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◆ 第3章

15. 遅すぎる謝罪

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 支倉建設本社ビルの一階には、大手のコンビニエンスストアがテナント出店している。店内には会社のエントランスホールから直接入店することも出来るし、ビル前の表通りから入店することも出来るので、支倉建設の社員にも近隣のオフィスに勤務する会社員にも非常に重宝されている。

 午後七時を少し過ぎた頃。そのコンビニエンスストアのレジ前に立った七海は、ホットスナックが並べられた商品ケースの中を覗いて「あ」と小さな声をあげた。

(肉まん、売り切れてる)

 七海の目当ての商品は、蒸気でほかほかに温められたふんわり生地とゴロゴロ肉が美味しい『肉まん』だったのに。


 将斗に伴って夕方から都内の取引先に赴いていた七海だったが、話し合いが長引いたせいで遅い時間の帰社となってしまった。

 商談はざっくりとはまとまったが、今日の交渉で決定した条件や予算、細かい内容を各部署に通達したうえで再検討させ、さらにその情報を盛り込んだ建築プランを先方に再提出しなければならない。

 将斗の曽祖父の代から懇意にしている取引先のため将斗が直接出向いたが、相手の要望を忠実に組み込んだ設計やプラン作りのためには、まだまだ調整が必要だ。

 帰社したらすぐにでも見直し作業を開始する、と珍しく残業する気の将斗に付き合うこと自体は、七海もやぶさかでない。

 ただこの時間になるとどうしてもお腹が減る。だから『帰ったらコンビニの肉まんを食べる時間だけください』と申告したのだが、それを聞いた将斗に『俺もそれ食いたい』と言われてしまったのだ。

 もちろん将斗だって中華まんぐらい食べるだろう。だが中華街にある行きつけ店や点心専門の職人が作った中華まんしか食べたことがなさそうな将斗の口に、果たしてコンビニの安い肉まんが合うだろうかと思う。しかし将斗本人は七海と同じものを所望しているので、とりあえず彼の分も購入していくことにする。

 先に戻ってる、という将斗とエントランスで一旦別れた七海は、その足で一階のコンビニに向かった。

 だがいざレジ前に設置された商品ケースを覗いてみると、肉まんだけがない。どうやらすでに完売したようだ。

 ふう、とため息をついた七海は、肩にかけたバッグからスマートフォンを取り出すと、それを操作して将斗に電話を発信する。七海の分だけならば独断で変更が可能だが、将斗の分も頼まれているので、彼に代替品の希望を聞かなければならない。

「社長、少々よろしいですか? 申し訳ありません、肉まんが売り切れてます」
『なんだ、ないのかよ』

 すでに社長室に到着したらしい将斗がスマートフォン越しに文句を言ってくる。ただし口調こそ不満そうだが、声は比較的ご機嫌だ。

「肉まんはないですね。あんまんとピザまんはありますけど」
『あん……は饅頭のことだろ? けど、ピザまんってなんだ? ピザが入ってるのか?』
「いえ、ピザそのものが入っているのではなく、トマトソースとかチーズとか、ピザに寄せた具材が入ってるんです」
『美味いのか、それ?』
「私は好きですけど……。他のものにします? パンとかおにぎりとか」
『いや、そのピザのやつにする。それ買ってきてくれ』
「かしこまりました」

 どうやら将斗はピザまんを食べたことがないらしい。七海の説明に最初は困惑していた将斗だったが、結局好奇心が勝ったようで、最終的にはピザまんを所望された。

 将斗の要望に『なるほど』と内心納得する。御曹司という生き物の中には、コンビニの中華まんを食べたことがないまま大人になる者も存在するようだ。もうすぐ丸四年の付き合いになる将斗の新たな発見に驚きつつ、視線をホットスナックの商品ケースからサンドイッチが並んだ冷蔵棚に向ける。

「他には何か……」
「七海!」

 そのまま追加で必要なものを尋ねようとした七海だったが、ふと反対側――会社側の入り口付近から、誰かに声をかけられた。

 突然名前を呼ばれたことに驚いて振り返った七海の身体が、ビクッと硬直して停止する。そこに立っていたのは、約二か月ぶりに対面する元婚約者……逃げた花婿の佐久慎介だった。

「え……? 慎介、さん……?」
「やっぱり、七海だ」

 ちょうど退社するタイミングだったのだろう。コートを着込んでビジネスバッグを手にした慎介には、最後に見たときより幾分か疲れた印象があった。しかし以前より身なりは整えられているし、極端に痩せたり太ったりした印象はない。

 咄嗟に慎介の健康状態を確認してしまうほどには、彼のことを心配していたらしい。――と自分の気持ちを自己分析する前に、慎介ががばっと頭を下げた。

「ごめん、七海!」
「!」
「七海と話がしたかった……ずっと、謝罪がしたくて」
「ちょ、ちょっと……慎介さん、ここコンビニだから……!」

 今の社内に七海の顔を知らない人はほとんどいない。社長の黒子として立ち振る舞うしがない秘書が突然社長夫人になったのだから、それは注目されて当然だと思う。一方の慎介も元々それほど存在感があったわけではないが、彼は『社長とその秘書の電撃結婚』のきっかけとなった人物である。

 将斗のおかげで七海の『不幸な花嫁』の印象は薄れつつあるが、慎介の身勝手な言動はスキャンダルを生み出し、社内に絶大なインパクトを生んでしまった。一応、挙式から参加していた会社関係者は他にいないので現場をちゃんと目撃した者は存在しないが、七海と将斗、そして慎介を取り巻く状況が会社中で噂になっているのは想像に容易い。

 それが最近ようやく落ち着きつつあるのだから、ここで目立つような行動は絶対に避けたいところ。

 焦った七海は、店内で買い物をしていた社員の視線を紛らわすように、

「大丈夫……もうなんとも思ってないから……!」

 と手を振ったが、慎介は周囲の様子を一切顧みない。

 がばっと上げた顔には、後悔と決意が滲んでいた。

「それでもちゃんと説明させてほしい!」
「いや、私もう本当に平気で……」
「ちゃんと聞いてくれよ、七海!」

 悲壮に満ちた表情で七海に近づき、そのまま手首を掴んでくる慎介はやけに必死だった。まるで赦しを乞うような……後悔に苛まれてもがいているような表情に同情の気持ちが湧かないわけではない。これでも一度は愛し合った人なのだ。

 けれど七海は、咄嗟に『話なんて聞きたくない』と思ってしまった。

 およそ二か月の時間が経過し、将斗をはじめとする周囲の人々の優しさや温もりに触れて、少しずつあの日の恐怖を忘れていた。傷付いた心を癒され、苦しかった気持ちが薄まり、ようやく周りの人たちへ恩返しをしていこうと前向きな気持ちになれたところだったのに。

 心臓が嫌な早鐘を打つ。バクバクと回転数を加速させていく。それをどうにか誤魔化そうと脳を高速稼働させ、強張る身体を叱咤して必死に気持ちを奮い立たせる。

「と、とりあえず外に出て! ここじゃ目立つから……!」

 とにかくこれ以上悪目立ちしたくなかった七海は、スマートフォンと逆の手首を掴まえる慎介の手を、やや強引に振りほどいた。幸い手にはまだなんの商品も持っていなかったし、将斗の希望であるピザまんも注文していなかったので、そのままコンビニの入り口を抜けて会社のエントランス側に出た。

 午後七時を過ぎているので人の少ないホールに出ると、後をついてきた慎介にくるりと向き直る。通り過ぎる人々がちらちらとこちらを気にする気配を感じたが、七海はその視線を無視して一刻も早く慎介との会話を終わらせようと思った。

「ごめん、七海。結婚式、台無しにして」
「いえ……もう大丈夫、です」

 先ほどは動揺していたこともあって、恋人同士や婚約者だったときと同じくだけた言葉で接してしまった。

 だが今の慎介とはすでに個人的な関わりが途切れた状態。恋人でも婚約者でも、まして身内でもないのだから、あくまで『別の部署に所属する目上の者』として振る舞わなければならない。

 そんな基本的なことを忘れてしまうぐらい気が動転してしまった。しかし十数歩の距離を大股で移動して店外に出たおかげか、『当たり前』に気づけるだけ今の七海は冷静になった。

 いや、冷静であると思っていた。
 ――思いたかったのかもしれない。

「支倉社長と結婚したんだってな」
「!」
「よかった。あのあと七海がどうなったか、心配してたんだ」

 慎介の口から将斗の存在を引き合いに出され、しかも『よかった』と言われた瞬間、七海の目の前が闇色に眩んだ。思わず目眩を覚えてふらつきそうになるが、ここで意識を手放すわけにはいかない。

(何言ってるの……慎介さんが、放置したのに……!)

 婚約者だった女性が即日他の男性と結婚してよかった、と言える慎介の無神経さに、七海の中の『常識』がゆるやかに崩壊し始める。

 よかった? どこが……? と反復する気持ちが音として外に漏れなかったせいだろうか。慎介が七海の異変に気づかず一方的に喋り続ける。七海の気持ちなど、まるで考えもせずに。

「俺、来月末で退職することにしたんだ。正直、ここには居づらいし」 

 慎介の説明に、相槌の言葉も忘れて立ち尽くす。

 慎介がこの年度末をもって退職することはほのかから聞いて知っていたし、年が変わると社内でも噂になっていたので、むしろ今の社内で慎介の退職を知らない人はいないと思う。

 だからそれ自体は驚かなかったが、衝撃を受けたのはその理由だ。七海や将斗はもちろんのこと、七海の両親や参列者、式場のスタッフ、自分の身内にまで多大な迷惑をかけたというのに――その結果が今の状況に繋がっているというのに、なぜ人のせいにするのか。

 確かに慎介の中ではそれが事実かもしれないが、せめて『心機一転新しい環境でいちから出直したい』とか『新たな目標を見つけて奮闘することで恩返しがしたい』とか、言い換えられないものだろうか。

 なんなら『愛華ちゃんの希望に寄り添うことにした』のほうが、モヤモヤはするがまだ許せる気がする。それが言うに事を欠いて『居づらいから』とはどういうつもりか。七海が結婚しようとしていた相手は、こんなにも非常識な人だったのだろうか。

「その前に一度七海に会って、謝罪したいと思ってたんだ。けど愛華ちゃんに七海の連絡先を消すように言われて……」
「……」
「会社でも柏木部長の目があるし、連絡もすることも会いに行くこともできなくて、遅くなった。ごめん」
「いえ……それはもう、全然……」

 一方的な言い分に、もはや軽く首を振って頷くことが精一杯だ。

 慎介の主張はどれも自分本位で、七海の都合や気持ちのことは一切考慮されていない。会いたくなかったという七海の気持ちにはまったく気づいていない。

 以前、将斗に慎介への今の気持ちを聞かれた際に『嫌いになったわけではない』と答えた七海だったが、慎介と対面したことで今ようやく自分が受けた傷の深さを思い知る。

 嫌いになってない――わけがなかった。

 否、厳密には『嫌い』とは違うかもしれない。だが七海は彼の言葉を耳にするだけで、ちらりと一瞬目が合うだけで、よく知っているはずの彼の香水の匂いを感じるだけで、こんなにも息が苦しくなる。

 動悸がして、目眩がして、心臓の表面がざわざわと震えて、体重を支えている足がカタカタと震える。好いて慕っている相手には絶対に起こらない反応だ。

「愛華ちゃんは、五つ年下の幼なじみなんだ」
「!」

 動けなくなった七海の様子を見た慎介は、なにをどう解釈したのだろう。七海が自分の話を聞いてくれると思ったのか、はたまた七海の反応など関係なく最初から自分の話を押し通したかったのか、慎介は捨てた七海の代わりに手に入れた女性の話をし始めた。

「昔は『慎兄ちゃん』って呼ばれてて、仲が良かった。でも俺が就職してからは一切接点がなくなって、しばらく会ってなかったんだ」
「あの……いいです……その話、は」
「七海との結婚を決めた直後に偶然再会して、それから連絡を取って、たまに会うようになって」
「わかり、ました……もう、十分ですから」
「よくない! ちゃんと聞いてほしいんだ!」

 愛華との関係や思い出を聞かせようとする慎介に、必死に首を振って拒否の態度を示す。

 聞きたくない。
 知りたくない……!

 いくら人の心の機微に鈍い慎介でも、七海が明確に拒否すればちゃんとやめてくれるだろう。そう思っていたのに、彼は後退ろうとする七海の腕を再び掴まえようとしてくる。

 伸びてきた慎介の手に言葉に出来ない嫌悪感を感じた七海は、自分の腕の前を胸で組んで、慎介の手が触れないよう防御姿勢を取った。その行動に慎介がひどく傷ついた顔する。

 慎介の仕草の意味がわからない七海だったが、彼がその表情を見せた理由はすぐにわかった。

「俺は浮気はしていない。本当に、七海を裏切るようなことはしてないんだ!」
「……。」

 慎介が自分の事情や近況を何が何でも聞かせたがる理由を察する。

 慎介はただ、釈明と言い訳がしたかった。つまり一線は超えていない、人として最低なことはしていない、と主張したかったのだろう。

 しかし彼は先ほど自ら『たまに会うようになって』と口にした。それは七海にとっては、裏切り行為と同じである。身体の関係があるかどうかや、気持ちを向ける期間が重複していたかどうかが問題なのではない。悪いと思いながらも隠れて会っていたことが、裏切りだと思うのだ。

 だが一度責任を転嫁した慎介は、己の中に存在していた『自分は悪くない』という感情が爆発的に増大してしまったらしい。

「七海は完璧すぎたんだ。係長の俺よりも平社員の七海の方が忙しくて、でも生き生きと仕事をしていて、毎日やりがいを感じてただろ。その眩しさに、だんだん自分が情けないと思うようになった」
「え……? な、に……?」
「でもプロポーズしてしまったし、柏木部長に白い目で見られたくないし、今さえ耐え忍べば俺も昇格して安定できる。そうすれば七海よりも優位に立てるし、子どもが出来れば七海の仕事を減らしてやれると思って……」
「!?」

 慎介の発言に背筋がゾッと震えて凍る。一見すると穏やかで優しい男性に見える慎介の異常性に、今さらになって怯えてしまう。

(不思議どころじゃない……とんでもないモラハラ気質じゃない! ……け、結婚しなくてよかった!)

 おそらくこの約二か月の間、慎介は周りから白い目で見られて、非常識な人間として後ろ指をさされてきたのだろう。

 その苛立ちともどかしさをどこにもぶつけることが出来ず、しかも先ほど口にした、愛華に七海の連絡先を消すように指示されて実際にそれを実行したという話が本当なら、パワーバランスは愛華の方が圧倒的優位な状況にあると予測される。おそらく慎介もフラストレーションが蓄積しているのだろう。

 慎介の中に鬱憤が溜まる事情は想像できるが、負の感情を七海にぶつけられても困る。七海は慎介のストレス解消係ではないし、今はプライベートの関わりもない。

 だからもう、ここから逃げたい。
 これ以上慎介と関わりたくない。
 もう二度と会いたくない、と心から思う。

 ――なのに身体が動かない。

「愛華ちゃんと会う時間が、俺の癒しだった」
「……もう、いいです。……聞きたくない」
「完璧な七海といると、プレッシャーだったんだ」
「慎介さん、もうわかりましたから……! お願いですから、もうやめて……」

 立っているだけで精一杯で前にも後ろにも一歩も踏み出せない。早く慎介の傍から離れたいのに、口はどうにか動くのに、手と足はまったく動かない。身体の自由を奪われたように、この場に崩れ落ちそうなほどに、全身が震える。

 苦しい、怖い、泣きたい。
 七海の存在を否定する慎介の目の前から消えてしまいたい。

「だんだん、七海に女性としての魅力を感じなくなって――」
「黙れ」

 すべてを遮断するように胸を押さえてぎゅっと目を瞑った直後、ふと七海の背後で低く重い声が響いた。

 この場にいないはずの男性の声が、七海を身体の芯から震わせる。明らかに機嫌が悪い、けれど何よりも力強い声にハッと顔を上げると、目の前の慎介が驚愕の表情で七海の背後を見上げている。

「ごめんな、七海。遅くなった」
「……しゃ、ちょ……」

 七海を包み込むように背後から腹へ回ってきた腕に、ぐっと力が入る。それと同時に放たれた一言で、底なしの闇に沈みかけていた七海の身体が、ようやくまともな呼吸ができる世界まで引っ張り上げられた気がした。

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