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◆ 第3章

17. 優しい腕の中で

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 仰向けでベッドに入ったまま大きく息をつくと、七海の様子に気づいた将斗がじっと顔を覗き込んできた。

「落ち着いたか?」
「……はい」

 オレンジ色のベッドランプに照らされた将斗が少しだけ困ったような……心配そうな表情をしている。彼にこれ以上負担をかけたくなかった七海は、心の内を誤魔化すために毛布を引っ張り上げて口元を覆い、そっと頷いた。

「そうか、よかった」

 七海の首肯に将斗が安堵の表情を浮かべて頭を撫でてくれる。その仕草を見て『元の顔立ちが整っていると喜怒哀楽のどんな表情でも絵になるんだなぁ』と呑気な感想を抱く。

 しばらくは隣で添い寝をしてくれる将斗の顔を観察していたが、ふと重大な忘れ物に気づいた。あっ、と声を出すと、頭をなでなでする将斗の手がぴたりと止まる。

「どうした?」
「家に連絡していませんでした……! どうしよう、こんな時間……!」

 ガバッとベッドに身を起こして、スツールの上に置いてあったスマートフォンに手を伸ばす。今から連絡しても『遅い、心配するだろう、ちゃんと連絡しなさい』と怒られる気がするが、それでも何も言わないよりはましだろう。

 電話でもメッセージでもいいから一言連絡しなければ、と思う七海だったが、手にしたスマートフォンを起動する前に、伸びてきた将斗の手にそれをひょいと摘まんで奪われた。さらに腰に腕を回してきた将斗が、七海の身体を抱きしめたままゴロンとベッドへ倒れ込む。

 バランスを失ってあわあわと驚く表情が面白かったのだろう。七海を腕に抱いたまま将斗がつむじの傍でくすくすと笑うので、くすぐったさのあまり耳の裏から背中にかけて肌がふるっと震えた。

「柏木部長には俺から連絡しておいた」
「えっ……?」
「『今週は七海さんと長めに過ごしたい。今夜からうちに滞在させてほしい』と伝えたら、『構わない』と言ってくれた。むしろ『七海をよろしくお願いします』と頼まれたぐらいだ」
「わざわざ許可とったんですか?」
「そういう約束だからな」
「り、律儀ですね……」

 いつの間にか稔郎に連絡して宿泊の許可をもらっていたらしい。あれからずっと泣き続けるばかりで頭が働かない七海の代わりに、両親の心配に先回りしてくれる。そんな将斗の機転と行動力に、七海は今夜もまた感服するしかない。

 将斗とともに社長室へ戻った七海だったが、残業を取り止めてデスクの周辺を片付け終わっても、将斗が帰り支度を済ませても、溢れ出る涙はまったく止まってくれなかった。もはや苦しいのか悲しいのか、それとも安堵したのかさえわからない。

 目を擦れば翌日ひどい顔になるのは分かっていたので、次から次へと零れてくる涙をハンカチで吸って押さえるだけで精一杯。そんな七海を守るように――情けない姿を誰の目にも触れさせないように、将斗は自分の家まで七海を導いてくれた。

 それだけではない。将斗は呆然として使い物にならない七海をバスルームに放り込むと、自身はその間に炒飯と春巻とサラダを一つの皿に乗せた『中華プレート』を作ってくれた。それを二人で一緒に食べた後は将斗が食器を洗い、七海にひとりで考え事をする時間を与えるよう自分も長めに入浴し、気がつけば浴室の掃除まで済ませていた。

 その間に七海がしたことは、ハンカチで目を押さえることと出されたご飯を食べることだけ。入浴後の髪すら将斗に乾かしてもらった気がする。

「申し訳ありません、何から何まで」
「どういたしまして」

 七海の謝罪とお礼に、シーツに頬杖をついた将斗がにこりと笑う。ぼーっとしてばかりで動きが緩慢な七海の世話を、密かに楽しんでいるかのような笑顔だ。

「家に帰ったらもう『社長と秘書』じゃないんだ。家事は分担して当たり前だし、辛いときは頼ってほしい」
「でも……」
「それに七海が俺を頼ってくれなきゃ、俺が辛いときに七海を頼れなくなる。支え合うのが夫婦だろ?」
「……ありがとう、ございます」

 将斗の問いかけに逡巡したのち、こくんと頷く。

 こんなことで動揺してしまう七海が不甲斐ないだけで、将斗が七海のように落ち込むことはない気がする。だから将斗が七海を頼る日も永遠に来ないと思うが、夫婦で支え合うことや家事を分担することが大事というのは同意見だ。

(慎介さんも家事はやってくれてたけど、こうやって甘やかしてくれることはなかったな……)

 将斗に髪を撫でられながら、また思考が堂々巡りする。決別した相手のことを考えても意味はないのに、沈黙するとまた同じ迷路に迷い込む。

「こら七海。おまえ、また佐久のこと考えてるだろ?」
「! え、えっと……」

 思考を読まれたことに驚いて表情が強張る。

 この期に及んでまだ慎介のことを考えてしまう自分に嫌気がさす七海だったが、将斗は七海の気持ちが揺れ動くこと自体は責めなかった。その代わり慎介が気に入らないという主張は、声にも表情にも態度にもしっかり出してくる。

「俺にはあいつの考えが理解できない」
「……」

 それはそうだろう。将斗と慎介は何から何まで違いすぎる。慎介が将斗の考えに及ばないのも、将斗が慎介の考えを受け入れられないのも当然だ。

「確かに、人の目がある場所でびっくりしますよね」
「いや、それもあるが……それ以前の問題だ。俺には七海が傍にいて、他の女に目移りする理由がわからない」

 将斗がきっぱりと言い切った言葉に、え、と表情が固まる。てっきり時と場所を考えない非常識な行動や発言の話をしているのかと思ったが、将斗の示す『理解できない』部分は、他でもない七海のことらしい。

 だがそれに関しては、実は慎介に同意できる部分もあった。

「私、慎介さんの言うことはあながち間違っていないと思いますよ」
「は? どこが?」
「可愛げないんです、私。女性としての魅力が感じられないというのも、当たってるなって」

 七海が苦笑いと共に告げると、頬杖をついたままの将斗が数度瞬きをした。それから「はああぁ……」と長い長いため息を吐き出す。

 慎介の言うことが百パーセント的外れだとは思っていない。もちろん言い方やタイミングは考えてほしいし、七海本人に無遠慮にぶつけていいものでもないが、主張自体は的を射ていると思う。

 恋人との約束よりも仕事を優先してしまう。秘書という職業柄、上司の都合や体調を一番に考えてしまう。それに贈り物をされても可愛い反応はできないし、家事の腕も人並みで、男性を喜ばせるテクニックもない。顔だって特別可愛いわけでもないし、美人でもない。スタイルも極めて平凡だ。

 自分を卑下するつもりはないが、〝選ばれる〟要素が圧倒的に欠乏していると思う。だから愛華という可愛らしい女性の手を取った慎介の気持ちをまったく理解できないわけではない。

「七海に女性としての魅力がないって? そんなわけないだろ」

 七海が頭の中に広げた自分自身の考察レポートを強制撤去したのは、やや不機嫌な将斗の一言だった。ハッとして彼の表情を確認すると、少し怒ったようにこちらをじっと見つめている。

「七海は美人で可愛いよ。誰が何と言おうと俺の自慢の秘書で、大切な妻だ」
「将斗さん……」

 再び頬に触れた将斗の指が、優しく肌を撫でてくれる。どうやら七海が眠るまでこのまま添い寝をしてくれるらしく、隣に横たわる将斗に七海から離れる様子はない。 

「早く俺に懐いてくれないかな」
「そんな、犬や猫じゃないんですから」
「犬や猫より七海の方が可愛いよ。本当は今週だけじゃなくて、ずっとここに居てくれればいいと思ってる。そしたら毎晩こうして撫でられるのにな」

 楽しそうな将斗の様子に言葉を失う。七海の意識をさり気なく慎介から逸らし、その上で愛犬や愛猫を愛でるように七海をめいっぱい撫でて甘やかそうとする。その仕草につい照れて俯いてしまう。

(将斗さん、女の人を甘やかすの上手すぎるのでは……?)

 こうして将斗と触れ合うたびに思う。

 本物の妻ではない七海をこれほど上手に甘やかして、本音を引き出して、ほっと安心させられるのだ。多少大雑把なところもあるが、このルックスと人柄ならばこれまでの人生も相当モテてきただろうし、おそらく七海と離婚したあとも、すぐに将斗の恋人になりたい女性が現れるはず。

(……来年の今頃は、別の女の人がここにいるのかな)

 そんなことを考えた直後、七海の胸の奥にずきん、と鋭い痛みが走った。

「……?」

 突然感じた胸の苦しさに驚いて、パジャマの上から喉の下を押さえたままぱちぱちと瞬きをする。

 一瞬、夕食の中華プレートの胸やけが今になってやってきたのかと思った。将斗の作った炒飯は、ごろごろチャーシューとふわふわ卵と粗めに刻んだネギの風味が美味しい、まさに『男の料理』と言える豪快な仕上がりだった。それにパリッと揚げられたジューシーな春巻も、香ばしくて美味しかった。

 もちろん食べたときはなんともなかったし、これほどの時間差で胸やけがやって来るとも考えにくい。

 ならば今の胸の痛みは……と不思議に思う七海の顔に、ふと将斗の顔が近づいてきた。

「!」
「おやすみ、七海」
「……おやすみなさい」

 一瞬、キスされるのかと思った。だが、違った。将斗は自分の額を七海の額にコツンと押しつけただけで、至近距離で微笑むとすぐに就寝の挨拶を告げてくれた。

 その可愛らしい触れ合いに少しだけ不思議な……なんとなく寂しい気持ちを味わいながら目を閉じる。

 こんなにも密着して、たくさん話して、すぐ傍で眠っているはずなのに。先ほどまであんなにたくさん甘やかされて、いっぱい将斗と触れ合ったはずなのに。

 眠れない七海の頭の中には慎介の姿ではなく――なぜか顔も知らない女性とその背中に手を回して微笑む将斗の姿が、何度も浮かんでは消えていった。

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