狐火郵便局の手紙配達人

烏龍緑茶

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第10話:「未練の声」

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 湊が水面へと顔を出し、大きく息を吸い込んだときだった。

 彼の耳に、水底から微かに響く音が届いた。それは、水の流れる音とも違う。どこか悲しげで、切ない歌のような囁きだった。

 「今の……何か聞こえなかったか?」

 湊はすぐにあかりに問いかけたが、彼女は冷静に首を横に振った。

 「何も聞こえないわ。ただの水の音でしょう。それより、早く帰りましょう。」

 その冷たい言葉にも湊は納得できなかった。

 「ねえ、湊、何か聞こえたの?」

 水面を跳ねながら久遠が問いかける。湊は少し迷った後、静かに頷いた。

 「ああ……まるで歌みたいな、囁きみたいな声だ。たぶん、水底に囚われた魂の……未練の声かもしれない。」

 久遠の目が輝く。「そうか! もしかして助けを求めてるのかもね!」

 「余計な干渉はするなと言ったはずよ。」

 あかりが低く警告するように口を開いた。その声には苛立ちが滲んでいる。

 「あれはこの世に未練を残した魂の断片。放っておけば、いずれ自然に消える。深入りはするべきじゃないわ。」

 しかし、湊の胸に響いた声を無視することはできなかった。それはまるで、直接彼に訴えかけているかのようだったからだ。

 「確かめたいんだ、あかり。もしかしたら、手紙を届けられるかもしれない。」

 湊の強い意志を感じたのか、あかりはため息をつき、短く答えた。

 「……好きにしなさい。ただし、深入りしないこと。あれは簡単に解決できるようなものじゃないわ。」

 湊は感謝の言葉を告げると、再び水底へと潜った。久遠は興奮気味に彼の後を追い、水面は静かになった。

 深く潜るほどに、水底の様子が変わっていった。漂う魂の数が増え、先ほどの囁きが一層はっきりと耳に届いてくる。

 「誰か……私を呼んでいる……誰か、私の声を聞いて……。」

 それは若い女性の声だった。悲しげで切ない響きが湊の胸を打つ。

 彼はその声に導かれるように進んでいき、やがてその主を見つけた。

 それは沈みかけた古い建物の影にひっそりと佇む、半透明な魂だった。

 女性の姿をしたその魂は、顔を伏せ、静かに泣いている。

 湊は慎重に近づき、静かな声で語りかけた。

 「あなたは、誰ですか? 何か、僕にできることはありませんか?」

 魂がゆっくりと顔を上げた。その瞳は悲しみと絶望に満ちており、湊は息を呑んだ。

 「私は……伝えたい言葉があった。でも、もう誰にも届かない……。」

 その言葉に、湊は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。

 (彼女は、誰かに伝えたい想いを抱えたまま、ここに囚われているんだ……。)

 「もしかしたら、手紙なら届くかもしれません。」

 湊は懐から特別な便箋を取り出した。それは、送り先不明の「迷子の手紙」用の便箋で、狐火郵便局にある貴重なものだった。

 「この便箋に想いを綴れば、あなたの言葉が誰かに届くかもしれない。」

 魂は驚いたように湊を見つめたが、やがて視線を落とした。

 「手紙……。でも、私にはもう届けるべき相手がいない。」

 湊は穏やかな笑みを浮かべ、静かに言った。

 「それでもいいんです。もし、伝えたい想いがあるなら、この便箋が架け橋になるかもしれません。」

 魂はしばらく迷った末、震える手で便箋を受け取った。そして少しずつ、自分の想いを文字にしていった。

 久遠はその様子を静かに見守り、いつもの無邪気さを潜めている。その横顔はどこか大人びたものに見えた。

 書き終えた魂は便箋を湊に差し出した。その手は透き通り、触れれば消えてしまいそうだった。

 便箋には短い走り書きが綴られていた。それは、愛する人への最後のメッセージだった。

 「ありがとう……。これで、私の想いが届くかもしれない。」

 魂は小さく微笑み、湊に感謝の言葉を残した。その笑顔は悲しみに満ちつつも、どこか安堵を感じさせた。

 湊はその便箋を懐にしまい、深く頷いた。

 「必ず届けます。あなたの想いを、誰かに届けます。」

 その言葉を聞き、魂は静かに頷きながら、水底に溶けるように消えていった。

 湊はしばらくその場に立ち尽くしていた。その魂が抱えていた想いの深さが、彼の心を重くしていたからだ。

 「湊、もう行こう。」

 あかりの冷たい声が、水中に響いた。

 「これ以上ここにいても、何も変わらないわ。」

 湊はゆっくりと頷き、魂が消えた場所に手を合わせてから、あかりと久遠に従った。

 水面に戻ると、月が一層明るく輝いていた。湊はその光を仰ぎ、静かに息を吐いた。

 (この便箋を、誰に届けるべきなのか……。)

 手紙を握りしめながら、狐火郵便局へと戻る湊の胸には、使命感と謎が入り混じっていた。

 局に戻ると、あかりが冷たく言った。

 「余計なことをしたわね。あれは未練の残骸。放っておけば自然に消えるものを、わざわざ拾い上げる必要はなかった。」

 湊はその言葉に一瞬傷ついたが、まっすぐにあかりを見つめ返した。

 「でも、あの魂は想いを伝えたがっていた。配達人として、その想いを繋ぐことが僕の役目だと思ったんだ。」

 あかりはため息をつきながら視線を逸らした。「いつか、その優しさがあだになることを覚えておきなさい。」

 久遠が間に割って入り、湊の肩を軽く叩いた。

 「いいじゃないか、湊。その優しさが、あの魂にとっては救いになったんだよ。」

 湊は微笑み、便箋を大切にしまい込んだ。それは、ただの紙ではなく、魂の最後の想いが込められたかけがえのないものだった。

 (必ず、この手紙を届けてみせる。それが配達人としての使命だ。)

 そう心に誓い、湊は次の物語への一歩を踏み出した。
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