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三章 愛しい人との別れ

愛しい人との別れ 10

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「ああ、やっぱりだ。あいつ、特区の反対派代表の侯爵なんだよ」
 ヴィンセントがウンザリというような口調でぼくに耳打ちした。
「どうされましたか、タルボット卿」
 一瞬で態度と口調を切り替えたヴィンセントが、タルボット侯爵に歩み寄る。
「ああ、勇者殿のおでましか。……おっと、これは秘密だったか」
 タルボット侯爵はいくつもの指輪が食い込んだ指をわざとらしく口元に持って行った。連れの貴族たちも嘲るような表情を浮かべる。その一言で、タルボット侯爵がヴィンセントを友好的に見ていないことがわかった。
「これを見たまえ、腐ったものばかり並べおって。酷いにおいで鼻が曲がりそうだ。魔族はこんなものばかり食べているから毒々しいのだろうな。店主には一番美味いものを頼んだのに、やっぱり腐ったものを渡してきた。こんなものを食えるか」
 タルボット侯爵は手にしていた袋をポイッと地面に捨てる。それを見てぼくはムッとした。
 なにが入っているのか知らないけど、食べ物を粗末にするなんて、この人、悪い人だ!
「しかも、釣りをごまかす始末だ。盗人の街だな」
「勝手なことを言うな! これは腐ってるんじゃなくて発酵してるんだよ! それに、きちんと釣りを渡したじゃねえか!」
 頭から植物を生やしている店主が顔を赤くして怒っている。ツタのような髪が怒りのあまりかウネウネしていた。
 ぼくは袋を拾って中を覗いた。
 ブルーチーズが入っていた。青カビで熟成したチーズで、知らなければ腐っているように見えるかもしれない。とても美味しいのに。
「いくら足りなかったのですか。立て替えましょう」
 ヴィンセントの提案を、タルボット侯爵は鼻で笑う。
「金額の問題ではない、心根の問題だ。物を返せば窃盗は許されるのか。傷が治れば傷害を許すのか」
 ああ言えばこう言う。初めからこの人は、店主を許す気がないんだ。難癖をつけに来たに違いない。
「誰か、タルボット侯爵がいくら店主に渡し、店主がいくら釣りを返したか、見た者はいるか」
 ヴィンセントの声掛けに返事をする者はいなかった。店主一人が切り盛りをしている小さな店なので、目撃者がいないのは当然だろう。
 ヴィンセントは「そうか」とつぶやき、タルボット侯爵に向き直った。
「タルボット卿、この不届きな店主にはよく言いつけます。今回はあなたの広い心で許してやってはいただけませんか?」
「ヴィンセントさん、信じてくれないんですか? 俺はちゃんと……」
 店主が気色ばむのを手で制し、タルボット侯爵が見えない角度で、ヴィンセントは店主にウインクして見せた。
「この店の商品はあなたに合わなかったようだ。代金も全額返します」
 ヴィンセントが最大限下手に出ると、タルボット侯爵は気を良くしたように白い歯を見せた。
「わかればよい。しかし、この件は陛下にお伝えするからな」
「感謝します」
 ヴィンセントはタルボット侯爵に礼をした。それから、遠巻きに見ている野次馬を含めて、周囲に声をかける。
「みんな、これから売買をするときには、できるだけ一対一で行わないこと、受け取った金額と釣銭を、客としっかり確認しながら取引することを徹底してほしい。周知させてもらえるか?」
 わかった! といくつもの声が上がる。
 ヴィンセントは再びタルボット侯爵に礼をした。
「タルボット卿の指摘のおかげで、特区のトラブルも減るでしょう。ありがとうございました」
 そしてヴィンセントは隙のない完璧な礼をした。まさに慇懃無礼というやつだ。タルボット侯爵は鼻白んだように後退る。
「ふん、二度目はないぞ」
 タルボット侯爵は豊かなお腹を揺らしながら、仲間と一緒に去っていった。
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