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▼第13章 ヴィンドヤースの森

▼13-4 夜明け前の闇

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 その時、門の外の森からかなり大きな物音がした。木の太い枝が折れるような感じか。門番の兵士二人は、明かりと剣を持って音の聞こえた方へ様子を見に行った。門の外は森なので、どこの木から音がしたのかはすぐには分からないだろう。

 黒猫カンハシリの生まれ変わりが出現したのは奇跡だし、南門の門番を追い払った物音は偶然だ。いずれにせよラージャシュリーにとって良い流れだ。観音菩薩様の御加護で起こしてくれたことかもしれない。

 重い油壷を抱え直してカナウジ南門から脱出を果たしたラージャシュリーは、すぐに森に入り込んだ。これで容易に発見される危険は大きく減った。

 だがまだ安心できる状況ではない。ラージャシュリーも油壷を抱えると同時に松明も持っているので、発する光で見張り兵に発見される可能性がある。そうなる前に目的地に到達して夫の後を追いたい。

 前方から物音がした。地面に落ちている枯枝や枯葉を踏む音のようだ。油壷を抱いた格好のままラージャシュリーは両足を斜め前後に開いて身構えた。もしも厄介な敵だったら、油壷を投げつけてその後に松明も投げつけてから逃げるという奥の手も使える。ただしやはり奥の手なのでできるだけ使わずに温存して切り抜けたい。

 前方から夜の暗闇を割るように出現したのは象だった。身長は人間とほぼ同等なので、まだ子どもの象である。額には紋章のような傷跡があるのが見えた。鰐の馬蹄花である。

「あなた、ダナパーラね。どうしてここにいるの」

 ラージャシュリーが問いを投げかけたが、ダナパーラは何も答えない。

 人の言葉を話さない動物と問答をしても始まらない。ラージャシュリーは悟った。これは毒矢の譬えの応用だ。

 ダナパーラが何故ここに居るのか。カナウジ城内の象舎で飼っているのではなかったか。どうやって門の外に出たのか。などといった諸々湧いてくる疑問は、今は無意味でどうでもいい。ダナパーラと今ここで合流したことで、何ができるのか、どういう行動をするのが最善なのかを考えるべきなのだ。後ろ向きに考えるのではなく、前向きに考えることができるかどうかだ。

「ダナパーラ、この壷、重いから代わりに持ってほしいですわ。中身は液体の油だから零したりしないようにね。それで、この森の、そんなに深くない所に、ちょっとした広場になっている場所があると思うのです。夫に先立たれた妻が後追いするために身を焼く場所ですわ。そこに案内してほしいのです」

 ダナパーラは主人のラージャシュリーに言われた通りに、緑色の壷を器用に長い鼻で巻いて抱えた。これでラージャシュリーは楽に歩けるようになったが、ダナパーラはその場から全く動こうとしなかった。

「さすがに指示が複雑すぎて理解できなかったのでしょうか」

 もう一度、ラージャシュリーは自分の望みをダナパーラに話した。ダナパーラは四本の脚でその場で足踏みしたが、先へ進もうとはしなかった。

「もしかしてですが、嫌がっているのですか」

 保護者であるラージャシュリーは知っている。ダナパーラは賢者並みに賢い象だ。その評価には贔屓目も入っているのではあろうが、賢いことに間違いは無い。ラージャシュリーが焼身自殺を企てていることを察知して、そこへ行くことを反対しているのかもしれない。

「反抗期という現象かしら。人間でも十四歳くらいの少年は、自意識とか色々なものに目覚めて何かと両親や大人に対して反抗したりする、と言われているようですけど。それでしょうか」

 起きている事象の名前が分かったからと言って対策が出て来るのでもない。困り果ててしまった。だが長時間考慮してはいられない。すぐ行動を起こす必要がある。

「分かりました。仕方ないですね。拒否されてしまったようです。でしたら、わたくしは自分一人で自力でその場所に辿り着いてみせますわ。森のそんなに奥には無いはずなので、夜とはいえども、少し歩けば自力で探し出せるはずです」

 何故ここにダナパーラが居るのかは相変わらず不明のままだが、一つ気付いた。先刻、大きな物音によって南門の門番たちがそちらに注意を向けた。そのおかげでラージャシュリーは無事にカナウジ城内から脱出することができた。あの大きな音は、その時に既に森に潜んでいたダナパーラが出してくれたのだ。子どもであっても象の力ならば木の枝の太いものでも折ることができる。

「もしかして、さっき助けてくれたのはダナパーラだったのかしら。だったら、お礼だけは言っておかなくてはならないですね。どうもありがとう。でも、この後はもういいですわ。わたくしが自力でなんとかします」

 言うだけ言って、ラージャシュリーは森の奥へ向かって歩き出した。壷は象の鼻に持たせたままだ。

 すると、どことなく重そうな足取りではあるが、ダナパーラがラージャシュリーの後ろから、ついてきた。

 焼身自殺のための広場へ案内はしたくないが、主人であるラージャシュリーはしっかり見守りたいし、油壷を運ぶ任務は全うしたい、ということだろうか。これも毒矢の譬えの応用で、解釈などはどうでも良い。ラージャシュリーは自分に今できることをするだけだった。

 どれほど時間をかけたのか分からないが、歩き回っているうちに広場を発見した。ラージャシュリーは枯枝や枯葉を拾い集め始めた。ダナパーラはというと、油壷をその場に置いて、いつの間にか姿が見えなくなっていた。

 そして。

 もうそろそろ薪とする枯枝も十分集まったと思われるため、いよいよ実行に移す時が来た。

 そんな時に、今度は兄のハルシャが出現し、弓矢で緑色の油壷を破壊してしまい、焼身自殺の挙行を頓挫させたのだ。

 ここでハルシャと再会するまでに色々なあり得ないことが起きた。それらの奇跡も皆、観音菩薩さまの慈悲によるものか。

「そういえばお兄様、ダナパーラはどこに行ったのでしょう」

 言われて初めて、ハルシャも気付いた。ラージャシュリーに気を取られていて、ここまで導いてくれた象のダナパーラがどこに行ったのか。大声を出すのは躊躇われたので控え目な声でダナパーラの名を闇に呼びかけてみたが、応えが返って来る気配は無かった。

「お兄様、ダナパーラを探さなければ」

「いいや、これって、筏の譬えの応用だと思う。俺の目の前には、成鳥になった鴨のアールティーが現れて、ラージャシュリーが幽閉されている場所を自分の命と引き替えに教えてくれました。あの、水精珠を矢に括り付けて射た時です。つまり、鴨のアールティーも、黒猫のカンハシリも、象のダナパーラも、今までの恩返しとして俺とラージャシュリーを助けてくれた、ってことですよね。俺たちがするべきは、筏をどこまでも持っていくことではなく、筏に感謝しつつ先に進むことだと思います」

 ハルシャは左手に松明を持ち、右手をラージャシュリーに差し出した。ラージャシュリーも左手に自分の松明を持ったまま、右手を伸ばした。

 気が付いてみると、東の空が白み始めていた。朝が近いのだ。今にして思い返してみれば、夜明け前の闇が最も暗かった。

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