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▼第12章 慈悲の報い
▼12-4 留守番の軍隊
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兄の言葉は、王という地位の重みも加わって、一緒に机を並べてジャヤセーナ論師の講義を聞いていた頃とは隔世の感があった。
「俺はまだ、一〇〇〇〇騎なんて大軍を率いた経験はありませんよ。もっと実戦経験豊富な将軍の誰かに任せた方が良くないですか」
「指揮といっても、特別なことをする必要はない。単なる留守番だ。そして、そのような事態にならないとは思うが、万が一、余が死んだり大怪我をしたりして、王の責務を果たせなくなった時は、ハルシャが総大将として軍を率いてタネシュワールへと帰還せよ。そして、廷臣たちの支持をしっかり取り付けてから、王に即位するのだ」
兄の顔は大真面目で、冗談を言っている様子にはとても見えなかった。
「陛下、何を仰るのですか。それではまるで、シャシャーンカ王のところで殺されることが前提みたいじゃないですか」
「勿論、余とて死にたくはない。あくまでも最悪の場合の話だ」
それだけを言い残し、ラージャー王は随伴の者たちと共に、東のカルナ・スヴァルナへ向けて出発した。
実際のところ、指揮を任されたといっても、若輩者のハルシャにやることは特に無かった。
カナウジの東と北に軍を展開しているので、南門やジャムナ河方面の西門からならば出入りはできる。カナウジの住民を飢えさせるのは本望ではないので、食糧の搬入を阻止しているのではない。
南門や西門からカナウジを出て行く者があったとしても、取り締まることなく素通りだ。もし、カナウジに駐在しているシャシャーンカ王の軍勢が密かに逃げ出したとしても、それはハルシャたちにとっては悪い話ではない。
ただし、大量の援軍や武器などが外部から城内へと持ち込まれるのは困るので、中身の分からない怪しい大きな荷車などは、荷物検査を行うことになっている。
無論、北と東を包囲している軍勢が奇襲攻撃を受けては困るので、周辺に対して斥候を派遣して、カナウジ城内に籠もっているカルナ・スヴァルナ軍の動きにも常に注意を払っている。軍の基本的な行動指針は和平会談に向かう出発前にラージャー王から指示されていたものなので、兵士たちは総大将が一時的に不在でも、その指示を護りながら帰還を待つのみであった。
問題は、ラージャシュリー救出作戦をどうするか、だ。ラージャシュリーが幽閉されて人質に取られたままだと、ラージャー王の交渉も不利に働くだろう。
だが、だからといって今、救出作戦を強行するのはいかがなものか。今からラージャシュリーを救出したとしても、交渉の席にその事実が伝わっていない限りは、影響は無いということだ。
それに、和平会談が上首尾に纏まって、カナウジ解放となると、恐らくラージャシュリーも虜囚の身から解放されるはずだ。そのための和平会談なのだ。わざわざ今の段階でハルシャが危険を冒して救出作戦を遂行する意味はあるまい。
つまり状況が変わったのだ。
ハルシャは本陣に設えられた椅子にどっかりと腰を下ろした。拙速な行動は控えなければならないことは重々承知している。しかし、それでもラージャシュリーのことは心配で、その気持ちは止められない。
ラージャー新王とシャシャーンカ王の交渉が決裂したら、改めて救出作戦が必要になってしまう。それに会談の結果が判明するまで、ラージャシュリーは幽閉という状況を長く経験することになってしまう。せっかく助けに来た、という連絡だけはついたのに、こちらの都合で待たせてしまうのは申し訳ない。
一〇〇〇〇の軍隊の総大将代理に任命されたとはいえ、ハルシャは居ても立ってもいられなかった。自分の活躍で囚われの仲間を救出する。そういう状況に憧れるハルシャくらいの年齢の少年にありがちの気持ちがある。
夜になった。星空である。北の空には、低い位置に明るい七つ星も見える。
カナウジの街も、スタネーシュヴァラ軍も静かに寝静まっている。無論、交代で夜警についている者は耳目を凝らして周囲を警戒している。
そんな中を、ハルシャはこっそり抜け出して、一人で南のヴィンドヤースの森へ向かった。今回はサムヴァダカも連れて行かない。
ラージャシュリー救出のための行動は起こせないけれども、気になるのは気になる。ラージャシュリーの幽閉されている南東隅の塔の様子だけでも、自らの目で確かめに行きたかった。
小さな松明だけを持って暗い森を進む。既に一度来たことのある道なので、幸い少しは慣れていた。
細い獣道を進んで行くと、突如、一頭の獣が黒い影となって道を塞いで立ちはだかった。
「な、なんだ、象か。子どもの象だな」
身長はハルシャとほぼ同等くらいだろう。象としてはまだまだ成獣よりも小さな子どもだ。
象の子どもは好奇心旺盛だ。何でも遊びたがる。夜中に子どもの象が寝ずに森を遊び歩いているというのは、にわかには信じられないが、人間にしても夜中に遊び歩く不良少年たちもいるのだから。
松明を近づけて象の様子を照らすと、額に引っ掻き傷らしきものがあることに気付いた。
鰐の馬蹄花。
「お前、まさかダナパーラか」
「俺はまだ、一〇〇〇〇騎なんて大軍を率いた経験はありませんよ。もっと実戦経験豊富な将軍の誰かに任せた方が良くないですか」
「指揮といっても、特別なことをする必要はない。単なる留守番だ。そして、そのような事態にならないとは思うが、万が一、余が死んだり大怪我をしたりして、王の責務を果たせなくなった時は、ハルシャが総大将として軍を率いてタネシュワールへと帰還せよ。そして、廷臣たちの支持をしっかり取り付けてから、王に即位するのだ」
兄の顔は大真面目で、冗談を言っている様子にはとても見えなかった。
「陛下、何を仰るのですか。それではまるで、シャシャーンカ王のところで殺されることが前提みたいじゃないですか」
「勿論、余とて死にたくはない。あくまでも最悪の場合の話だ」
それだけを言い残し、ラージャー王は随伴の者たちと共に、東のカルナ・スヴァルナへ向けて出発した。
実際のところ、指揮を任されたといっても、若輩者のハルシャにやることは特に無かった。
カナウジの東と北に軍を展開しているので、南門やジャムナ河方面の西門からならば出入りはできる。カナウジの住民を飢えさせるのは本望ではないので、食糧の搬入を阻止しているのではない。
南門や西門からカナウジを出て行く者があったとしても、取り締まることなく素通りだ。もし、カナウジに駐在しているシャシャーンカ王の軍勢が密かに逃げ出したとしても、それはハルシャたちにとっては悪い話ではない。
ただし、大量の援軍や武器などが外部から城内へと持ち込まれるのは困るので、中身の分からない怪しい大きな荷車などは、荷物検査を行うことになっている。
無論、北と東を包囲している軍勢が奇襲攻撃を受けては困るので、周辺に対して斥候を派遣して、カナウジ城内に籠もっているカルナ・スヴァルナ軍の動きにも常に注意を払っている。軍の基本的な行動指針は和平会談に向かう出発前にラージャー王から指示されていたものなので、兵士たちは総大将が一時的に不在でも、その指示を護りながら帰還を待つのみであった。
問題は、ラージャシュリー救出作戦をどうするか、だ。ラージャシュリーが幽閉されて人質に取られたままだと、ラージャー王の交渉も不利に働くだろう。
だが、だからといって今、救出作戦を強行するのはいかがなものか。今からラージャシュリーを救出したとしても、交渉の席にその事実が伝わっていない限りは、影響は無いということだ。
それに、和平会談が上首尾に纏まって、カナウジ解放となると、恐らくラージャシュリーも虜囚の身から解放されるはずだ。そのための和平会談なのだ。わざわざ今の段階でハルシャが危険を冒して救出作戦を遂行する意味はあるまい。
つまり状況が変わったのだ。
ハルシャは本陣に設えられた椅子にどっかりと腰を下ろした。拙速な行動は控えなければならないことは重々承知している。しかし、それでもラージャシュリーのことは心配で、その気持ちは止められない。
ラージャー新王とシャシャーンカ王の交渉が決裂したら、改めて救出作戦が必要になってしまう。それに会談の結果が判明するまで、ラージャシュリーは幽閉という状況を長く経験することになってしまう。せっかく助けに来た、という連絡だけはついたのに、こちらの都合で待たせてしまうのは申し訳ない。
一〇〇〇〇の軍隊の総大将代理に任命されたとはいえ、ハルシャは居ても立ってもいられなかった。自分の活躍で囚われの仲間を救出する。そういう状況に憧れるハルシャくらいの年齢の少年にありがちの気持ちがある。
夜になった。星空である。北の空には、低い位置に明るい七つ星も見える。
カナウジの街も、スタネーシュヴァラ軍も静かに寝静まっている。無論、交代で夜警についている者は耳目を凝らして周囲を警戒している。
そんな中を、ハルシャはこっそり抜け出して、一人で南のヴィンドヤースの森へ向かった。今回はサムヴァダカも連れて行かない。
ラージャシュリー救出のための行動は起こせないけれども、気になるのは気になる。ラージャシュリーの幽閉されている南東隅の塔の様子だけでも、自らの目で確かめに行きたかった。
小さな松明だけを持って暗い森を進む。既に一度来たことのある道なので、幸い少しは慣れていた。
細い獣道を進んで行くと、突如、一頭の獣が黒い影となって道を塞いで立ちはだかった。
「な、なんだ、象か。子どもの象だな」
身長はハルシャとほぼ同等くらいだろう。象としてはまだまだ成獣よりも小さな子どもだ。
象の子どもは好奇心旺盛だ。何でも遊びたがる。夜中に子どもの象が寝ずに森を遊び歩いているというのは、にわかには信じられないが、人間にしても夜中に遊び歩く不良少年たちもいるのだから。
松明を近づけて象の様子を照らすと、額に引っ掻き傷らしきものがあることに気付いた。
鰐の馬蹄花。
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