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▼第1章 第二王子の夢
▼1-2 逆三角形の大地
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「ハルシャ王子、午後からはジャヤセーナ論師による地理の講義がありますので、忘れずに受講なさいますように」
午後の講義が始まるまでは自由の身となった。ハルシャ王子はふうっと息をついて曇り空を見上げる。先ほど弱まっていた雨がまた強まり始めていた。吹く風には暑季とは違って涼しさと心地良さが含まれている。忙しい王子の束の間の休息時間を癒しで満たしてくれた。
ジャヤセーナ論師は、父王が杖林山から連れてきた賢者で、年齢は二十歳から三十歳の間のようだが正確なところは不詳、という謎めいた人物だった。だがその博覧強記ぶりは本物で、ラージャーとハルシャは地理だけではなく、天文、医学、数学、四ヴェーダの講義も、ジャヤセーナ論師から習っている。
ハルシャ王子は、ジャヤセーナ論師の座学はあまり好きではなかった。が、大事な学問であることは承知しているので、講義自体はきちんと受けている。
宮殿内の学習室は、雨季であるがゆえに蒸し暑さを感じるものだった。
室内に充満する湿気とは裏腹に、ジャヤセーナ論師の声は乾いた感じでしわがれていた。まるで老人の声のようであった。
「おさらいですが、インドというのは、尖った先端を南に向けた三角形をしている広大な地域です」
そう言ってジャヤセーナ論師は両手の親指と人差し指を使って▽の形を作ってみせた。
「この大地に、無数の民族が犇めき合っています。古代の一説によれば、百十八の種族が居るとも言われています」
声が老人くさいだけではなく、ジャヤセーナ論師の外見もまた特徴的だった。白髭の交じった灰色の長い顎髭をたくわえており、実年齢以上に老練に見えた。賢者としての権威づけには良いのかもしれない。喋り方や口調もどこか時代がかっていた。
「大雑把に分ければ南インドと北インド。そこに、正確な数は不詳ですが多くの民族がいて、それぞれ使う言葉も違っていれば、文化的な背景も異なっています。それでもインドはインドなのです。あなたたちの父君がインドの統一を目指しているのも、そうすることによって異なる民族同士でも通商や交流が盛んになってより繁栄と平和と共存を享受できると考えているからです。古代マウルヤ王朝のアショーカ王やクシャーナ王朝のカニシカ王の時代や、グプタ王朝の時代を範としているのは、強大な王の君臨していた王朝では、盗賊なども減って、人々が安寧を得ていたからです」
ハルシャ王子にとってはインド内部の地理のおさらいは退屈でしかなかった。インドの外にも世界があり、多くの人々が生きている。そういう辺りをこそ、新たに学びたかった。例えば、遥か東方へ向かうと摩訶震旦 (マハーチーナ) という大きな国があるらしい。未知の国では人々はどんな物を食べてどんな音楽を奏でてどんな宗教を奉じて生活しているのだろうか。
どうしても、自分の居場所がここであることに違和感が拭えない。たまたまこの地に生まれただけであるのに、この地に縛られて土地の風習や旧弊に従わされている。ここではないどこかへ行きたい。ここではないどこかならば、本当のあるべき姿の自分を見つけられるかもしれないという、十四歳の少年が抱きがちな願望であった。
普段自分が耳にする自国の文化の中にある音楽ではなく、別の国や文化圏の音楽に憧れるのもまた、自意識をこじらせた十四歳の少年にありがちなことであるのだが、当然自分では気づかない。自分の行動や嗜好が人並みだとは思わない。人とは違って特別なのだ、と思う、思いたい。他人の好む音楽とは違う音楽が好きな俺って恰好いい、と思いたいのだ。
西暦604年というこの時代、日本では後世聖徳太子と呼ばれるようになる皇子が推古天皇を補佐して活躍していた。中国では隋王朝の時代であり、初代皇帝の文帝のもとで仏教が栄えたが、その中で末法思想が盛んだった。フランスではメロヴィング朝の時代で、アラブではムハンマドがイスラム教を創始する少し前ということになる。
「ジャヤセーナ論師、疑問なのですが、インドは南が尖っている三角形とのことですが、陸地の向こうはどうなっているのでしょうか?」
質問を発したのは、ハルシャ王子の左隣に座っているラージャー王子だった。
「三角形の大地の向こうは、海という名の塩辛い巨大な水溜まりがあります」
ハルシャが生まれ育ったタネシュワールの地は、叙事詩マハーバーラタの中で百人の王子の一族と五人の王子の一族が戦ったとされる古戦場とされる場所だ。なので、福地たるタネの古戦場、とも呼ばれる。カシミールの西の内陸にある。ハルシャは生まれてから海というものを見たことは無かった。
「海なら聞いたことはあります。その海というのは、無限に続くものなのでしょうか。海の更に向こうはどうなっているのでしょうか?」
「海の向こうには、波斯国であるとか、他にも数多の国があるようです。摩訶震旦にも海から行くことができます。神話では、八方位はそれぞれ方象と呼ばれる八頭の象によって守護されている、というのはラージャー王子もハルシャ王子もご存知だろうと思います。遠方については正直に言って分からないことだらけです。この世界は巨大な球の形をしていて、その周囲は三三〇〇ヨーガナという長さだとも言われています。まずはラージャー王子が王になってから、群雄割拠のインドを平定して統一し、それから海の向こうにどのような国があるのか、あなた自身の手で解き明かしていただきたいです」
「僕が王になってからインド統一と仰いますが、父上は順調に統一事業を進めておられるのですよね?」
それはハルシャもまた同じ思いを抱いていた。が、それ以前に疑問があり、質問を兄にぶつける。
「そもそもこれは初級の講義なのに、どうしてラージャー兄上が受講しているのですか」
午後の講義が始まるまでは自由の身となった。ハルシャ王子はふうっと息をついて曇り空を見上げる。先ほど弱まっていた雨がまた強まり始めていた。吹く風には暑季とは違って涼しさと心地良さが含まれている。忙しい王子の束の間の休息時間を癒しで満たしてくれた。
ジャヤセーナ論師は、父王が杖林山から連れてきた賢者で、年齢は二十歳から三十歳の間のようだが正確なところは不詳、という謎めいた人物だった。だがその博覧強記ぶりは本物で、ラージャーとハルシャは地理だけではなく、天文、医学、数学、四ヴェーダの講義も、ジャヤセーナ論師から習っている。
ハルシャ王子は、ジャヤセーナ論師の座学はあまり好きではなかった。が、大事な学問であることは承知しているので、講義自体はきちんと受けている。
宮殿内の学習室は、雨季であるがゆえに蒸し暑さを感じるものだった。
室内に充満する湿気とは裏腹に、ジャヤセーナ論師の声は乾いた感じでしわがれていた。まるで老人の声のようであった。
「おさらいですが、インドというのは、尖った先端を南に向けた三角形をしている広大な地域です」
そう言ってジャヤセーナ論師は両手の親指と人差し指を使って▽の形を作ってみせた。
「この大地に、無数の民族が犇めき合っています。古代の一説によれば、百十八の種族が居るとも言われています」
声が老人くさいだけではなく、ジャヤセーナ論師の外見もまた特徴的だった。白髭の交じった灰色の長い顎髭をたくわえており、実年齢以上に老練に見えた。賢者としての権威づけには良いのかもしれない。喋り方や口調もどこか時代がかっていた。
「大雑把に分ければ南インドと北インド。そこに、正確な数は不詳ですが多くの民族がいて、それぞれ使う言葉も違っていれば、文化的な背景も異なっています。それでもインドはインドなのです。あなたたちの父君がインドの統一を目指しているのも、そうすることによって異なる民族同士でも通商や交流が盛んになってより繁栄と平和と共存を享受できると考えているからです。古代マウルヤ王朝のアショーカ王やクシャーナ王朝のカニシカ王の時代や、グプタ王朝の時代を範としているのは、強大な王の君臨していた王朝では、盗賊なども減って、人々が安寧を得ていたからです」
ハルシャ王子にとってはインド内部の地理のおさらいは退屈でしかなかった。インドの外にも世界があり、多くの人々が生きている。そういう辺りをこそ、新たに学びたかった。例えば、遥か東方へ向かうと摩訶震旦 (マハーチーナ) という大きな国があるらしい。未知の国では人々はどんな物を食べてどんな音楽を奏でてどんな宗教を奉じて生活しているのだろうか。
どうしても、自分の居場所がここであることに違和感が拭えない。たまたまこの地に生まれただけであるのに、この地に縛られて土地の風習や旧弊に従わされている。ここではないどこかへ行きたい。ここではないどこかならば、本当のあるべき姿の自分を見つけられるかもしれないという、十四歳の少年が抱きがちな願望であった。
普段自分が耳にする自国の文化の中にある音楽ではなく、別の国や文化圏の音楽に憧れるのもまた、自意識をこじらせた十四歳の少年にありがちなことであるのだが、当然自分では気づかない。自分の行動や嗜好が人並みだとは思わない。人とは違って特別なのだ、と思う、思いたい。他人の好む音楽とは違う音楽が好きな俺って恰好いい、と思いたいのだ。
西暦604年というこの時代、日本では後世聖徳太子と呼ばれるようになる皇子が推古天皇を補佐して活躍していた。中国では隋王朝の時代であり、初代皇帝の文帝のもとで仏教が栄えたが、その中で末法思想が盛んだった。フランスではメロヴィング朝の時代で、アラブではムハンマドがイスラム教を創始する少し前ということになる。
「ジャヤセーナ論師、疑問なのですが、インドは南が尖っている三角形とのことですが、陸地の向こうはどうなっているのでしょうか?」
質問を発したのは、ハルシャ王子の左隣に座っているラージャー王子だった。
「三角形の大地の向こうは、海という名の塩辛い巨大な水溜まりがあります」
ハルシャが生まれ育ったタネシュワールの地は、叙事詩マハーバーラタの中で百人の王子の一族と五人の王子の一族が戦ったとされる古戦場とされる場所だ。なので、福地たるタネの古戦場、とも呼ばれる。カシミールの西の内陸にある。ハルシャは生まれてから海というものを見たことは無かった。
「海なら聞いたことはあります。その海というのは、無限に続くものなのでしょうか。海の更に向こうはどうなっているのでしょうか?」
「海の向こうには、波斯国であるとか、他にも数多の国があるようです。摩訶震旦にも海から行くことができます。神話では、八方位はそれぞれ方象と呼ばれる八頭の象によって守護されている、というのはラージャー王子もハルシャ王子もご存知だろうと思います。遠方については正直に言って分からないことだらけです。この世界は巨大な球の形をしていて、その周囲は三三〇〇ヨーガナという長さだとも言われています。まずはラージャー王子が王になってから、群雄割拠のインドを平定して統一し、それから海の向こうにどのような国があるのか、あなた自身の手で解き明かしていただきたいです」
「僕が王になってからインド統一と仰いますが、父上は順調に統一事業を進めておられるのですよね?」
それはハルシャもまた同じ思いを抱いていた。が、それ以前に疑問があり、質問を兄にぶつける。
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