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◆ 第4章
52. 毒性物質 後
しおりを挟むハッとした美果は慌てて梨果の様子を確認するが、もちろん転んだりどこかにぶつけた様子はない。ただ梨果の視線には怒りが含まれていて、彼女が放った言葉は美果を非難する台詞ばかりだった。
「ひどい! 美果、最低!」
「ご、ごめんね、お姉ちゃん……どこか痛くした?」
「偉い人の愛人になったからって、美果まで偉くなったわけじゃないのに! 暴力振るうなんて最悪だよ!?」
「そ、そんなつもりじゃ……」
もちろんわざとではない。偉ぶったつもりもない。当然暴力も振るっていないが、梨果は本気で美果に傷付けられたように大袈裟に振る舞う。大きな声を出すことで相手を威圧し、美果を極悪人のように糾弾するのだ。
もう美果には手が付けられない、と項垂れていると梨果がニヤリと怪しい笑みを浮かべた。
「もういいよ。美果が貸してくれないなら、その人のところに行ってお願いするから」
「……え?」
その人、が示す相手が一瞬誰かわからなかった。思わず、誰? と聞きそうになるぐらい、梨果の考えは美果には理解不能だった。
「聡に聞けば名前もわかるし、経済雑誌にインタビューの記事が載ってたって言ってたもん。会社に連絡してアポとればいいし、受付で愛人の名前出されたら、さすがの御曹司さまだって焦って連絡くれるでしょ」
「ちょっと、止めてよ……なに考えてるの!」
梨果の説明を聞いているうちに、それが翔のことだとようやく理解する。しかし理解はしても納得は出来ない。どうしてそんな発想になるのか、意味がわからなさすぎる。
「ついでに美果じゃなくて私じゃダメ? って聞いてみよーかなぁ。美果より私の方が上手だよって言ったら、興味持ってくれるかも」
梨果の言葉にまたも血の気が引く。あまりにも非常識な発言の数々に、動悸と頭痛と目眩が一度に襲ってくる。
(いや……翔さんには、会わせたくない……絶対にいや)
美果が最初に考えたことは、『梨果と血が繋がってると翔に思われたくない』という感情だった。
これほど自分勝手で、わがままで、他人の事情や努力や思いやりを顧みない存在が、自分と血を分けた姉であると翔にも翔に関わる人たちにも知られたくないと思った。
少し遅れて梨果と翔が本当に愛人関係になる状況を想像し、それにも嫌悪感を覚えた。だが脳が強烈な拒否反応を起こしたらしく、それについては三秒で思考から消え去った。
だから結局、同じ感情ばかりが胸の奥にひしめき合う。
翔と梨果を会わせたくない。翔に知られたくない。姉の存在を――姉を許せないと思うこの醜い感情を、翔にだけは知られたくない。……嫌われたくない。
翔に知られて嫌われてしまうぐらいなら、まだ梨果の言うとおりにする方がましだと思ってしまうほどに。
「……わかった」
美果がぽつりと諦めの言葉を呟くと、梨果が急に態度を変えてニコッと笑顔を作った。その変わり身の早さに内心でゾッとするけれど、今は姉の本性に怯えている場合ではない。
「だからあの人には近づかないで。私の名前なんて出しても意味ないよ……だって私、本当に愛人じゃないもん」
「わかってるわよ。美果なんかが、天ケ瀬の御曹司さまに本気で相手にされるわけないじゃない。それなら家政婦と買い物してただけ、って理由の方がまだ納得出来るわよ」
フフンと鼻を鳴らす梨果の言葉にずきんと胸が痛む。
本当はそんなことはない、と否定したかった。否定する根拠はいくらでもあるはずだった。
美果と翔は紛れもなく恋人同士で、翔は何よりも美果を大切にしてくれて、いつだって美果の意思や意見を尊重してくれる。美果を大事にしてくれる。
だから姉の心ない暴言は受け流してしまえばいい。それは、分かっているのに。
胸に刺さった鋭い針が抜けない。塗られた毒に身体を蝕まれる。
梨果の悪意に晒され続けたたせいか、翔に愛されて感じていたはずの幸福が少しずつ冷えていく。嬉しい感情や楽しい気持ちが、美果の身体の中から砂のようにさらさらと崩れ落ちていく。
「お姉ちゃん、本当に……これで最後にして」
近くのコンビニのATMからお金を下ろしてきた美果は、封筒を手渡しながら祈るような気持ちで懇願した。
もうお金を貸すのはこれで最後にしてほしい――その気持ちが、今回は梨果に届いたらしい。
「そうだよね、美果だって自分の好きなもの買いたいもんね? これで最後にするって約束してあげる。じゃあ……」
「まって、お姉ちゃん」
そのままお金を受け取ろうとした梨果の目の前から慌てて封筒を引き下げると、梨果が一瞬不機嫌そうな顔をした。
こうなってはもうお金を貸す流れからは逃れられないが、だからといって美果も無条件かつ手放しに大金を差し出すつもりはない。
『秋月さんが頑張って働いたお金は、秋月さんのものですから。貸したらちゃんと返してもらいましょうね』――誠人にそう言われていたことを思い出す。
「借用書にサインして」
「え……? 借用書?」
以前、父のカメラを質にされそうになったことを翔に話した数日後、話を聞いた誠人が借用書のひな形を作って持ってきてくれた。『いざというときはこれが秋月さんのお金を守る大事な証明書になりますから、使う予定がなくても持ってるといいですよ』と言われていたのを、思い出したのだ。
借用書は基本的に貸した側ではなく借りた側が作成する文書らしいが、この際それはどちらでもいい。大事なのは、美果が梨果にお金を貸している事実を記録として残すことだ。
用意してあった書類に必要事項を記入すると、梨果もしぶしぶといった様子でそこにサインする。本当は姉妹間でこんな悲しい契約なんてしたくないけれど、こうでもしなければ美果は搾取される一方だ。
「このお金はあげるんじゃなくて、お姉ちゃんに貸すだけだよ。だから今度は、ちゃんと返してもらうから」
「はいはい、わかったわよ~」
梨果はこの借用書が法的効力を持つことをあまり理解していないらしく、サインに加えて家に置きっぱなしにしてあった印鑑で押印まで済ませると、今度こそ封筒を手にして早々と立ち去っていった。
「……」
リビングの絨毯に座り込んだまま、美果はどうしようもない虚無感に襲われていた。
金額は五十万円。借金返済のめどが経った頃から、少し余裕ができたときにコツコツと貯めていたもの。
前回貸したときの五倍にもなる金額は、翔の元で働くようになって収入が増えたとは言え、美果にとってはかなりの大金である。近付いたはずの父との約束を叶える夢が、また一歩遠ざかる。
けれど美果は、梨果にお金を貸したことそのものよりもよほど強い絶望を味わっていた。
(翔さん……)
気づいてしまった。思い知ってしまった。
このまま翔の傍にいれば、梨果はいつか翔に接触しようとする。自分は美果の姉であると名乗り、美果の存在をちらつかせ、翔から金銭を得ようとするだろう。それにもしかしたら、本当に翔に愛人契約をもちかけるかもしれない。
もちろん、翔がそんな誘いに乗るとは思っていない。頭のいい翔ならば梨果の下手な芝居など簡単に見抜くだろうし、事前に知らせておけば対処も出来る。それはわかっている、けれど。
(私は……)
胸の奥が、静かに急速に冷えていく……
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