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◆ 第3章
39. 微熱と灼熱の間で 1
しおりを挟む遠くで聞こえていた翔の声が少しずつ近づいてくる。けれど美果の傍まで来たと思っても、またすぐに遠くへ離れていく。
それに翔の声よりも誠人の声の方が一定の大きさで同じ場所から聞こえている気がする。ただしこちらはやや雑音が混ざっていて安定感がない。
『さっきの男は、詳しい事情は何も知らないっぽいけど……うーん、稲島萌子の悪いオトモダチって感じ?』
「稲島の娘?」
『そそ。で、まだホールにいたから事情を聞こうとしたんだけど、泣き出しちゃってさ。いま希ちゃんが対応中』
翔と誠人が会話をしていると気づいて、閉じていた目をゆっくりと開く。
視界に見慣れない天井が映る。手が触れている布は柔らかくなめらかだ。どうやらベッドの上に仰向けに寝かされているらしい。そういえば翔が『部屋を取ってある』と言っていたっけ……
重く動かしにくい身体に力を込めると、横向きへ寝返りを打つ。額に乗せられていた湿ったタオルがシーツの上にぽとりと落ちたが、それには構わず視線を動かす。
広すぎる室内には大きなベッドだけではなく応接テーブルとソファ、大型テレビに、ドレッサーまである。しかも家具の奥にある二つの壁は全面ガラス張りになっていて、その向こうには壮麗な横浜の夜景が広がっている。
部屋の豪華さと窓外の景観に驚いた美果が『観覧車が光ってる……』と呑気なことを考えていると、再び翔と誠人のやりとりが聞こえてきた。
「誠人。稲島の娘、なんか変なもの持ってないか? 例えば薬とか、匂いが強いものとか」
『薬? ちょっと待ってよ~』
誠人の声が聞こえるのは部屋の中央に設置されたテーブルの上からだ。どうやら翔のスマートフォンをスピーカーモードに設定し、翔本人は部屋の中を動き回りながら誠人と会話をしているらしい。
履いていたヒールが脱がされていることや濡れたタオルが額に乗せられていたことを考えると、翔は急に体調を崩した美果のために、両手を空けた状態で世話をしてくれているのだろう。
「翔さん……」
「! 美果、大丈夫か?」
「はい……」
ぽつりと名前を呼ぶと、意外とすぐ傍にいたらしい翔がベッドへ駆け寄ってきた。美果の視界に心配そうな表情の翔が突然現れたので、無理に微笑んでみる。だが、相変わらず身体は重いし全身が熱い。汗が止まる気配もない。
『翔? 聞こえる?』
美果の頬に触れようと手を伸ばしてきた翔だが、テーブルの上に置かれたスマートフォンから誠人の呼びかけが聞こえると、慌てた様子でサッと手を引っ込めた。
「あ、ああ……どうだった?」
『ちょっとぉ、すごいもん出てきたよぉ。まってね、いま希ちゃんが画像送るから』
画像を送る、と言われた翔が、一度ベッドから離れてテーブルに近付く。彼は美果にも誠人との会話を聞かせてくれるつもりらしく、通話をスピーカーモードにしたままで受信したメッセージを確認した。
いつの間にかジャケットを脱いでいる翔の姿を横たわったまま眺めていると、送られてきた画像を確認した翔が怪訝な声を出した。
「なんだこれ?」
『媚薬だよ、媚薬』
翔が不機嫌な声で問うと、誠人があっさりとした口調でそう言い放った。
『家政婦さんに渡したカクテルに混ぜた、って白状したけど、そんなに強力な効果はないと思うな』
「そうなのか?」
『だってこれ、ただのアダルトグッズだもん。たぶん栄養補助飲料とか精力増強剤みたいなもんだと思う。エナジードリンクとかと同じレベルじゃないかな』
誠人は翔と会話をしながら情報を検索してくれたらしい。萌子の荷物から出てきたものについて呆れたように説明してくれる。その報告に翔が顔を顰めた。
「は? でも美果は……」
翔がスマートフォンを手にしたまま美果を一瞥する。翔の顔には『誠人の説明と美果の現状が一致していない』と書かれていたが、美果は首を横に振ることしかできない。
キャバクラに勤めているときに得た知識から、アダルトグッズの存在や精力増強ドリンクの効果ぐらいなら一応は知っている。もちろん使ったことはないので、自分の身体がそれと近い状況にあるのかどうかを説明できる気はしないが。
「……わかった、今そっちに行く。稲島親子はまだ帰すな」
『りょーかーい』
翔の指示を聞いた誠人が通話を終了させると、ソファの背もたれに乗せてあったジャケットを手にした翔が、再びベッドへ近付いてくる。
表情を緩めて美果の頬を優しく撫でてくれる姿をぼんやり見上げる。タオルを濡らしたときに水に触れたからか、その手が冷たくて気持ちいい。
「美果、ちょっとここで休んでてくれ。すぐ戻るから」
「え……」
しかし翔の体温に心地よさを感じていた美果に告げられたのは、非情な宣告だった。
美果が飲んだカクテルには、萌子が所持していた怪しいドリンク剤が混ぜられていた。誠人はただの栄養剤だというが、美果の身体はこれまでに経験したことがないほど熱く火照っている。
身体がひたすらに熱い。見知らぬ男性に連れ去られそうになるという怖い体験もした。また何かが起こるかもしれないという不安もある。
「翔さん……」
だから離れてほしくない。傍にいてほしい。
美果がそう思える相手は、翔だけなのに――
「いえ……大丈夫、です。……行ってきてください」
本当は離れていく翔の手を掴まえたかった。行かないで、と言いたかった。傍にいてほしい、と言えたらどんなに安心できるだろうと考えた。
けれどそれは美果のわがままだ。翔から好きだと言われ、付き合ってほしいと願われた返事を保留にしているくせに、自分が不安になったときだけ甘えるのはむしが良すぎるし、間違っている。
それにこれは、美果と翔だけの問題ではない。
実際はただの栄養剤だとしても、異物を混入させた飲料を騙して飲ませ、力の強い男性に襲わせるという下劣な行為を許していいはずがない。翔には美果を守るだけではなく、責任者として部下や社員の安全を保障し、原因を究明して再発を防止する義務がある。
だから美果の不安のためだけに翔の手を煩わせてはいけない。こうして安心できる場所で休ませてくれるだけで十分だと思い直し、翔に縋りたい気持ちをグッと我慢する。
「……美果」
静かに目を伏せていると、それまで黙っていた翔にそっと名前を呼ばれた。それでも顔を上げられずにいると、翔が突然、スマートフォンを操作してどこかへ電話をかけ始めた。
「誠人。悪いが少し遅くなる。そっちで状況聞いておいてくれ」
『え? えっ……ちょっと、翔』
スピーカーモードではないので先ほどよりも明瞭な音声ではなかったが、電話に出た誠人が困惑していることは美果にもわかった。だが翔は誠人の了承を待たずにさっさと電話を切ってしまう。
ソファにジャケットを放り投げてテーブルにスマートフォンを戻した翔が、その隣においてあった水差しからグラスに水を注ぐ。
美果は呆気にとられながら氷がカラカラと回る音を聞いていたが、そのグラスを持った翔がベッドに腰を下ろしてくれるだけで、どうしようもなく安心してしまう。翔が傍にいてくれることを嬉しいと思う日が来るなんて。
「美果、まずは水を飲め。ただの栄養剤なら、薄めれば治まるはずだ」
「おさ、まる……?」
「酒に混ぜてあったんだろ? アルコールとの組み合わせが悪かったのかもしれない。それか体質の問題で……」
翔に促されたのでどうにか身体を起こそうとする。だが説明を聞きながら腹や腕に力を込めるが、上手く力が入らない。
気づいた翔が言葉を切って「起きれないか?」と訊ねてくる。美果が「ごめんなさい」と謝罪をすると、翔が小さく微笑んで頭を撫でてくれた。
「仕方ない……ストローないしな」
「しょう、さん……?」
起き上がりかけていた美果の身体をベッドの上に押し戻すと、翔がグラスを傾けて自分の口に水を含む。その様子に驚く間もなく唇を重ねられた。
「ん……ぅ」
翔の長い指先が顎をくいっと持ち上げる。上を向かされてわずかに開いた唇の隙間からとろりと甘い水が注ぎ込まれる。もちろん本当はただの水だが、美果はなぜか甘いと感じた。
「……ん」
顎を支える翔の人差し指が首の付け根をトントンと叩く。それが「飲み込め」という合図だと気づいてこくんと喉を鳴らすと、翔はすぐに唇を離してくれた。けれどそれで終わりではなく、すぐにまたグラスの水を口に含んで、美果にそっと唇を重ねる。
恥ずかしいの行為の連続に緊張して翔のベストにぎゅっと縋っても、翔は振り払うことなく美果の好きなようにさせてくれた。きっと水さえ飲めない美果の不安を察してくれているのだろう。
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