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短編
月夜の猫屋 活動日記3
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それは、酷く綺麗な光景だった。
そろそろ夏めいてきた日差しが部屋に差し込み、一組の母子を照らし出す。散らかって、汚れている部屋や家具だが、それさえもが、配置された小道具かのようで。
ロクダイは、知らずに息を呑んでいた。呼吸さえ、躊躇ってしまう。
「――寝ちゃった」
ゆるくウェーブのかかった髪を揺らし、その女は振り向いた。
まだ若く、同級生には、本業であるはずの学業そっちのけで遊び歩いている者も多いだろう。実際、彼女もそうなるはずだった。いや、少し前までは、そうだった。
今も、小汚いとさえ言える部屋の中で、ちゃんと化粧をしているのがわかる。今の格好で出掛けても、子どもがいるとは思われないだろう。
名残惜しそうに、子どもを布団に寝かせる。
「悪いけど、もう少しいい? 電話かけたいんだけど」
「ああ。かまわんよ」
「ありがと」
静かに、緊張したように、受話器を取る。番号を慣れた手つきで押すと、強く、受話器を握り締めた。呼び出し音が鳴り、そうかからずに相手が出る。
『もしもし、香山です』
「-――お母さん?」
『…利佳子……』
一瞬、息を止める。それは、傍で見ているロクダイにもわかった。
いたずらを告白しようか迷っている、でも告白しなければならないと覚悟している子どもかのようだった。
――こんなにも、幼いものなのか。
成人式を迎えたからといって、飛躍的に成長するわけではない。「大人」と言われたからといって、中身もそうなるとは限らない。
昔を重ねているのかいないのか、判然としないまま、ロクダイは考えた。
「――うん。今度…帰るから。――うん。ごめん、よろしくね。――ごめんね」
受話器を置くと、利佳子は、ロクダイを見て微笑した。どこか、淋しそうに。
「お母さんと、話すの久しぶりなの。家出同然だったし。でも、この子一人でおいとけないし」
利佳子は、ロクダイから眼を背けるようにして、子どもを見遣った。まだ小さな、人形かと思うような指が、かぶせた布団からのぞいている。
「子どもなんていらないと思ってた。でも、それでシュージとずっといられるなら良いかな、って思ったの。それなのに、やっぱり邪魔だし、シュージだってろくに帰ってこなくなっちゃうし。どっか行っちゃえば良いのに、って思ったの。この子がいなくなれば、あたしはまた自由になれる、って」
唇を強く噛む。だが、どうしても声が揺れる。ヤダ、みっともないな、と小さく呟いた。
「ひどいことしちゃった。…何もいいこと、しなかったし、あんたがいなかったらって、何回も言った。…それで、置いて行っちゃうわけでしょ? ひどいよね。…ごめんね。ごめん…」
――それでも、今、ここに居るではないか。
そう思ったが、言いはしなかった。言うことが出来なかった、という方が正しいのかもしれない。それを言ってしまうと、自分も救い上げてしまう。
死にたくは無かったとはいえ、「勝手に」死んでしまって。想いが強くて残ったからといって、大切な人を置き去りにしてしまった事は確かなのだ。こうして居られることを、免罪符にしてはならない。
「お母さんにも。散々わがままいって、この子まで押しつけて」
ヤダ、あたしってろくでもないわ。
利佳子は、そう呟いて膝を抱えた。顔を伏せる。
「――忘れてくれないかな。こんな奴のことなんて」
「無理じゃよ」
「そう」
呟くように、応える。
例えば、彼女の母親がこの子を自分の子どもとして育てたとしても。すっかり「親子」の関係に慣れたとしても。この子が彼女の事を全く覚えていなくても。両親は、ふとした瞬間に思い出すのかもしれない。何かのきっかけで、この子は覚えてもいない彼女の事を知るのかもしれない。
何より、この赤ん坊がいること自体が、利佳子の存在を残す。
「全ての瞬間に、奇跡に等しい事が起こっておるらしい」
利佳子が、不思議そうにロクダイを見る。
「可能性だけは、全てにおいて無限大に存在しているから。そのうちの一つに決定されたということが既に、奇跡なんじゃと。どの奇跡を取り上げるかは、それぞれの意志じゃがな」
「…よくわからないわ」
「わしもじゃよ。ついでに言うと、奇跡は起こらないからこそ奇跡たり得るらしい」
「わけわかんない」
小さく笑う。
窓の外は、ゆっくりと暮れて行っていた。明るかった空が、徐々に暗くなっていく。
利佳子は、立ち上がると、まだ眠っている子どもを見た。あどけなく、安らかに。
ごめんね、ありがとう。あなたにあえた奇跡に、あたしは感謝してるよ。今更だけどね。
「死後にかかってきた電話だってわかったら、お母さんびっくりするわね」
そう言って、笑う。眠っている子どもではなくて、ロクダイを見て。
「ありがとう。迷惑かけちゃったわね」
「誰にも迷惑をかけぬ者などおらんよ。さて、行こうか」
夕暮れの部屋には、赤ん坊が一人、眠っていた。
そろそろ夏めいてきた日差しが部屋に差し込み、一組の母子を照らし出す。散らかって、汚れている部屋や家具だが、それさえもが、配置された小道具かのようで。
ロクダイは、知らずに息を呑んでいた。呼吸さえ、躊躇ってしまう。
「――寝ちゃった」
ゆるくウェーブのかかった髪を揺らし、その女は振り向いた。
まだ若く、同級生には、本業であるはずの学業そっちのけで遊び歩いている者も多いだろう。実際、彼女もそうなるはずだった。いや、少し前までは、そうだった。
今も、小汚いとさえ言える部屋の中で、ちゃんと化粧をしているのがわかる。今の格好で出掛けても、子どもがいるとは思われないだろう。
名残惜しそうに、子どもを布団に寝かせる。
「悪いけど、もう少しいい? 電話かけたいんだけど」
「ああ。かまわんよ」
「ありがと」
静かに、緊張したように、受話器を取る。番号を慣れた手つきで押すと、強く、受話器を握り締めた。呼び出し音が鳴り、そうかからずに相手が出る。
『もしもし、香山です』
「-――お母さん?」
『…利佳子……』
一瞬、息を止める。それは、傍で見ているロクダイにもわかった。
いたずらを告白しようか迷っている、でも告白しなければならないと覚悟している子どもかのようだった。
――こんなにも、幼いものなのか。
成人式を迎えたからといって、飛躍的に成長するわけではない。「大人」と言われたからといって、中身もそうなるとは限らない。
昔を重ねているのかいないのか、判然としないまま、ロクダイは考えた。
「――うん。今度…帰るから。――うん。ごめん、よろしくね。――ごめんね」
受話器を置くと、利佳子は、ロクダイを見て微笑した。どこか、淋しそうに。
「お母さんと、話すの久しぶりなの。家出同然だったし。でも、この子一人でおいとけないし」
利佳子は、ロクダイから眼を背けるようにして、子どもを見遣った。まだ小さな、人形かと思うような指が、かぶせた布団からのぞいている。
「子どもなんていらないと思ってた。でも、それでシュージとずっといられるなら良いかな、って思ったの。それなのに、やっぱり邪魔だし、シュージだってろくに帰ってこなくなっちゃうし。どっか行っちゃえば良いのに、って思ったの。この子がいなくなれば、あたしはまた自由になれる、って」
唇を強く噛む。だが、どうしても声が揺れる。ヤダ、みっともないな、と小さく呟いた。
「ひどいことしちゃった。…何もいいこと、しなかったし、あんたがいなかったらって、何回も言った。…それで、置いて行っちゃうわけでしょ? ひどいよね。…ごめんね。ごめん…」
――それでも、今、ここに居るではないか。
そう思ったが、言いはしなかった。言うことが出来なかった、という方が正しいのかもしれない。それを言ってしまうと、自分も救い上げてしまう。
死にたくは無かったとはいえ、「勝手に」死んでしまって。想いが強くて残ったからといって、大切な人を置き去りにしてしまった事は確かなのだ。こうして居られることを、免罪符にしてはならない。
「お母さんにも。散々わがままいって、この子まで押しつけて」
ヤダ、あたしってろくでもないわ。
利佳子は、そう呟いて膝を抱えた。顔を伏せる。
「――忘れてくれないかな。こんな奴のことなんて」
「無理じゃよ」
「そう」
呟くように、応える。
例えば、彼女の母親がこの子を自分の子どもとして育てたとしても。すっかり「親子」の関係に慣れたとしても。この子が彼女の事を全く覚えていなくても。両親は、ふとした瞬間に思い出すのかもしれない。何かのきっかけで、この子は覚えてもいない彼女の事を知るのかもしれない。
何より、この赤ん坊がいること自体が、利佳子の存在を残す。
「全ての瞬間に、奇跡に等しい事が起こっておるらしい」
利佳子が、不思議そうにロクダイを見る。
「可能性だけは、全てにおいて無限大に存在しているから。そのうちの一つに決定されたということが既に、奇跡なんじゃと。どの奇跡を取り上げるかは、それぞれの意志じゃがな」
「…よくわからないわ」
「わしもじゃよ。ついでに言うと、奇跡は起こらないからこそ奇跡たり得るらしい」
「わけわかんない」
小さく笑う。
窓の外は、ゆっくりと暮れて行っていた。明るかった空が、徐々に暗くなっていく。
利佳子は、立ち上がると、まだ眠っている子どもを見た。あどけなく、安らかに。
ごめんね、ありがとう。あなたにあえた奇跡に、あたしは感謝してるよ。今更だけどね。
「死後にかかってきた電話だってわかったら、お母さんびっくりするわね」
そう言って、笑う。眠っている子どもではなくて、ロクダイを見て。
「ありがとう。迷惑かけちゃったわね」
「誰にも迷惑をかけぬ者などおらんよ。さて、行こうか」
夕暮れの部屋には、赤ん坊が一人、眠っていた。
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