回りくどい帰結

来条恵夢

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風邪

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 帰宅して、アキラが大人しくいることに安堵した。が、それだけで判断するのは少し甘かった。

「おかえりー。雪季セッキのおじさんと会うの、日にち変更したから」
「…電話するなって」
「電話はしてない。葉月ハヅキにオリジナルのメッセージアプリ作ってもらった。携帯電話の会話なんて、やろうと思ったら傍受し放題だからさ」

 ソファーに寝そべってひらひらと手を振る英に、げんなりとする。また葉月を便利に使って。そして知らぬ間に師との直通ラインを手にしてしまっている。勘弁してほしい。
 その前に、どうやったら電話もしてないのにそのオリジナルアプリでの最初のコンタクトを取れたのか。
 突っ込みどころと訊きたいこととが多すぎて、何かもういちいち面倒くさい。

「何食べる」
「コロッケ」
「明日」
「えー」

 現実逃避とわかりながら、夕飯の支度にとりかかる。のところで、というよりは警察で、時間を取られたので結局いつもとそう変わりない時間の帰宅になってしまった。
 買い物はしていないのであるものを使うしかないが、消化の良さそうなものは何ができただろうと記憶をひっくり返す。栄養学やそういったものをちゃんとやったわけではないし雪季自身は胃を傷めたこともないので、あまり良くはわからないのだが。

「…豆腐があったな」

 そろそろ温かくなってきている時期ではあるが、今夜はまだ少し冷えるし、あんかけ湯豆腐にしようと決める。あとは、先日鶏肉で作った塩ハムがあったはずだから、適当に割いて棒棒鶏風のサラダにするか。
 手順を思い浮かべながら、炊飯器を確認して材料をそろえていく。大根のきんぴらが残っていたので、それも出しておく。

河東カトウ。昼は食べたのか」

 食べた様子のない白米に顔をしかめつつ、手は止めない。
 もう十分に大人なのだから一食抜こうが処方された薬を飲み残そうが放置しておきたいところだが、そういった不摂生であおりを喰らうのは雪季自身や他の社員たちだったりするので、つい口うるさくなる。
 言ったところで聞きはしないのが悩みの種だ。

「食べた」
「何を」
「…冷蔵庫のゼリー?」

 それは食事だろうか。食事をするのがつらいならともかく、もう普通に食べられるだろうに。
 湯豆腐用に小鍋を二つ火にかけて、時間短縮に麺つゆをメインに調味料を投入する。火の通りと出汁だしみ込みをよくするために人参にんじんと大根をレンジにかけて、少し迷ったが、サラダにも少し豆腐を投入する。
 の提案は、英に話すつもりはなかった。
 迂闊うかつに口にすれば余計にうるさくなるだけだろうし、どれだけ実現性があるのかはわからないが、この生活が終わった後の選択肢の一つに加えられればありがたい。
 今の生活と比べて選ぶつもりはないが、終わった後であれば話は別だ。もっとも、やはり役者不足だろうとは思うしいつまで有効かもわからないが。

 そこでふと、思い至った。何がどこでどうつながったのかはよくわからないが、妙な確信とともに。

 今の状況はまるで、ゲーテの『ファウスト』のようだ。
 たった一言、ファウスト博士が「時よ止まれ、お前は美しい」と言いさえすればすべてが終わる、言わなければ延々と続く、奇妙な旅路。雪季の役回りが人を唆す悪魔というところに納得はいかないが、妙な符合もあったものだ。
 いや、逆で、雪季が英を友人と呼ぶことがファウスト博士の言葉になるのだろうか。
 それならいっそと一瞬考えたが、それでただ終わるならまだいいが、この妙な執着がより強くなったり、「友人」はクリアしたとでもなって別の関係を求められても困る。
 ほんの半年前までこの状況を想像できなかったように、そうなったときに、いなし続けることが果たしてできるのか。
 気付いたところで、どうしようもなかったなと雪季は溜息をついた。

「雪季、李に言われたことで何か悩んでるのか?」
「…え?」
眉間みけんにしわ」

 ご飯と大根のきんぴら、それぞれ一人分を持った山盛りのサラダをテーブルに置いたところで、指摘されてつい眉間に触れてしまう。引き返して、くつくつと煮える小鍋の火力を落として、水でいた片栗粉かたくりこを入れる。
 豆腐と大根、人参の他に消費期限が迫っていたがんもどきも放り込み、くずきりと白菜をとうじた小鍋は、湯豆腐というよりも普通に鍋料理になってしまった気がする。

「別に関係ない」
「――ってことはやっぱり、何か言われたんだ?」
「世間話しかしてない」
四十万シジマから話は聞いた。どうせその後、しばらく二人きりだったんだろ? あの爺さんが何も言わないことはないと思うけど?」

 鍋敷きを置いて、小鍋を着地させる。蓋を乗せたままだが、火から下ろしたばかりなので煮えた心地良い音がする。

「俺なんて見捨てた方がいいとか、言われた?」
「断った。今の生活にそれほど不満はない」
「へえ?」

 口元だけがみ、眼はじっと雪季を観察する。雪季は肩をすくめ、椅子に座った。
 箸を手に取って両手を合わせ、鍋の蓋を取る。湯気とともにふわりと出汁の香りが広がった。最後に、溶き卵を入れて汁物として食べてもいいかもしれないなと考える。

「…嘘じゃないだろうな」

 小学生の仲良さ比べのような鬱陶しさに、溜息すらこぼれない。
 放って置こうかと思ったが、一向に視線がやわらがないので、雪季の方が根負けした。子どもと地頭じとうには勝てない、という言葉があったなと思い出す。

「お前との話の方が先だろ。大きな不満もないのに、それを反故ほごにして李さんに雇われる理由がない」
「…結局、雪季にとって俺は雇用主なのかー」
「今更だな」
「そうだった」

 感情の抜け落ちた声に、友人と思っていなくはないとげればどうなるだろうと思いはしたが、先ほどの懸念が残ったままなのでやめておく。
「冷めるぞ」
「…酒呑んでいい? 熱燗とか」
「やめとけ。悪酔いするか、下手したら吐くんじゃないか」

 そもそもこの二、三日ばかり、あまりまともに食べていないのに無謀としか思えない。それでも立ち上がりかけた英に、深く考えたわけではない言葉が口を突いて出た。

「今日明日しっかり食事をして、明後日の昼にコロッケを揚げるからビールでも飲んだらどうだ」

 ぴたりと、英の動きが止まった。

「…明日って言ったのに」
「酒も一緒に飲むならもう少し延ばした方が良くないか。どうせすることもないなら、昼に呑んでもいいだろ」
「雪季も一緒に?」
「…それは、まあ」
「わかった」

 座り直し、ようやく鍋の蓋を取った英に、雪季は小さく天をあおいだ。どこがどうお気に召したのか、よくわからない。
 ただ、たまにはいいかとも思う。
 明後日の夕方や夜に酔いつぶれても、出勤まで丸一日あるのでそれほど問題はないだろう。英がみ上がりなのは気になるし雪季がウイルスに感染していない保証はないが、もう、それはそれでいい。
 朝から料理の準備をして、昼にコロッケと、カツも揚げようか。パンやレタス、薄焼き卵でも用意して、サンドイッチをメインにだらだら呑もうかとふと思う。クラッカーや、簡単につまめるお菓子も用意してもいいかもしれない。
 完全に飲み会プランだが、それも悪くないと思う自分に、雪季は呆れる。
 結局、と、思う。「ファウスト」のファウスト博士もメフィストフェレスも、あの旅を楽しんでいたのではないだろうか。

「雪季、このサラダ美味しい」
「…そうか」

 つられるようにサラダに箸をのばしながら、雪季は、ぼんやりと考えていた。
 それでも、学者と悪魔の旅は終わりを迎えた。同じように、いつかは。
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