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◆ 第5章
27. 本物のプロポーズ
しおりを挟む予定を合わせてどこかで待ち合わせをして始まるデートもドキドキするが、同じ家から同じ車に乗ってでかけるのも十分緊張する。
将斗から『来週末、デートに』と誘われていたが、将斗の臨時出張と柏木家の親戚の法事が重なったことから、約束のデートは予定より一週遅れとなった。
だが将斗にとっては一週間ずれた方が好都合だったらしく、『せっかくだから泊まりで出かけよう』と宿泊準備も指示された。
一体どれほど遠くに出かけるのだろうと思う七海だったが、将斗が車を運転して回った場所は実はそれほど遠方ではない。一カ所だけ埼玉県にある複合商業施設を訪れたが、それ以外は都内にある水族館やイベントホール、ショッピングモールや複合オフィスビル内のカフェで、移動距離自体はそれほど長くなかった。
「俺が次に行こうとしてる場所、わかるか?」
夕暮れ刻になって太陽が傾き、コンクリートを照りつける日差しが幾分か和らいだ頃、有料パーキングから出て愛車のアクセルを踏んだ将斗にそう問いかけられた。
七海の顔を横目で一瞥してにやりと微笑む将斗に『はい』と短く返答する。
「ロイヤル・マリン・ヴェールホテル東京、ですよね」
「正解。さすが俺の秘書だな」
七海の回答に、将斗が楽しそうに頷く。
せっかく立てたデートプランを先に予想されてしまえば、普通ならつまらないと思うだろう。だが今回の将斗は違う。彼は七海が『気づいている』ことが嬉しいのだ。
それもそのはず。今日、将斗が七海を連れて回った場所は、将斗が『支倉建設の社長』として建設・建築に携わった建物ばかり。しかも、どれも七海が将斗の秘書になってから手掛けた案件だ。
つまり彼は、今日のデートで水族館やイベントホールで開催されている個展、ショッピングを楽しんでいるように思わせて、実はこの四年間で七海と作り上げてきた実績の『軌跡』を辿っていたのだ。
七海がそのことに気がついたのは、たった今出発した有料パーキング――の隣にある、オフィスビルに入った直後。ビルの竣工前後に、一階に入るカフェで日本初上陸となるチョコレートドリンクを扱うらしい、と聞いて『いつか飲みに来たい』と言った七海の言葉を、将斗は覚えていたのだろう。
その小さな願望を叶えてくれたことに気づくと同時に、今日これまで回ってきたデート先がすべて支倉建設が建設・建築したものであると気がついた。
となると次に向かう場所も必然と絞られる。もうすぐディナーの時間であることと、将斗が『泊まりで』と指定してきたことを考えて導き出した七海の答えは、やはり正解だったようだ。
東京湾を臨む『ロイヤル・マリン・ヴェールホテル東京』は、まだオープンしてから一年未満という真新しいリゾートホテルだ。昼間は透き通るように真っ青、夕方は蜂蜜を零したような黄金色、夜は都心の夜景が水面に煌めく海を一望できるロケーションが美しい。
このホテルも社長の将斗が自ら携わり、七海も秘書として建設に尽力してきた案件だ。とはいえ立派な高級リゾートホテル。宿泊はおろか最上階のレストランにすら足を踏み入れたことがない七海だったが、今日、突然その贅沢が叶ってしまった。
淡い光がきらきらとひしめく夜景を横目に、グラスを傾けて食後のデザートワインを流し込む。ほんのりと甘くて美味しい泡が喉の奥に落ちていくと、目の前に座った将斗が七海の表情を眺めて楽しそうに笑った。
「七海と行きたかった場所、全部回れたな。けど、さすがに疲れただろ」
「いえ。私はほとんど座ってるだけでしたし、歩くときは将斗さんがエスコートして下さったので、それほどでは」
「そうか」
将斗に頼りっぱなしのデートになってしまったことを申し訳なく思って苦い笑みを浮かべるが、将斗はずっと楽しそうだ。
今食べたコース料理が期待以上に美味しかったからご機嫌なのかもしれない。もしくは、客室のバスルームが設計図面の印象よりもかなり広く感じられたので、お風呂に入るのが楽しみなのかもしれない。
そう予想していた七海に、将斗が思いがけない言葉を告げた。
「俺も楽しかった。来年は別の場所にも行こうな」
ごく自然な口調と表情で誘われたので、七海もそのまま頷きそうになった。だがすぐに違和感に気づく。
「来年……?」
七海が顔を上げて首を傾げると、目が合った将斗の眉がピクリと動いた。
「ああ。少し早いが、誕生日プレゼントだ。来週だもんな」
「! ご存知だったんですか……?」
「知らないわけないだろ。愛する妻の誕生日だぞ?」
精悍な顔立ちの将斗が見せる優美な微笑みに、一瞬見惚れてしまう。優しい笑顔にどきんと心臓を高鳴らせていると、将斗が自分のグラスの中身を飲み干した後で、
「前に七海が話してくれたからな」
と呟いた。
そういえば以前、七海は雑談のネタとして自分の誕生日について将斗に話したことがあった。
実は七海の名前は『七月の海の日』が由来である。七海が生まれた七月二十日は以前、『海の日』という国民の祝日だった。現在はハッピーマンデー制度の導入により『海の日は七月の第三月曜日』と定められているが、七海が生まれた当時は毎年同じ日に固定だった。だから海の日が七月二十日にならない年は稔郎が淋しそうな顔をする、とかなり前に将斗に話したことがあったのだ。
「よく覚えてますね」
「覚えてるよ」
七海が感嘆すると将斗が当然だと言わんばかりに笑う。その笑顔にまた流されそうになる。
いや、だが違う。七海の違和感は『目前に迫った七海の誕生日を将斗が覚えていたこと』ではない。それを来年も――もう夫婦ではなくなっているはずの翌年の誕生日も、また一緒に祝おうとしていることに疑問を感じたのだ。
顔を上げると、また将斗と目が合う。だが今度は話を逸らすつもりはないようで、七海の顔をまっすぐに見据えた将斗が、意を決したように口を開いた。
「本当は去年も、こうして祝いたかった」
「将斗さん……?」
「でも去年の七海には、別の相手と過ごす予定があった。二週間も前からそわそわして、楽しみにしてるんだろうな、と思ったら……悔しくて悔しくて仕方なかった」
将斗の言う『別の相手』とは慎介のことだ。一年前の今頃、七海は慎介からデートに誘われてプロポーズを受けた。結婚しよう、と告げられ、当時は本当に嬉しかったのを覚えている。
あの愛の告白も偽物だったのだな、とぼんやり考えるが、自分の中でももう吹っ切れたのか、それほど深い悲しみは感じていない。
否、七海が深く考え込む前に将斗の意外な台詞が介入してきたので、それ以上なにかを考える余裕がなくなった。
「けど今は俺に優先権がある。それに来年も、再来年も、この先ずっと……七海の誕生日を一緒に過ごすのは俺だからな」
ぽつりぽつりと、けれど最後はしっかりした口調で告げられたのは思いもよらない宣言だった。将斗の意外な台詞に「えっと……?」と困惑の声が零れる。
そんな七海の様子をしっかりと把握しているはずなのに、将斗には己の主張を引っ込める様子はない。それどころか、七海の頭上にふわふわと浮かんでいる疑問をすべてかき集めて正答に結びつけるように、今度は端的にはっきりと宣言された。
「俺は、一年で離婚するつもりはない」
将斗の宣言に、思わずぱちぱちと瞬きする。彼の言葉の意味がすぐには理解できず、少し首も傾げてしまう。
「あの……それでは、約束が違うのでは……?」
「……そうだな。悪い」
七海の疑問混じりの追及に、一応は謝罪の言葉をくれる。だが訂正する気はないらしく、将斗は七海の顔をじっと見つめながら秘めた想いを紡ぎ出すように――七海にもしっかりと伝わるように、そして拒否の道を少しずつ塞ぐように丁寧に想いを重ねられた。
「でも俺は、七海と離れたくない。手放す気はない」
将斗の明確な宣言に思考が止まる。薄暗いレストランの中に流れているクラシックの音色だけが、遠くにぼんやりと響いている。
(離婚するつもりはない……手放す気はない、って……?)
そのメロディを頭の片隅で聴きながら、七海は混乱する思考をどうにか巡らせた。
離婚するつもりはない。離れたくない。手放す気はない。
それはつまり、突然決めた結婚だったが、いざ生活を共にしてみると意外にも不便や不自由はなく……それどころか共同生活が楽だと気づいた、ということだろうか。
家事も分担できて、仕事においてもプライベートにおいても情報共有が簡便で、必要なときに肌を重ねられる相手が毎日傍にいることに居心地の良さを感じている、ということだろうか。
なるほど、確かにそうかもしれない。七海も将斗と完全に生活を共にするようになってからの四か月間の方が、最初の二か月間よりも家事や生活に慣れてきて、色々と楽になったと感じている。
さらに言うと偽装結婚を始める前とは比べ物にならないほど、今の将斗とは意思の疎通が容易で、仕事も楽にこなせると感じている。
だがしかし、それではいけない。
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「ごめんなさい。それはできません」
「……七海」
「ご期待に添えず、申し訳ございません。ですが将斗さんとの婚姻関係は、予定通り一年で終了させて頂きたいと思います」
七海がきっぱりと言い切ると、顔を上げた将斗の表情が悲しげに歪んだ。その表情を見て『こんなにはっきりと将斗の要求を拒んだのは、仕事でもプライベートでも初めてかもしれない』と気づいたが、それでも七海の意思は変わらなかった。
「……俺が嫌いか?」
「いえ、違います。そうではなく……」
『偽装結婚』という共同生活契約の継続を拒否しただけで、将斗がこんなにも傷付いた表情をするとは思っていなかった。その仕草を見ると七海の胸もチクリと痛んだが、もちろん理由は将斗が嫌いだからではない。そうでは、なくて。
「私が、将斗さんの妻にはなれないのです」
七海は将斗の『本物』の妻にはなれない。支倉建設の社長夫人、ゆくゆくは支倉グループを率いていく将斗を支える存在に、七海ではどう頑張っても力不足だ。
秘書として、ビジネスパートナーとして、彼の仕事の環境を調整し、サポートすることはできるだろう。
だが彼の仕事以外の部分……たとえば、社交の場での立ち振る舞い、支倉家の親戚や関係者との付き合い、さらに次の後継者となる彼の子を産んで育てる――平々凡々の自分には、到底不可能だと思う。
「将斗さんには本当に感謝しています。私や父の体裁、支倉建設の顔に泥を塗りかねない失態を、将斗さんの機転のおかげで無事に乗り越えることができました」
結婚式の夜はもちろんのこと、そこからの半年間も、どちらかというと七海や柏木家が将斗の世話になるばかりだった。その反面、七海が将斗や支倉家のために何か役立ってきたとは思えない。
たった半年で『こう』なのだ。なのにこの先、七海が将斗を幸せにできるはずがない。
「感謝しています。だからこそ、将斗さんにはしっかりとしたお相手と……本当に好きな人と、幸せになって頂きたいのです」
将斗にも彼の両親にも、心の底から感謝している。けど、だからこそ、将斗には幸せになってほしい。
彼が心の底から好きになった人と。もしくは彼を支えられるほどの家柄や美貌を持つ人と。あるいはその両方を兼ね備えた、将斗にもっとも相応しいだろう相手と結ばれてほしい。
将斗には幸せになる権利がある。七海のような『ただ辞令を受けて秘書になっただけの部下』にここまで心を配って優しくしてくれる彼は、誰よりも幸せなるべきだと思う。
――自分ではない、誰かと。
そう考えて目を伏せた瞬間、将斗の低い声が七海の耳に届いた。
「それなら尚更、俺は七海以外を選ばない」
「……え?」
「好きだ、七海」
デザートプレートの模様を辿るように視線を彷徨わせていた七海が、驚いてパッと顔を上げる。ほぼ同時に将斗が言い放った言葉に、空気がしんと静まって、震えた。
「俺は七海が好きだ。……愛してるんだ」
否、震えたのは空気ではない。
確かな言葉で、まっすぐな視線で、はっきりとした声で告げられた愛の言葉に震えたのは、七海の心だった。
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