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▼第8章 華燭の典

▼8-2 白フンの動向

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 ハルシャ王子の父親であるプラバーカラ王は、古都タネシュワールと近隣の複数の藩国を纏めて統王と呼ばれるようになった。それでもまだ、いにしえの大王たるアショーカ王やカニシカ王やグプタ朝の版図には遠く及ばない。プラバーカラ王も現状では満足せず更なる勢力拡大を目論んでいる。婚姻による強国との関係強化は、その野望の一端である。

 ハルシャ王子は俯いて、奥歯を強く噛み締めた。自分の間抜けさを呪うと同時に、心の中で嘲笑った。

 父は娘を嫁がせる計画についてハルシャには何も言わなかった。迂闊にハルシャに漏らしたりすると、そこから情報が漏洩して、婚姻を快く思わない国が妨害工作に出てくるかもしれない危険性があった。そんな事情は何一つ知らず、美しい妹姫と同じ宮殿内で同じ時間を過ごすことに甘くむず痒いような心境だった。いかにハルシャ王子が単なる甘えん坊の道化師であったことか。

「父に、父に一言、意見を申し上げてくる。本当にこれでいいのか、どうか」

「もう決まったことですから、それは無駄だと思いますが」

 走り出して速度に乗ったハルシャ王子の耳には、妹ラージャシュリーの言葉は遠く届かなかった。

 広い宮殿ではあるが、国王が居る場所は概ね限られている。ハルシャは真っ直ぐに執務室に向かって走ったが、そこには不在だった。転進して次に会議室に向かう。場所柄、当然ながら会議中だったのだが、第二王子という身分を振りかざして衛兵の制止を振り切って室内に踏み込んだ。

 会議室内にはプラバーカラ王の他に、法官、諸長官、軍事長官、財務長官の、四人の重臣が勢揃いしていた。議題はここ最近毎度のものであったが、北辺から領内へ侵入を繰り返している騎馬民族の白フン族にどう対処するべきかの方策であった。

「騒々しいなハルシャ。大事な会議を中断させるような重要な話なのか」

 プラバーカラ王は豊かな髭の奥で口を動かして低い声を発した。

 異民族による国境侵犯が国にとっての重要事項であるのは当然だ。だが、王族の婚姻もまた外交の関わる重要案件であることには間違いない。

「勿論、重要な用件です、父上。妹のラージャシュリーが、カーニャクブジャ国のグラハヴァルマン王へ嫁ぐというのは、本当のことですか」

「もうその話を聞いたのか。今晩にも正式発表するつもりだったのだがな」

 父王はラージャシュリーの結婚を否定しなかった。

「父上、正式発表がまだなら、まだ間に合いますよね。お考え直しください。狡猾な虎と呼ばれるようなグラハヴァルマン王は、ラージャシュリーの結婚相手として相応しくないではありませんか。最近聞いた噂では、カナウジでは、怪しい薬を売っている婆羅門がいるらしいですし、カナウジは危険なのでは」

 ハルシャの主張を聞いて、四人の重臣たちがお互いに顔を見合わせて怪訝そうな表情をした。

「噂は噂だ、ハルシャ。お主、グラハヴァルマン王がどのようなお人柄であるか、知っているのか。実際に会ったことがあるのか」

 ハルシャは黙った。当然ながらハルシャは妹の結婚相手とは会ったことも無いし人柄など知りようもなかった。

「ハルシャ殿下、お言葉ですが、狡猾な虎と呼ばれているのはカーニャクブジャ国のグラハヴァルマン王ではなく、カルナ・スヴァルナ国のシャシャーンカ王のことではありませんか。両者のことを混同していませんか」

 そう言ったのは第二席長官である諸長官だった。各所の実務省庁を統括する立場なので諸長官と称される。その言葉を聞いて、他の三人の長官たちは納得したような表情でうなずいていた。

 プラバーカラ王は顎鬚を右手で撫でながら、ゆったりした態度で改めて次男王子を見やった。

 ハルシャ王子は、妹のラージャシュリー姫の結婚の話を突然聞いて頭に血が昇り、勢いだけで父王に抗議しに来たのだ。理路整然と論破できる材料など、最初から存在していない。

「妹が結婚するのだぞ。それも考え得る限り最大の良縁だ。反対する理由など無かろう。むしろ喜べ。これで我がスタネーシュヴァラ国は、カーニャクブジャ国の潤沢な経済力と同盟できる。インド北部において事実上覇権を唱えることができるのだ」

 スタネーシュヴァラとは、タネシュワールの古称であり雅称でもある。そして現在では都城だけではなく周辺の支配地域まで含めた、点ではなく面としての国名でもある。

 父王の満足そうな表情を見て、ハルシャ王子は悟った。やはり父は国を大きくすることだけを考えていて、そのための駒とされるラージャシュリー本人の気持ちや幸せを考えてはいないはずだ。大人の汚さを垣間見た気がした。

 確かに父の夢見る覇道は魅力的ではある。ガンジス河上流域のタネシュワールと、ガンジス河中流域の豊かなカナウジが合同すれば、単純に国土の大きさが二倍になり、国力も二倍になるということだ。周辺の諸藩王では全く太刀打ちできない大勢力となるのだ。

「し、しかし父上。こういうふうに上から上へと枝葉を伸ばしている時こそ、足元の根をしっかり固める必要があるのではないでしょうか。聞くところによると、例の白フン族が活発に動いているというではありませんか。そちらはどう対処されるおつもりで」

 王は余裕の表情を崩さない。四人の長官も、幼い子どもを見守るかのような穏やかな目つきでハルシャ王子の一挙一動を眺めていた。

「だから今、我々が集まってそれを議論していたところだ。無論、概要は既に固めてある。白フン族には先の遠征で強烈な一撃を与えた。白フンとの通商交渉を行うための使節団を派遣して、相手と本格的な話し合いを持つことになった。むしろ弱体化した相手側の方が我々との和平を望んでいる。正使としてラージャーを任命する予定だ」

 近隣の幾つかの藩侯勢力を併合して統王と呼ばれるようになったプラバーカラ王は端的に優秀であった。領土拡張を狙うだけではなく、地盤を固めるための方策も手を打っている。帝王学を学んでいる途中の十四歳の少年王子が論破できるような相手ではなかった。

 だが、わざわざ会議中に踏み込んで白フン族対策まで言及してしまったからには、ハルシャ王子としてもただそれだけで引くわけにはいかなかった。

「な、ならば、自分も、その使節団の副団長にでも、お、俺を、任命してください」

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