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【第3話】「偶然の舞」
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その日、紗羅は昼下がりの休憩時間を得て、後宮の一角にある小さな庭園へと足を運んだ。普段は使用人たちが雑務に追われ、ゆっくりと庭を眺めることなどないが、その日は幸運にも刻限に余裕があり、短い休息が許されたのだ。
庭園には紅紫色の花が咲き乱れ、苔むした石灯籠が緑陰に溶け込む。細い小川がささやくような音を立て、苔生した岩に当たって小さな飛沫を上げている。その光景は、後宮の表層にあふれる華美さとは少し異なった、どこか民話的で懐かしい匂いを孕んでいた。
誰もいないことを確かめると、紗羅はそっと足袋を脱ぎ、草むらに指先を沈めた。柔らかな芝生の感触が足裏をくすぐる。彼女はふと、幼い日々の踊りを思い出し、手を軽く宙に動かす。母が教えてくれた民間の舞――それは宮廷の厳格な舞踏とは異なり、もっと奔放で大地に根差したものであった。風に合わせ、鳥のさえずりに合わせ、己の心の声に合わせ、即興で手足を動かす。
紗羅は周囲に誰もいないと確信すると、静かに踊り出す。細い腕を肩の高さで軽く翻し、袂を揺らして草葉をかすめる。その仕草は、露草が揺らめく夕暮れに、虫が翅を震わせるような儚さと優雅さを帯びていた。腰をわずかに捻り、足をひらりと送り出すと、その動きには妙な色気が宿った。まるで、森の精霊が人間界へと垂れ込む神秘の旋律に合わせ踊るようで、紗羅の視界は一瞬、子供の頃の田園に戻ったかのようだった。
その時、背後で微かな衣擦れの音がした。紗羅は驚き、慌てて身を止める。だが、すでに遅かった。そこには杏妃(きょうひ)が立っていた。杏妃は側妃の一人で、後宮でも温和な評判を持つ。彼女は濃い桃色の衣を纏い、飾り気の少ない簪をさした上品な姿で、何故こんな下級侍女の出入りする庭に現れたのか、紗羅には皆目見当がつかない。
杏妃は驚くほど優しい目で紗羅を見つめていた。その瞳には、まるで貴重な宝物を発見したかのような喜びと驚嘆が浮かんでいる。「今の踊り、あなたが?」と小さく問いかける。その声には敵意のかけらもない。
紗羅は平伏しようと慌てる。「も、申し訳ございません! こんな場所で、許可もなく勝手に踊ってしまい……」
けれど杏妃は微笑み、「謝らないでください。今の舞はとても美しかった。あなたは、いったいどこであのような踊りを覚えたの?」と問いかける。
紗羅は困惑する。こんな場で正直に自分の身の上話を語るわけにはいかない。だが、杏妃の態度は誠に穏やかで、下級者に対する傲慢さがまったく感じられない。「昔、母から少し習っただけです。民間の小さな踊りで、宮廷には相応しくないかと……」
「あら、そんなことはないわ。わたくしはこの後宮に暮らして久しいけれど、あなたのような独特な動きを見るのは初めて。風に揺れる花びらのような、春先の鶯の声のような、それでいて大地を踏みしめる強さもある。不思議で、心が掻き立てられたのよ」
杏妃の言葉に紗羅は胸を衝かれる思いがした。単なる即興の踊りが、そんな評価を得るとは。そして、このように身分の低い侍女を無下に扱わぬ妃がいることに意外さを覚える。後宮は麗華を筆頭に、下層民を侮る者ばかりだと思っていたのに。
杏妃はさらに続ける。「来年の『鳳凰の舞』に向けて、わたくしも舞の鍛錬をしているのだけれど、どうも型にはまり過ぎていて、何か新しい風を求めていたの。あなた、名は?」
「紗羅、と申します」
「紗羅……あなた、もしよければ、わたくしにあの舞の秘訣を教えてくれないかしら?」
信じられない提案だった。侍女風情が、妃に踊りを教えるなど考えられない。だが杏妃は真剣な面持ちで言う。「下層出身であることなど気にしないわ。才能は誰にでも宿るものですもの」
紗羅は戸惑いながらも、ある思いが頭をもたげる。もし妃に近づけるのなら、それは地位を上げる糸口となるかもしれない。いつか麗華へ復讐を果たす道が、この出会いから拓けるかもしれぬ。
「……わかりました。もしそれでお役に立てるなら、喜んでお手伝いいたします」
杏妃は目を輝かせ、「ありがとう」と柔らかな声で応じる。紗羅は頭を下げつつ、心の中で小さく炎が揺れ動くのを感じた。
庭園には紅紫色の花が咲き乱れ、苔むした石灯籠が緑陰に溶け込む。細い小川がささやくような音を立て、苔生した岩に当たって小さな飛沫を上げている。その光景は、後宮の表層にあふれる華美さとは少し異なった、どこか民話的で懐かしい匂いを孕んでいた。
誰もいないことを確かめると、紗羅はそっと足袋を脱ぎ、草むらに指先を沈めた。柔らかな芝生の感触が足裏をくすぐる。彼女はふと、幼い日々の踊りを思い出し、手を軽く宙に動かす。母が教えてくれた民間の舞――それは宮廷の厳格な舞踏とは異なり、もっと奔放で大地に根差したものであった。風に合わせ、鳥のさえずりに合わせ、己の心の声に合わせ、即興で手足を動かす。
紗羅は周囲に誰もいないと確信すると、静かに踊り出す。細い腕を肩の高さで軽く翻し、袂を揺らして草葉をかすめる。その仕草は、露草が揺らめく夕暮れに、虫が翅を震わせるような儚さと優雅さを帯びていた。腰をわずかに捻り、足をひらりと送り出すと、その動きには妙な色気が宿った。まるで、森の精霊が人間界へと垂れ込む神秘の旋律に合わせ踊るようで、紗羅の視界は一瞬、子供の頃の田園に戻ったかのようだった。
その時、背後で微かな衣擦れの音がした。紗羅は驚き、慌てて身を止める。だが、すでに遅かった。そこには杏妃(きょうひ)が立っていた。杏妃は側妃の一人で、後宮でも温和な評判を持つ。彼女は濃い桃色の衣を纏い、飾り気の少ない簪をさした上品な姿で、何故こんな下級侍女の出入りする庭に現れたのか、紗羅には皆目見当がつかない。
杏妃は驚くほど優しい目で紗羅を見つめていた。その瞳には、まるで貴重な宝物を発見したかのような喜びと驚嘆が浮かんでいる。「今の踊り、あなたが?」と小さく問いかける。その声には敵意のかけらもない。
紗羅は平伏しようと慌てる。「も、申し訳ございません! こんな場所で、許可もなく勝手に踊ってしまい……」
けれど杏妃は微笑み、「謝らないでください。今の舞はとても美しかった。あなたは、いったいどこであのような踊りを覚えたの?」と問いかける。
紗羅は困惑する。こんな場で正直に自分の身の上話を語るわけにはいかない。だが、杏妃の態度は誠に穏やかで、下級者に対する傲慢さがまったく感じられない。「昔、母から少し習っただけです。民間の小さな踊りで、宮廷には相応しくないかと……」
「あら、そんなことはないわ。わたくしはこの後宮に暮らして久しいけれど、あなたのような独特な動きを見るのは初めて。風に揺れる花びらのような、春先の鶯の声のような、それでいて大地を踏みしめる強さもある。不思議で、心が掻き立てられたのよ」
杏妃の言葉に紗羅は胸を衝かれる思いがした。単なる即興の踊りが、そんな評価を得るとは。そして、このように身分の低い侍女を無下に扱わぬ妃がいることに意外さを覚える。後宮は麗華を筆頭に、下層民を侮る者ばかりだと思っていたのに。
杏妃はさらに続ける。「来年の『鳳凰の舞』に向けて、わたくしも舞の鍛錬をしているのだけれど、どうも型にはまり過ぎていて、何か新しい風を求めていたの。あなた、名は?」
「紗羅、と申します」
「紗羅……あなた、もしよければ、わたくしにあの舞の秘訣を教えてくれないかしら?」
信じられない提案だった。侍女風情が、妃に踊りを教えるなど考えられない。だが杏妃は真剣な面持ちで言う。「下層出身であることなど気にしないわ。才能は誰にでも宿るものですもの」
紗羅は戸惑いながらも、ある思いが頭をもたげる。もし妃に近づけるのなら、それは地位を上げる糸口となるかもしれない。いつか麗華へ復讐を果たす道が、この出会いから拓けるかもしれぬ。
「……わかりました。もしそれでお役に立てるなら、喜んでお手伝いいたします」
杏妃は目を輝かせ、「ありがとう」と柔らかな声で応じる。紗羅は頭を下げつつ、心の中で小さく炎が揺れ動くのを感じた。
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