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◆ 第5章

26. 仮初め夫は心配性 後編

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 頼まれた資料を探し出して引き渡しと伝達を済ませると、プレジデントチェアの肘掛けに頬杖をついて長い脚を組む将斗の目の前に立つ。

 彼は七海が聞きたいこと、そして七海が言いたいことを正確に把握しているらしく、優雅な微笑みを零しながら七海を見据える目をそっと緩めた。

「さて――七海の推理を聞こうか?」
「……。推理、というほどではありませんけれど」

 将斗が切り出した言葉に、ふう、とため息をつきながら視線をつま先に落とす。

 推理というほどではない。頭を使わなくてもすべて理解できるぐらい、将斗の言動はわかりやすかった。

「ここ最近の秘書課内での出来事……私の身に起きていたこと、社長はご存知だったんですよね」
「そうだな」

 七海の質問をあっさりと肯定する。将斗も、もう隠す気はないようだ。

 将斗と結婚して以来、七海は秘書課内の一部の女性社員から粗雑な扱いを受けていた。彼女たちは七海と将斗の結婚を『〝たまたま〟社長秘書に配属されていた七海が、〝偶然〟花婿に逃げられた場に居合わせた将斗の同情を買い、〝図らずも〟未婚でパートナーのいなかった将斗に、〝運良く〟助けられた』と感じていて、だからこそ将斗に相応しくない七海の存在を疎ましがっていた。

 七海自身も先輩たちに向けられる負の感情を理解していたが、その状況を将斗に知られれば、彼に不要な心配をかけてしまうと思っていた。それに愛妻アピールに余念がない将斗ならば、裕美たちの目に余る行為を叱責しようとすることも、それにより彼女たちの行動が余計にエスカレートすることも、容易に想像できた。

 だから七海は自分が耐えることで、面倒事を乗り切ろうとしていた。辛くて苦しくてどうしようもないほどの苦痛ではないので、適当に受け流してあと半年を乗り切ろうとしていた。残り半年の期間を耐えれば、間違いなく沈静化すると理解していたのだ。

 だが目聡い将斗は七海が隠した異変にも気づいていた。慎介の襲来ほどの衝撃ではないが、七海が同僚の言動に悩んでいた心の機微を敏感に読み取り、極力顔に出さないようにしていた七海の努力もちゃんと見抜いていた。

 そしてその煩わしさを、ほんの少しのやりとりだけであっさりと解決してしまった。

 人の幸せを妬んで人の努力を挫くことばかり考えている先輩たちに、『七海と仲良くしてくれると良縁に恵まれる、かもしれない』と認識させるという、驚きの荒業によって。

「……。新野さんと天宮常務を、利用したんですか?」

 あまりに上手く整った舞台に疑問を感じ、率直に問う。だが七海の懸念は将斗が即座に否定してくれた。

「いや、逆だ。新野さんに聞けばわかるだろうが、柏木部長に相談を受けて二人を引き合わせたのは、かなり前の話だ。もう一年ぐらい前になるか」
「一年も……?」
「ああ。新野さんは、俺に恩を感じてたんだろうな。俺としては忙しい拓臣ともだちを気遣ってくれるだけで十分ありがたかったが、自分に何かできることがあれば協力したい、と言ってくれた。だからこの半年、七海の様子を彼女にこっそり報告してもらってたんだ」

 なるほど。つまり将斗は、七海の隠し事を探るために佳菜子をそそのかして協力させた訳ではない。実際は七海と将斗の偽装結婚が始まるよりも前から、二人の恋のキューピッドとなっていたのだ。

 将斗としては、ただ二人を引き合わせるだけのつもりだった。だが七海の異変を察知したことで状況が変わった。だから縁結びのお礼をしたいと言う佳菜子に協力を依頼して、七海の様子を探らせていたのだろう。

「ではやはり、今日の朝礼に社長が乗り込んできたタイミングも、図っていたということですね?」
「ああ、まぁな」

 七海の指摘に、将斗が苦笑いを浮かべて曖昧に頷く。

 将斗は潮見と佳菜子に協力してもらい、あえて彼女の結婚報告のタイミングの場に現れた。そこで『有名企業の御曹司との結婚に将斗が一役買っていること』と『良縁に恵まれるためには七海や稔郎を尊重することが大切だ』と印象づけた。そうすることで結婚に焦っている者や七海を蔑ろにする者の意識、また秘書課内を取り巻く面倒な状況を改善し、結果的に七海の置かれた状況や秘書課の環境を整えようとしたのだ。

「ごめんな。七海に隠れて、様子を観察するようなことして」
「……いいえ」

 将斗の強引かつ大胆なやり口に、怒りや驚きを通り越してただただ呆れてしまう。そこまで必死に愛妻アピールをする必要はないと思う。

 それに今回の件は周囲へのアピールというよりも、ただ七海自身を守るための行動のようだ。仮初めの偽装結婚妻を、そこまで過保護に大切にしなくてもいいのに。

「正直、あまり気分がいいものではありませんけど」
「わ、悪い……」

 将斗の反省は嘘ではないと思うが、申し訳なさそうに眉尻を下げる表情を見てもなお、この人に隠し事をすべきではないな、と思う。結局将斗には、最初からすべてお見通しだったのだから。

「私が、落ち込んでいたからですよね?」

 周囲の人々には伝わっていないだろう。だが将斗の愛情表現を受ける側の七海にはわかる。

 将斗は七海を『幸せな妻』にしたいのだ。愛情を与えた七海の幸福に満ちた姿を確認することで、自分の偽装溺愛婚が完璧に成し遂げられていると確認しているのだろう。

「妻が暗い顔をしていたら、将斗さんの完璧な偽装結婚計画が台無しですもんね」

 ならば将斗の『愛妻アピール』に対し、七海は適度な『幸福アピール』をしなければならない。そのどちらもが偽物だとしても、七海も将斗からの愛情を感じているフリをしなければならないのだ。

「申し訳ありません。もう少し、ちゃんと演技しますね」

 しかし七海への『愛妻アピール』をすればいいだけの将斗と異なり、七海は『幸福ではあるが将斗の気持ちに応えるつもりはない』という態度を貫かなければならない。彼の演技に百パーセント合わせてしまうと、半年後の離婚が不自然になってしまうからだ。

 さじ加減が難しいな……と唸る七海に、将斗が、

「そのことなんだが」

 と、神妙な面持ちで話しかけてきた。

 将斗の真剣な声に反応して思考を止めると、顔を上げて彼と視線を合わせる。

「七海に、話したいことがあるんだ。少しずるいことをしたと思うが、今朝の件も関係してる」
「……」

 声だけではなく表情も真剣に……まるで七海に懇願するような宣言に、返答の言葉を失う。いつの間にか組んでいた足も解き、七海の心の内を探るように前のめりになっている。

「七海の憂いをすべて取り除いて、七海が安心できる場所を完璧に作るまでは、言えなかった」
「? 社長……?」
「長かった。けどこれで俺も、ようやく前に進める」

 将斗の独言の意味がわからず、ほんの少しだけ首を横に傾けたまま眉を顰める。しかし七海の表情を見た将斗はすぐに話題を切り上げ、代わりにまた思いがけない提案をしてきた。

「七海。今週末、俺とデートに行こうか?」
「は、はい……?」

 独り言を引っ込めた将斗からの、突然のデートの誘い。意味が分からず思わず間抜けな声が零れると、将斗がにこりと優しげに微笑む。

 今の流れでどうしてデートに行く話に飛躍するのか皆目見当もつかない七海は、常套句の『社長、仕事中ですよ』すら出てこない。だからだろうか、将斗は七海の戸惑いを無視して自分の言いたいことを捲し立てる。

「したことなかっただろ、デート」
「そうです……けど、でも……」
「車は俺が運転するし、行き先も俺が考える。だから七海は一日、俺にエスコートされてほしい」

 将斗の提案に、偽装結婚の相手にそこまでしなくても良いのでは? と思う。それをそのまま口に出そうとした七海だったが、顔を上げてみると将斗の表情はやわらかく穏やかで――見たことがないほどに真剣だった。

 だから七海は何も言えなくなってしまう。

「七海とゆっくり過ごしたい」
「まさと、さん……」
「一日でいい。俺のことだけ考えてくれる時間がほしいんだ」
「……わかり、ました」

 将斗の真剣な表情に誘われるように、こくりと顎を引いて同意を示す。

「約束だからな。他の予定、絶対に入れるなよ?」
「わ、わかりました。あの……では、仕事に戻りますね」
「ああ」

 いつになく必死な様子の将斗にどうにか頷くと、ぺこりと頭を下げて話を切り上げる。

 しかし彼の視線から何を感じ取ってしまったのか、七海はすぐに頭を上げられないほど、顔全体がほんわりと火照って熱を持っていた。

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