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衝動
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唐突に、グラタンが食べたくなった。
湯気を立てるホワイトソースに、焼き色のついたチーズの匂い。溶けるような玉ねぎに、肉厚のベーコン、柔らかなマカロニ。雪季の慣れ親しんだ味には、白菜もよく入っていた。
フランスパンかフォカッチャを添えて、あとはサラダでもあれば十分だ。
「雪季、帰るぞー」
「…ああ」
気付けば、二人が最後になっていた。何もなければ定時で帰る三浦や笹倉はともかく、帰るのを面倒がる葉月にさえ抜かれていた。四十万と中原は外での会談のあとは直帰予定だ。
「山本さんは?」
「帰るとき一応挨拶してたぞ。雪季も応えてた」
「…帰るか」
「珍しいな。何考えてたんだ?」
シャットダウン寸前のパソコンを覗き込まれるが、そもそもそこに何があるわけではない。少し前まで広げていたのも、笹倉に頼まれてまとめていた勤怠表のエクセルシートでしかない。
頭の中でざっと必要な材料を一覧表にして、チーズとベーコンを買い足した方がいいかなと考える。
マカロニも、さすがにあの家の乾物ストックの中にはなかった。日本では、グラタンかせいぜいサラダくらいにしか使い道が考えにくいせいだろうか。ミートソースやカレーが余った時に、スパゲッティよりも気軽に使えるからついでに買い置きしておこうか、とも考える。
そこまでいってから、まずいなグラタンを食べるつもりでいる、と、雪季はようやく自覚する。
何時間もかかるわけではないが、買い物もして、仕事を終えてから作って食べるには#__てまひま__#のかかる代物だ。明日も通常通りの仕事があるのに、あまり夜遅くにこってりとしたものを食べるのもどうだろうかと思う。
…が、とても、グラタンの気分だ。
「…今日夕飯、どうする」
「へ?」
いつものように英がハンドルを握り、雪季が助手席に収まって動き出す前に声をかけると、不思議そうに顔を見られた。走り出す前で良かった。
「どうするって?」
考えてみれば今まで、仕事がてらの食事でなければ当然のように家に帰って雪季が適当に食事を作っていた。何が食べたいかを訊くことも言われることもあったが、夕飯自体をどうするかといった会話はなかった気がする。思い返せば、二人きりの外食自体もなかった。
ひどく子どもっぽいことを言うようで気後れしながら、雪季は、無意味な衝動に押されて言葉を探す。
「…グラタンが食べたくて」
「うん?」
「帰ってから作ると時間がかかるから、食べて帰るのと、どっちがいいかと」
「えーと。グラタン食べるのは決定事項なんだな?」
「…ああ」
「雪季でもそんなこと言い出すんだな」
なんとなく顔を見られず視線を彷徨わせていたが、隣からこぼれた笑いが厭な感じのものではなくて、渋々視線を向ける。満面の笑みを見て、即座に後悔した。
「やっぱり、いい」
「なんで? 食べたいもの食べればいいだろ。…ところでグラタンって、家で作れるものなんだ?」
「…もともとフランスだったかの郷土料理だぞ」
「きょうどりょうり?」
「芋煮とか冷や汁みたいな。特殊なものもあるが、基本的には家庭で作られてきたものだ」
「へー」
何故こんな料理談義を。雪季とて、聞きかじった程度で詳しいわけでもないのだが。
頷きながら、英は車を発進させた。結論は出ていないはずなのだがと英を見ると、視線は前に向けたまま、気付いているのか笑みを形作る。
「作れるんだろ。それなら、わざわざ食べに行くこともない」
「…スーパーに寄ってくれ」
「ん」
店で食べた方が手軽で美味しいだろうとは思うが、料理手順まで思い浮かべてしまっていた雪季は、申し訳ないようなもやもやを抱えつつ、大人しく座席に体を預けた。
今回、雪季が食べたいのは店の美味しいものではなく食べ慣れた味だった。そこまで察したわけではないだろうが、結果として雪季の希望通りになっているのも、もやもやの一因だ。
近所のスーパーで手早く買い物を済ませた後で、パン粉も買えばよかったと気付いたがなくてもいいしフランスパンを摩り下ろしてもいいかと諦める。焼き色を付けるには、チーズだけよりもパン粉をまぶした方が見栄えがいい。
帰宅すると、手洗いうがいを経て、すぐにキッチンへと向かう。
「少し時間がかかるから、飲むつもりなら先に風呂入った方がいい」
何の返答もなく、移動する気配もなく、訝しく思って視線を向けると、英はダイニングに佇んで静かに雪季を見ていた。感情は読み取れず、役を忘れた舞台役者のようで、困惑する。
「河東?」
呼びかけると、のろりと眼が動く。それに一瞬びくりとしたが、すぐに、笑顔に呑み込まれる。
「雪季といるとたまに、あれ俺子どもだったかなって気分になるんだけど。雪季みたいなお母さんがいたらもっと幸せだったかな」
「…あまり、母親に例えられても嬉しくないんだが」
「えー。お父さんよりお母さんっぽいだろ雪季は」
笑い話のように終わらせるが、実際のところどれだけ本気で言ったのだろうと推し量りそうになる。
英の生育環境は、あまり恵まれたものだったとは言えないだろう。
今の英を形作っているのがどれだけ生来のものでどれだけそういった環境からのものなのかはわからないが、雪季が抱くような、戻りたいような懐かしみを覚えるものではないだろうとは思う。
それにしても。
今の言葉が幾分か本気なのであれば、雪季ばかりでなく英自身も自分の子どもっぽさを自覚しているということだろうか。それならもっと大人になってくれと思ってしまう。もう少し、周囲を気遣えるような大人になってくれないものか。
湯気を立てるホワイトソースに、焼き色のついたチーズの匂い。溶けるような玉ねぎに、肉厚のベーコン、柔らかなマカロニ。雪季の慣れ親しんだ味には、白菜もよく入っていた。
フランスパンかフォカッチャを添えて、あとはサラダでもあれば十分だ。
「雪季、帰るぞー」
「…ああ」
気付けば、二人が最後になっていた。何もなければ定時で帰る三浦や笹倉はともかく、帰るのを面倒がる葉月にさえ抜かれていた。四十万と中原は外での会談のあとは直帰予定だ。
「山本さんは?」
「帰るとき一応挨拶してたぞ。雪季も応えてた」
「…帰るか」
「珍しいな。何考えてたんだ?」
シャットダウン寸前のパソコンを覗き込まれるが、そもそもそこに何があるわけではない。少し前まで広げていたのも、笹倉に頼まれてまとめていた勤怠表のエクセルシートでしかない。
頭の中でざっと必要な材料を一覧表にして、チーズとベーコンを買い足した方がいいかなと考える。
マカロニも、さすがにあの家の乾物ストックの中にはなかった。日本では、グラタンかせいぜいサラダくらいにしか使い道が考えにくいせいだろうか。ミートソースやカレーが余った時に、スパゲッティよりも気軽に使えるからついでに買い置きしておこうか、とも考える。
そこまでいってから、まずいなグラタンを食べるつもりでいる、と、雪季はようやく自覚する。
何時間もかかるわけではないが、買い物もして、仕事を終えてから作って食べるには#__てまひま__#のかかる代物だ。明日も通常通りの仕事があるのに、あまり夜遅くにこってりとしたものを食べるのもどうだろうかと思う。
…が、とても、グラタンの気分だ。
「…今日夕飯、どうする」
「へ?」
いつものように英がハンドルを握り、雪季が助手席に収まって動き出す前に声をかけると、不思議そうに顔を見られた。走り出す前で良かった。
「どうするって?」
考えてみれば今まで、仕事がてらの食事でなければ当然のように家に帰って雪季が適当に食事を作っていた。何が食べたいかを訊くことも言われることもあったが、夕飯自体をどうするかといった会話はなかった気がする。思い返せば、二人きりの外食自体もなかった。
ひどく子どもっぽいことを言うようで気後れしながら、雪季は、無意味な衝動に押されて言葉を探す。
「…グラタンが食べたくて」
「うん?」
「帰ってから作ると時間がかかるから、食べて帰るのと、どっちがいいかと」
「えーと。グラタン食べるのは決定事項なんだな?」
「…ああ」
「雪季でもそんなこと言い出すんだな」
なんとなく顔を見られず視線を彷徨わせていたが、隣からこぼれた笑いが厭な感じのものではなくて、渋々視線を向ける。満面の笑みを見て、即座に後悔した。
「やっぱり、いい」
「なんで? 食べたいもの食べればいいだろ。…ところでグラタンって、家で作れるものなんだ?」
「…もともとフランスだったかの郷土料理だぞ」
「きょうどりょうり?」
「芋煮とか冷や汁みたいな。特殊なものもあるが、基本的には家庭で作られてきたものだ」
「へー」
何故こんな料理談義を。雪季とて、聞きかじった程度で詳しいわけでもないのだが。
頷きながら、英は車を発進させた。結論は出ていないはずなのだがと英を見ると、視線は前に向けたまま、気付いているのか笑みを形作る。
「作れるんだろ。それなら、わざわざ食べに行くこともない」
「…スーパーに寄ってくれ」
「ん」
店で食べた方が手軽で美味しいだろうとは思うが、料理手順まで思い浮かべてしまっていた雪季は、申し訳ないようなもやもやを抱えつつ、大人しく座席に体を預けた。
今回、雪季が食べたいのは店の美味しいものではなく食べ慣れた味だった。そこまで察したわけではないだろうが、結果として雪季の希望通りになっているのも、もやもやの一因だ。
近所のスーパーで手早く買い物を済ませた後で、パン粉も買えばよかったと気付いたがなくてもいいしフランスパンを摩り下ろしてもいいかと諦める。焼き色を付けるには、チーズだけよりもパン粉をまぶした方が見栄えがいい。
帰宅すると、手洗いうがいを経て、すぐにキッチンへと向かう。
「少し時間がかかるから、飲むつもりなら先に風呂入った方がいい」
何の返答もなく、移動する気配もなく、訝しく思って視線を向けると、英はダイニングに佇んで静かに雪季を見ていた。感情は読み取れず、役を忘れた舞台役者のようで、困惑する。
「河東?」
呼びかけると、のろりと眼が動く。それに一瞬びくりとしたが、すぐに、笑顔に呑み込まれる。
「雪季といるとたまに、あれ俺子どもだったかなって気分になるんだけど。雪季みたいなお母さんがいたらもっと幸せだったかな」
「…あまり、母親に例えられても嬉しくないんだが」
「えー。お父さんよりお母さんっぽいだろ雪季は」
笑い話のように終わらせるが、実際のところどれだけ本気で言ったのだろうと推し量りそうになる。
英の生育環境は、あまり恵まれたものだったとは言えないだろう。
今の英を形作っているのがどれだけ生来のものでどれだけそういった環境からのものなのかはわからないが、雪季が抱くような、戻りたいような懐かしみを覚えるものではないだろうとは思う。
それにしても。
今の言葉が幾分か本気なのであれば、雪季ばかりでなく英自身も自分の子どもっぽさを自覚しているということだろうか。それならもっと大人になってくれと思ってしまう。もう少し、周囲を気遣えるような大人になってくれないものか。
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