32 / 66
第1章 明姫月高校女子硬式野球部の始まり
第25話 それぞれの決起
しおりを挟む「はぁ……最悪だ」
その日の夕食を終えてもまだ栞李の憂鬱は晴れなかった。
練習終わりのバスでは誇張なしに地獄のような時間を過ごし、以降は莉緒菜と目すら合わせないよう避け続けてきた。
けれど、時間が開けば開くほど後悔と羞恥心が追いかけてきて、どうにも自分から声をかけに行けなかった。
栞李の頭の中にいる“倭田莉緒菜”はもうとっくにいつも通りの澄まし顔をしていたけれど、それが余計に腹立たしくてムキになっていた。
「ヤホー、シオリちゃん」
そんな栞李が部屋を出ると、よりにもよって莉緒菜の次に出くわしたくなかった幼顔の少女がぴろぴろと右手を振っていた。
「う、葵先輩……」
「コラコラ、もうミーティング始まるのにどこ行くつもりかな?」
亜音速で方向転換を繰り出す栞李だったが、予め動きを見切られていたかのようにあっという間に捕まってしまった。
「い、部屋にノート忘れました!」
「じゃあその手に持ってるものは何かな?」
「これは、人類観察日記ですっ!」
「いや誰の?」
「み、実乃梨ちゃんのっ!」
「……なぁに? そのよく分からない嘘は」
こんな時に限ってマトモな言い訳が思いつかない自分が憎かった。
「それにしても、随分派手にケンカしてたみたいだねぇ。リオナちゃんと」
「ゔぅっ……」
そこが一番、栞李がほじくられたくない傷穴だった。もちろん、葵もそれをよく知っていた。
「聞いてたんですか……」
「それはもうバッチリ。というか、あんなに大声張り上げてたらグランドにいたみんなに聞こえてたんじゃないかな~?」
「私もう、今すぐこの部ヤメマス。サガサナイデクダサイ……」
「冗談だよ。たまたまワタシが近くにいただけだから」
こんな時でも葵は平気で人をからかうし、栞李もその笑顔に容易く振り回されていた。
「けどまぁ、気持ちはわかるよ」
だからこそ、不意に彼女が見せた影のある表情が栞李の心を鋭く締めた。
「…………ごめんなさい。ヒナタ先輩の話、勝手に聞いちゃいました」
「別にいいよ。どうせそのことを知らないのは君たち1年生と後から入ってきたメイちゃんくらいだから」
栞李は菜月からその話を聞いた時はまだ半ば信じきれずにいたが、実際に葵の声や表情を見てその過去が確かに存在したであろうことを悟った。
「ねぇ。シオリちゃんってさ、ワタシのこと嫌いでしょ?」
「そんなこと……」
「今更それはズルいんじゃない? 散々あんな態度とっておいてさ~ぁ」
「……ごめんなさい」
確かに、栞李は出会った時から葵のことが苦手だった。けれどそれは、彼女の素性も心根も何もかも知らなかったからだ。
今は、少しだけ違う。
「別にいいよ、ワタシのことは嫌いでも。けどさ、ひとつだけ覚えておいて欲しいのは、私がみんなとチームメイトだってこと。栞李ちゃんとも、もちろん莉緒菜ちゃんともね」
今までの仮面に貼り付けたような笑顔とは違う、感情の底を映したような鉛色の笑顔だった。
「まあ、別に“味方”じゃないかもしれないけどね」
その時初めて、栞李は『津代葵』という少女の本心に触れられた気がした。
「葵先輩って、何か思ってたよりずっと優しい人だったんですね……」
「んー? 気のせいだと思うけどなぁ」
栞李の眼には昨日より少しだけ、葵の表情が優しくなったように見えた。
「あ、それとリオナちゃんとは後でちゃんと話しといたほうがいいと思うよ? シオリちゃんが逃げた後、何だかちょっと様子がおかしかったから」
「え、あの後莉緒菜ちゃんと話したんですか!? 莉緒菜ちゃん、私のこと何か言ってました?」
慌てる栞李を後目に、葵は満面の含み笑いを浮かべていた。
「んー、何か言ってたような気もするけど忘れちゃったぁ。それくらい自分で聞きなよ」
「…………やっぱりイジワルじゃないですか」
「ははっ、そうかもね」
どうしてか葵は『優しい』と言われた時よりずっと嬉しそうな顔をしていた。
「すみません。遅くなりました~」
2人がミーティング会場へ入った時には既にほとんどのメンバーがその一室に集まっていた。
「あ、葵ちゃん! 栞李ちゃん! もうみんな揃ってるよ~」
「すいません菜月先輩。お待たせしちゃって」
「ううん。みんなも今ちょうど集まったくらいだし、そんなに待ってないよ」
わざわざ立ち上がって2人を出迎えてくれた菜月は栞李の表情の変化に気づくと、何も言わず優しく微笑んでくれた。
「それじゃあ、全員揃ったようだから始めようか。合宿最終日、蘭華女子との試合に向けてのミーティングを」
チームのキャプテンである沙月の言葉でその場の空気が一気に引き締まる。
柔らかで優しくみんなの心を落ち着かせるような菜月の声とは異なり、強かで鋭い沙月の声は瞬く間にチームに緊張感をもたらした。
「は~い! キャプテン。まずはワタシからいいですか~?」
粛々とした雰囲気の中、真っ先に声を上げたのはチームの司令塔を務める津代葵だった。
葵は沙月から場の注目を攫うと、やはり躊躇なく自分の思いを吐き出した。
「明日の試合、ワタシは何が何でも勝ちたいです。たとえ練習試合だったとしても、あの蘭華に勝てれば夏の大会に向けて大きな自信になるはずです」
「んー、そりゃアタシだって勝てるなら勝ちたいとは思うけどよぉ」
葵の発言に口を挟んだのはあけすけな性格の長身少女、明山伊織だった。
「だからってそう簡単に勝てる相手じゃないだろ? 何か有効な策でもあるのか?」
「作戦はいくつか考えてあるけど、それが通用するかは明日にならないと分からない」
葵はどれだけ大きな目標を掲げていても、決して感情だけでものを言っている訳ではなかった。
「それで、葵の勝ちたい理由はただそれだけか? 私にはそれが“何が何でも”という表現に見合う動機だとは思えないが」
どこまでも誠実にチームを背負う沙月の瞳に見つめられても、葵は自分を曲げなかった。
「あとは、ただの私情です」
「……そうか」
偽りなく白状した葵に対して、沙月も特別言葉を返すことはしなかった。
「私情って、どうせまたヒナタ先輩のことでしょ? アンタってほんっとあの人のこと好きよね~」
その代わりに割り込んだメイのくだけた言葉が、不用意に葵の尾を踏みつけてしまった。
「……もー、メイちゃんってば。自分がお眠だからってムヤミに口挟むのヤメてね~」
「はァ? 別に眠くないわよ。あんたワタシのことなんだと思ってるワケ?」
「えー、だって昨日も真っ先に寝たくせに今朝1番遅くまで寝てたし」
「それはアンタたちが誰も起こしてくれないからでしょうが!」
「いや~、こんな顔して寝てたら誰も起こせないって」
「なっ、なんで寝顔撮ってんのよ!」
「あ、ごめん……可愛いなと思って、つい……」
「あやめが撮ったの!?」
思いもよらぬ真犯人に、メイは責めるのも忘れて愕然としていた。
「あと何かむにゃむにゃ寝言も言ってたよ」
「なァんで動画まで撮ってるのよ!!」
「あ、ゴメンね。それは私が……」
「菜月センパイが!? というか3年生は部屋別でしたよね!??」
いよいよメイのツッコミが追いつかなくなってきたところで、彼女にトドメが刺された。
「こらメイ。落ち着いて」
「ハルカ先輩……アイツにイジメられましたぁ」
「いや、今のは完全にメイが悪いよ」
「そんなッ! センパイまで!?」
遥香にもたしなめられて、レモンイエローの少女はしょんぼりと肩をすぼめた。
「みんな。少し聞いて欲しい」
少しずつまとまりを失くし始めていた全員の意識を、沙月の一声が見事に束ね上げた。
「理由の是非はともかく、葵の言う通り何を目標に試合に臨むかで結果は大きく変わる。特に明日の相手はあの蘭華女子だ。自分たちより格上の相手に挑む時、人の“心”は技術や経験以上にものを言うことがある。心の隅に潜在する迷いや弱気がプレーに影響し、その心が仲間にも伝染する。ほんの些細な感情だったそれが、チーム全体を蝕み侵す“毒”になり得るんだ」
沙月は声を荒らげていた訳ではないし、態度や表情に怒気がこもっていたわけでもなかった。けれど、ひとつひとつの言葉の存在感に圧倒され誰もが一様に押し黙っていた。
「最後に信じられるのが自分自身でなくても構わない。大切なのは全員がこのチームの勝利を信じることができるかだ。ただ、必ずしも全員が明日勝つためにここにいる訳じゃないことも分かっている。だから答えはそれぞれの心の中で持っていてくれればそれでいい」
それでも、誰一人として沙月の言葉から目を逸らそうとはしなかった。
自分のためか誰かのためか。それぞれがそれぞれで自分が明日プレーする理由を必死に探しているようだった。
「だが私は、相手がどこであろうと負けたいとは思わないし、いつだってこのチームの可能性を心から信じている」
沙月が口にしたそれは何の保証もなく、形にも残らないただの言葉だったけれど、1人きりで自分に向き合い、孤独に押しつぶされそうになっていた者にとってはこの上なく心強い言葉だった。
「私は勝ちたい。私たちならどこが相手であろうときっと勝機を得れる」
明日、このチームの何かが大きく変わりそうな、新しい何かが生まれるような、そんな予感がした。
「それじゃあ、そのための作戦を話します。よく聞いてください」
10
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
私たち、博麗学園おしがまクラブ(非公認)です! 〜特大膀胱JKたちのおしがま記録〜
赤髪命
青春
街のはずれ、最寄り駅からも少し離れたところにある私立高校、博麗学園。そのある新入生のクラスのお嬢様・高橋玲菜、清楚で真面目・内海栞、人懐っこいギャル・宮内愛海の3人には、膀胱が同年代の女子に比べて非常に大きいという特徴があった。
これは、そんな学校で普段はトイレにほとんど行かない彼女たちの爆尿おしがまの記録。
友情あり、恋愛あり、おしがまあり、そしておもらしもあり!? そんなおしがまクラブのドタバタ青春小説!
校外学習の帰りに渋滞に巻き込まれた女子高生たちが集団お漏らしする話
赤髪命
大衆娯楽
※この作品は「校外学習の帰りに渋滞に巻き込まれた女子高生たちが小さな公園のトイレをみんなで使う話」のifバージョンとして、もっと渋滞がひどくトイレ休憩云々の前に高速道路上でバスが立ち往生していた場合を描く公式2次創作です。
前作との文体、文章量の違いはありますがその分キャラクターを濃く描いていくのでお楽しみ下さい。(評判が良ければ彼女たちの日常編もいずれ連載するかもです)
青き瞳のクリエイト
タトバリンクス
青春
本郷沙葉はどこにでもいる普通の顔が良い文学少女だ。
あの日、ぼくが心を惹かれたのは彼女の奏でる旋律だった。
彼女の奏でる旋律がぼくの心を駆り立たせ物語を紡がせる。
そんな彼女の名は月城沙音。
ぼくと同じ青き瞳を持つ金髪の美少女だった。
これはどこまでも平坦で平凡で日常的なありふれた在り来たりな青春の一ページ。
青い瞳が導くぼくたちの物語。
こちらの小説は『小説家になろう』『カクヨム』でも掲載中
俺を振った元カノがしつこく絡んでくる。
エース皇命
青春
〈未練たらたらな元カノ×エロ教師×超絶ブラコン姉さん〉
高校1年生の山吹秋空(やまぶき あきら)は、日曜日のデート後に彼女である長谷部千冬(はせべ ちふゆ)に別れを切り出される。
同棲してくれるなら別れないであげる、という強烈な条件に愛想を尽かし別れることを了承した秋空だったが、それからというもの、千冬のしつこい絡みが始まることになる……。
頭のおかしい美人教師と、秋空を溺愛する姉、秋空が千冬と別れたことで秋空を狙うクラスメイトの美少女たち。
クセの強い友達に囲まれる、秋空の苦悩に満ちた学校生活!
※小説家になろうにも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる