけでセシル。俺で良ければ王城の資料庫を案内するが」
「み、見たいです! ぜひ!」

 思いがけない提案に歓喜して飛びつくようにレオンを見上げると、彼の耳がじわじわと赤く染まっていく。表情こそそれほど大きな変化はないが、視線を逸らしたレオンの『じゃあ家に手紙を届けるから』と呟く声がなぜか少しずつ小さくなっていく。

 その様子をくすくすと笑いながら眺めるローランドの姿を見ると、セシルの方が照れて何も言えなくなってしまうのだった。

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