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◆ 第2章
11. ひとつ屋根の下
しおりを挟む支倉邸で豪華なおせち料理をご馳走になったのち、広い邸宅の案内と少しの雑談を挟み、陽が落ちる前に将斗の実家を後にした。
車を走らせて都心まで戻ると、将斗が行きつけだという老舗ホテル内のイタリアンレストランで夕食を済ませる。元旦から営業している飲食店なんてあるのだろうかと思っていたが、ホテル内のレストランは通常通りにオープンしているらしい。
秘書である七海が将斗と向かい合ってのんびり食事をするという状況が、最初は違和感ばかりで落ち着かなかった。だが互いの家族のことや生まれ育った環境のこと、時折仕事の話を交えながらゆったりと過ごす時間は、次第にリラックスした居心地のよいものへと変わっていった。
「お邪魔します」
「どうぞ」
同じく元旦から営業している百貨店の食品売り場で数食分の食材を購入し、将斗の住むマンションに辿り着く。買い物袋を抱えた将斗に促されてキャリーバッグを持ち上げながら玄関に入ると、ほんのりと暖かい空気が少しだけ冷えた七海の身体を包み込んだ。
どうやら将斗は今日のタイムスケジュールからおおよその帰宅時間を計算し、エアコンのタイマーを設定していたらしい。コートを脱いで洗面所で手を洗うと、ダイニングテーブルの上に買い物袋を下ろしている将斗の傍へ近づく。
「中まで入るのは初めてですが、広いですね」
これまでにも社長専用車に同乗して将斗を自宅まで送り届けたときや朝一番の便で出張に向かう将斗を迎えにきたときに、玄関先までは足を踏み入れたことがあった。
だが七海はあくまで将斗の秘書であり、辞令を受けて将斗の補佐係を務めている会社員の一人にすぎない。仕事とプライベートを混同しないことを徹底し、『中で待てば?』と言われても、それ以上先には絶対に踏み込まなかった。
だから将斗の住む家がこんなにも広いことを、正確には把握していなかった。
支倉建設が設計から施工まで手掛けた地下三階・地上四十二階建ての高級マンションは、建設予定が発表された直後から購入希望者が殺到するほど人気が高い物件だった。
七海も図面や外観完成外観図を見せてもらったり、モデルルームの内見をさせてもらったことはあった。だがそれは階数と広さに応じて五段階に分類されたランクのうち、下の三段階の部屋のみ。購入価格が二億を超える最高ランクの将斗の部屋の広さは、今はじめて体感する。
モデルルームとは少し異なる、白と黒を基調とした床や壁。広いリビングの奥は全面ガラス張りで、窓が開かずバルコニーがない代わり、遮蔽物なしで都心の夜景を一望できる。家具や家電もすべてモノトーンで統一されており、家主が将斗だと言われれば納得できるほどスタイリッシュで落ち着いた印象だ。
リビングにあるものはこれまたモノトーンのガラステーブルと、それを直角に挟んだ革張りの黒いソファ。それからワインやウイスキーを嗜む将斗が集めているらしい、大きさや形が様々なグラスやゴブレットのコレクションケース。
しかし目立つ家具はそれぐらいで、テレビは壁にはめ込まれているし、収納スペースも来客からは目立たない場所に点在している。他に家具らしい家具は見当たらない。
意外にも整理整頓されていて綺麗なリビングを見つめていると、将斗が楽しそうな表情で奥の通路に目配せしてきた。
「部屋も余ってる。好きに見てきていいぞ」
「そんな、子どもじゃないんですから」
先ほどの支倉邸と同じように「気になるのなら探検してこい」と言われたが、七海は将斗の部屋を物色したいわけではない。
呆れてため息をつくと、将斗がリビングルームの入り口の壁に設置してあるパネルを操作し始めた。
「風呂にするか。お湯予約していったから、たぶん沸いてるはずだ」
どうやらそのパネルでバスルームの温度やお湯の量を管理できるらしい。小さな電子音ののち表示された数値を確認した将斗が、七海の方へ振り返ってにやりと微笑んだ。
「一緒に入るか?」
将斗が発した問いかけに、窓外の夜景を見つめていた七海の思考がぴたりと止まる。首を動かして将斗と顔を見合わせると、二人の間に流れる空気も停止した。
「……なぜ?」
「夫婦だから」
「……」
将斗の中では『夫婦は一緒にお風呂に入るもの』らしい。だが七海の中にそんな夫婦像は存在しない。はあ、と再度ため息を吐くと、将斗が、
「身体洗ってやるぞ?」
と微笑みかけてきた。
――結構です。
* * *
どっちが先にお風呂に入るかと押し問答を繰り返したが、最終的にじゃんけんで負けた方に優先権が与えられることとなり、敗北した七海が先に入浴することになった。
しかも七海が入浴している間に車に積んできた荷物を降ろしてくれていたらしく、お風呂から戻るとリビングの片隅に三つの段ボールが並べられていた。明日自分で運ぶつもりだったのに、と将斗に謝罪しようとしたが、彼は微笑みと共に七海の頭をぽんぽんと撫でると、そのままバスルームへ消えていった。
「七海?」
将斗の手を煩わせてしまったことに申し訳なさを感じつつ荷ほどきしていると、比較的早くお風呂から上がってきた将斗に名前を呼ばれた。
なんか飲むか? との問いかけに反応して顔をあげると、対面キッチンのカウンター奥にいた将斗が冷蔵庫の扉を開けているところだった。
(ふわ、ぁ……)
その姿を見て、思わず変な声が出そうになる。
セットした髪が下りている姿は見たことがある。だがロングシャツとルームパンツという部屋着姿を見るのははじめてだ。普段のスーツ姿や今日の昼間に目にしたカジュアルな私服とは異なる、リラックス感と開放感――自然体の色気を感じる姿。
バスローブ姿も艶めかしかったが、これはこれで逆に特別感があるような……と思っていると、七海の視線に気づいた将斗がそっと微笑んだ。
「寝室はこっちだ」
お酒を飲むのかと思ったが、夜も遅いので今日はやめておくらしい。代わりにウォーターサーバーから注いだ水を一気飲みすると、グラスをシンクの中に置いて七海を手招きする。将斗に呼ばれて慌てて立ち上がった七海も、彼の後を追いリビングの奥にある扉に近づいた。
扉の向こうにあったのはリビングの半分ほど、それでも十分な広さのある別の部屋だった。中央よりやや窓側に大きなベッドが配置され、上にはネイビーのベッドカバーがかけられている。壁側にはクローゼット、テレビやソファも設置されていた。
広い部屋を覗き込んだ七海は、扉を押さえて七海に入るよう促す将斗の顔をじっと見つめた。
「ずいぶん立派なゲストルームですね?」
「? ゲストルーム?」
七海の質問に将斗が目を丸くする。だがすぐに七海の質問の意図に気づいたらしく、にやりと口角を上げた。
「ここは俺の寝室だ」
「えっ? 入っちゃったじゃないですか」
家の中に入るだけでも申し訳ないと思っているのに、さらにプライベートな寝室に入るつもりはない。この大きさのマンションなら客間もあるだろうし、将斗自身も使っていない部屋があると言っていたので、滞在中はそちらを使わせてもらおうと思っていた。
「あの……ゲストルームは……?」
「部屋はあるが、寝具がないぞ」
「えっ!?」
おずおずと尋ねる七海にきっぱりと告げられたのは、思ってもいない台詞だった。驚きのあまり思わず大きな声が出る。寝具がない、とは一体どういうことだろうか。
「私が寝泊まりする用のお布団を買った、と仰ってませんでした?」
「ああ。あの布団、届いたやつを開けてみたら糸がほつれてたから、返品したんだ」
「な……えっ……え?」
将斗の説明に驚愕で声が震える。
彼の顔を立てつつ母の提案も受け入れるために、週末は将斗のマンションに滞在するフリだけして、実際はホテルやネットカフェに宿泊しようと考えていた。それを将斗に伝えると、必要ないと提案を却下され、フリではなく本当に将斗の家で過ごすことを求められた。
将斗が示した条件の中には、七海が使う寝具を買った、という文言も含まれていた。だから七海も彼の提案に甘えるつもりで同意したのに、肝心の寝具がないとはどういうことだ。糸のほつれぐらいなら自分で直せばいいのに、なぜ必要になるとわかっている布団を返品してしまったのか。
「そのうち新しいのが届く――と思う」
「……と、思う?」
「年末年始だからな。ま、遅くても一月中には届くだろ」
「いえ、明日すぐに買いに行きましょう。今の時代、寝具一式がセットになったものがデパートにもホームセンターにも売ってますから」
御曹司であり大企業の社長である将斗は、五千円あれば一式購入してもお釣りがくるような寝具セットなど、使ったこともないだろう。だが世の中には安価でそこそこ質の良いものも出回っている……と説明する七海の背後で、リビングの照明が突然パッと消えてしまった。
どうやら将斗が電源を落としたらしい。まるで七海の主張を遮るかのようなタイミングの消灯に、驚愕のまま彼の顔を見上げてしまう。
「悪いが、車を出す気はない。明日は一日中、七海と家でゆっくり過ごすと決めている」
決めているらしい。初耳だ。
だが確かに、実家まで七海を迎えに来て、隣県を往復し、夕食のために少し離れたホテルへ向かい、さらに買い物のために駐車場が狭い百貨店にも訪れた。その間の移動はすべて将斗の運転に頼りきりだったので、将斗も年始早々体力も気力も消耗したことだろう。
だから明日はゆっくりしたいと言われたら、それ以上はなにも言えない。
ならば七海が、方法を変えるしかない。
「将斗さん、毛布を一枚お借りできますか? 私、リビングで寝ますので」
「!?」
「毛布がないようでしたら、今からでもホテルを探してみます。空いてなかったらカプセルホテルでもネットカフェでもいいので……」
「七海」
思いつく限りの方法を羅列していると、再度将斗に遮られた。ただし今度は名前を呼ばれただけではない。腰に絡みついてきた将斗の腕に身体を抱き寄せられ、耳元に顔を近づけられる。
そして少しだけ、拗ねたような声を出される。
「一緒に寝ればいい話だろ。ベッドは大きいし、夫婦なんだし、別に問題ない」
「将斗、さん……?」
将斗の主張は七海の出した提案よりも現実的なように思えた。高身長の将斗が横になっても余裕がありそうなほど広いベッドは、縦だけではなく横にも大きい。将斗が大の字に寝転がっても、七海が隙間に入って眠れる余地はある。
他の寝具はない。入浴も済ませているし、外は雪がちらつきそうなほど空気が冷えている。ならば将斗の提案を受け入れるのが最善だと言えるが、それは七海と将斗が恋人同士か、夫婦である場合に限る。もちろん互いに好き合っている〝本物〟の。
「そんなに警戒しなくても、七海が嫌がるようなことはしない」
「で、ですが……」
「いいから、ほら」
しびれを切らしたように、将斗が七海の身体を押す。強い力にとととっ……とよろめくと、その隙に将斗が寝室の扉を閉じてしまう。
リビングとベッドルームが遮蔽される音がパタンと響く。七海の腰に手を添えて数歩進み、掛け布団を捲った将斗がシーツの上に七海を導く。
どきどきと妙な緊張感を覚えながらベッドに腰を下ろす。だがベッドの上にお尻が落ち着く前に、さらに体重をかけられて布団の中に仰向けに倒れ込んだ。
どさ、とシーツの中央に身体が沈む。室内といえど布団は少し冷えていて、背中にひんやりと冷たさを感じる。そんな七海の上に将斗が静かにのしかかる。
はっとして顔を上げると、少しだけ困ったような、けれどどこか熱っぽい表情を浮かべた将斗が、七海をじっと見下ろしていた。
「将斗さ……ん」
夫の名前を呼ぶ声が、震える。
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