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【第1話】「後宮への入り口」
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蒼凰(そうおう)王朝の後宮――それは、敷石一つに至るまで彩りと格式が行き届いた、まるで絵巻物から抜け出したかのような世界であった。朱塗りの廊下、光を織り込むように仕立てられた絹屏風、麝香や沈香が仄かに漂う回廊、そして、純白の砂利を敷き詰めた庭には、丹頂鶴が優美な首をもたげ、近く植えられた楊柳がそよぐ度に、天からの囁きにも似た優しい音が聞こえてくる。だが、その裏側は如何なる野心と暗い欲望が渦巻いているか、それを知る者は多くない。
この後宮の奥深く、最も身分の低い女たちの集う薄暗い一角に、紗羅(さら)と呼ばれる娘がいた。侍女と呼ぶにはあまりに粗末な身なり。草木染めの褪せた麻布を纏い、ただ黙々と床を磨いたり、水桶を担いで歩いたり、油灯の芯を替えたりして日々を過ごす。そのか細い腕は、辛労と寒暖の差に苛まれ、手は木綿より粗い布で擦れたようにざらついている。しかし、その瞳には奇妙な光が宿っていた。琥珀にも似た深い光沢が、闇に沈みがちな下働き女の身でありながら、刃のような意志を秘めているのだ。
ある日の夕刻、紗羅は人目を避けるように板張りの廊下を抜け、侍女たちの控室へと急いだ。そこは彩りも少なく、飾り気のない小部屋で、同じ身分の女たちが三々五々身を寄せ合う狭苦しい空間である。遠くでは、上位の妃たちが練習する舞の音が微かに届く。鈴や笛、時に琴の音も混じる。上流の者たちが指先一つ動かせば、花は咲き、衣は舞い、香は立つ。だが下層の侍女たちには、その煌びやかさなど夢物語に過ぎなかった。
――かつて、紗羅には家族があった。幼い日の記憶は柔らかい陽光に包まれている。まだ家が平民の小村にあった頃、彼女は父と母と共に静かな暮らしを営んでいた。村の小川のほとりで、母は優しい声で子守唄を歌い、それに合わせて、稚い紗羅はくるくると踊った。民間の小踊りであったが、その軽妙な足遣いと、幼児には不釣合いなほど繊細な手の動きに、母は時折目を見張って微笑んだものである。
「紗羅や、上手だねぇ。その踊り方は誰に習ったんだい?」
「母様が教えてくれたんでしょう?」と幼い声で笑う紗羅。
「そうよ、けれどね、あなたは不思議ね。母が見せた何倍も美しく踊れる。血筋かしらね」
母は微笑み、銀色の簪を挿した黒髪を揺らした。その髪には朝露のような艶があり、紗羅は「母様みたいに美しくなれたら」と胸をときめかせた。父は釣り竿を手に、笑いながら娘を見守っていた。風はやわらかく田園を渡り、遠くには小麦色の丘陵が連なっていた。それは紗羅にとって、何より愛おしい原風景である。
だが、ある夜、すべてが崩れ落ちた。村の外れで、闇夜に紛れ馬蹄の音が響く頃、何者かが彼らの小屋を襲い、火を放った。紗羅は混乱の中で母に手を引かれ、命辛々逃げ出そうとしたが、父は乱闘に巻き込まれ、母は矢で射抜かれた。母が息絶える直前、その唇が紗羅に何事かを囁いた。
――この惨事の黒幕は、後宮にて絶大な力を振るう妃、麗華(れいか)であるらしい。何故に平民ごとき一族を滅ぼす必要があったのか、それは紗羅には分からぬ。ただ一つ確かなことは、麗華がその陰謀によって多くの血を流させ、紗羅から大切なものを奪ったという現実だ。
紗羅は両親の死後、孤児として流浪した末、結局、後宮の最下層で雑役女として生き延びることになった。彼女がまだ幼き日々に舞ったあの踊りも、今や埃まみれの記憶箱に仕舞いこまれている――そう思っていた。
後宮では麗華が頂点に君臨していた。鳳凰妃として帝の絶対的な寵愛を受け、その権力は妃たちを震撼させ、側室たちは彼女の顔色を窺って日々を生きている。麗華は優雅で、艶やかな衣装に身を包み、その動きはまるで絹の蝶が空を舞うかのようであったと聞く。だが、その笑顔の裏には冷酷な刃が光る。麗華が動かせば、有望な側妃はいつの間にか退場を余儀なくされるという噂が後を絶たぬ。そんな女が、自分の家族を滅ぼした黒幕なのだ。
薄暗い控室に戻った紗羅は、他の侍女たちと並び、不味い粥をすすりながら今日の疲労を癒す。静かな灯りの下、彼女は黙って箸を動かしつつも、いつの日かこの後宮で力をつけ、麗華に報復を果たすことを思わずにはいられなかった。復讐――その二文字は彼女の心中で漆黒の炎を燃やす。けれど、今のままでは到底麗華に対抗などできぬ。ただの雑役女が何を成し遂げられようか。
侍女仲間の中には、既に疲労で青ざめた面持ちの者もいれば、一日の辛労を愚痴で散らす者もいる。そんな中、蓮(れん)という陽気な少女が紗羅に声をかける。「あんた、今日も一言も喋らなかったわねぇ。少しは愚痴って楽になったら?」紗羅はかすかに笑みを浮かべ、「ありがとう、でも私は大丈夫」と軽く首を振った。蓮は肩をすくめて笑い、向かい合う菫(すみれ)は黙したまま湯呑みに口をつけた。
こうして日々が過ぎていく。だが紗羅は知っていた。この後宮には「鳳凰の舞」という絶対的な権威を示す行事がある。年に一度、妃たちは華麗な舞を競い、その年の「鳳凰妃」を選び出す。既に麗華がその座について久しい。だが、もしその場に下層出身の女が立てるなら? 想像するだけで胸が高鳴る。紗羅は密かに思う。「あの時、母が私に伝えた舞、それがあれば……」
後宮の夜は深く、遠くで鈴虫が微かに鳴いている。日中の華美さとは打って変わって、月光が細く廊下を撫で、金の繊細な格子から淡い光が洩れる。紗羅は硬い寝床に横たわり、目を閉じる。母の血、父の無念、それを己の舞で晴らすことはできないだろうか。麗華を陥れる糸口はないだろうか。強大なる権力を前に今は何もできぬが、せめて心中に小さな決意の蝋燭を点す。
「必ず、この後宮で名を上げてみせる。そして麗華、お前に復讐を……」
その決意は、深夜、薄暗い寝所の中で、誰にも聞かれぬ声で紗羅の唇から零れ落ちた。小さく、だが確かな火種。それは後に、後宮全体を揺るがす大きな炎となるかもしれない。
この後宮の奥深く、最も身分の低い女たちの集う薄暗い一角に、紗羅(さら)と呼ばれる娘がいた。侍女と呼ぶにはあまりに粗末な身なり。草木染めの褪せた麻布を纏い、ただ黙々と床を磨いたり、水桶を担いで歩いたり、油灯の芯を替えたりして日々を過ごす。そのか細い腕は、辛労と寒暖の差に苛まれ、手は木綿より粗い布で擦れたようにざらついている。しかし、その瞳には奇妙な光が宿っていた。琥珀にも似た深い光沢が、闇に沈みがちな下働き女の身でありながら、刃のような意志を秘めているのだ。
ある日の夕刻、紗羅は人目を避けるように板張りの廊下を抜け、侍女たちの控室へと急いだ。そこは彩りも少なく、飾り気のない小部屋で、同じ身分の女たちが三々五々身を寄せ合う狭苦しい空間である。遠くでは、上位の妃たちが練習する舞の音が微かに届く。鈴や笛、時に琴の音も混じる。上流の者たちが指先一つ動かせば、花は咲き、衣は舞い、香は立つ。だが下層の侍女たちには、その煌びやかさなど夢物語に過ぎなかった。
――かつて、紗羅には家族があった。幼い日の記憶は柔らかい陽光に包まれている。まだ家が平民の小村にあった頃、彼女は父と母と共に静かな暮らしを営んでいた。村の小川のほとりで、母は優しい声で子守唄を歌い、それに合わせて、稚い紗羅はくるくると踊った。民間の小踊りであったが、その軽妙な足遣いと、幼児には不釣合いなほど繊細な手の動きに、母は時折目を見張って微笑んだものである。
「紗羅や、上手だねぇ。その踊り方は誰に習ったんだい?」
「母様が教えてくれたんでしょう?」と幼い声で笑う紗羅。
「そうよ、けれどね、あなたは不思議ね。母が見せた何倍も美しく踊れる。血筋かしらね」
母は微笑み、銀色の簪を挿した黒髪を揺らした。その髪には朝露のような艶があり、紗羅は「母様みたいに美しくなれたら」と胸をときめかせた。父は釣り竿を手に、笑いながら娘を見守っていた。風はやわらかく田園を渡り、遠くには小麦色の丘陵が連なっていた。それは紗羅にとって、何より愛おしい原風景である。
だが、ある夜、すべてが崩れ落ちた。村の外れで、闇夜に紛れ馬蹄の音が響く頃、何者かが彼らの小屋を襲い、火を放った。紗羅は混乱の中で母に手を引かれ、命辛々逃げ出そうとしたが、父は乱闘に巻き込まれ、母は矢で射抜かれた。母が息絶える直前、その唇が紗羅に何事かを囁いた。
――この惨事の黒幕は、後宮にて絶大な力を振るう妃、麗華(れいか)であるらしい。何故に平民ごとき一族を滅ぼす必要があったのか、それは紗羅には分からぬ。ただ一つ確かなことは、麗華がその陰謀によって多くの血を流させ、紗羅から大切なものを奪ったという現実だ。
紗羅は両親の死後、孤児として流浪した末、結局、後宮の最下層で雑役女として生き延びることになった。彼女がまだ幼き日々に舞ったあの踊りも、今や埃まみれの記憶箱に仕舞いこまれている――そう思っていた。
後宮では麗華が頂点に君臨していた。鳳凰妃として帝の絶対的な寵愛を受け、その権力は妃たちを震撼させ、側室たちは彼女の顔色を窺って日々を生きている。麗華は優雅で、艶やかな衣装に身を包み、その動きはまるで絹の蝶が空を舞うかのようであったと聞く。だが、その笑顔の裏には冷酷な刃が光る。麗華が動かせば、有望な側妃はいつの間にか退場を余儀なくされるという噂が後を絶たぬ。そんな女が、自分の家族を滅ぼした黒幕なのだ。
薄暗い控室に戻った紗羅は、他の侍女たちと並び、不味い粥をすすりながら今日の疲労を癒す。静かな灯りの下、彼女は黙って箸を動かしつつも、いつの日かこの後宮で力をつけ、麗華に報復を果たすことを思わずにはいられなかった。復讐――その二文字は彼女の心中で漆黒の炎を燃やす。けれど、今のままでは到底麗華に対抗などできぬ。ただの雑役女が何を成し遂げられようか。
侍女仲間の中には、既に疲労で青ざめた面持ちの者もいれば、一日の辛労を愚痴で散らす者もいる。そんな中、蓮(れん)という陽気な少女が紗羅に声をかける。「あんた、今日も一言も喋らなかったわねぇ。少しは愚痴って楽になったら?」紗羅はかすかに笑みを浮かべ、「ありがとう、でも私は大丈夫」と軽く首を振った。蓮は肩をすくめて笑い、向かい合う菫(すみれ)は黙したまま湯呑みに口をつけた。
こうして日々が過ぎていく。だが紗羅は知っていた。この後宮には「鳳凰の舞」という絶対的な権威を示す行事がある。年に一度、妃たちは華麗な舞を競い、その年の「鳳凰妃」を選び出す。既に麗華がその座について久しい。だが、もしその場に下層出身の女が立てるなら? 想像するだけで胸が高鳴る。紗羅は密かに思う。「あの時、母が私に伝えた舞、それがあれば……」
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「必ず、この後宮で名を上げてみせる。そして麗華、お前に復讐を……」
その決意は、深夜、薄暗い寝所の中で、誰にも聞かれぬ声で紗羅の唇から零れ落ちた。小さく、だが確かな火種。それは後に、後宮全体を揺るがす大きな炎となるかもしれない。
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