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年越
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ガラスの外は、すっかり闇に沈んでいた。比べて内側は、燦々と光輝いて着飾った人々を照らし出している。
雪季は、暖房とさんざめく人たちにあてられたのか、少しばかり頭がぼうっとしていた。炭酸水のグラスを取ったつもりでシャンパンを手にしていて、つい溜息をこぼす。
「雪季。疲れたか?」
「ああ…すみません、少し」
「もう秘書はいいから。部屋取ってるから、先に戻るか?」
船上のカウントダウンパーティーで、部屋まで押さえているとなると一体いくら払ったのだろう。考えるだけ馬鹿らしくなる気がして、頭から振り払う。
一応は仕事絡みということでスーツで行こうとした雪季は、もうちょっと遊び心を出そうと英に連れられ、ジャケットをはじめ一揃い買わされた。
以前であれば、絶対に手を出さなかった価格帯だった。
雪季にとって服は悪目立ちしなければ十分なのだが、普段雪季が選ぶような服を着ていれば悪目立ちするようなのがこの場所だ。きらびやかすぎて眩暈がする。
「…社長は?」
「だからもういいって。雪季、俺が気付くくらいだから結構表に出てるぞ」
「いえ…熱がこもっていてのぼせただけかと。少し、風に当たって来ます」
「大丈夫か?」
「すみません」
睨まれるが、振り払うように背を向ける。クロークでコートを受け取っていると、ついて来たらしい英までコートを受け取っている。
「どうしてついて来るんですか」
「護衛が離れるなよ」
真っ当な口実を口にされ、言い返せない。
扉を開けて甲板に出ると、他にも人がいないわけではなかった。
雪季たちのように上着を羽織っているものも、いないものもいる。年末の船上でパーティードレス一枚の女性など、正気の沙汰とは思えないが、酒も入っているし浮かれてもいるのだろう。
船は、年明けを海上で過ごし、港に戻る。パーティー会場として開放されているラウンジは明け方まで開かれているし、もちろん船を降りてもいい。客室にも泊まれる。
豪奢なイベントだ、と雪季は思うが、この程度は鼻で笑われるようなものも、世界にはまだまだあるのだろう。
潮風を吸い込むと、吐く息は面白いほどに真っ白だった。肺が冷えて、咽喉が冷たくなる。
不意に暖かなものを押し付けられ、何かと見れば厚手の陶器に入ったホットワインだった。いつの間にか、英が調達していたようだ。
「もういいだろ、仕事は終わり。秘書も終わりな」
「…結局あまり仕事をしてない」
船上の会話には、日本語以外も混じっている。
英は器用にいくつかの言葉を使い分けるが、雪季は高校以来の英語の勉強を始めてはいるものの、まだまだ聞き取りもおぼつかない。英が知人や初対面の人と快活に話す傍らで、ただ控えているしかなかった。
それならやはり、仕事用のスーツの方が言い訳になったと思うのだが、それも野暮なのだろうか。
そんなことを考えていたら、英に呆れた眼差しを向けられていた。
「…なんだ」
「真面目」
ふっと笑って、真っ黒な海に視線を向ける。
言い返せず、雪季はホットワインを口にした。甘やかな香りと、あたたかさが嬉しい。アルコールは大分とんでいるようだが、今は、下手に酔うわけにもいかないので助かる。
「もっと、役得って遊べばいいのに。そりゃあ秘書にって誘ったのは俺だけど、本当に秘書の仕事をしてくれるとは思わなかった」
「…どっちも、中途半端にしかできてない」
「雪季が弱音を吐くなんて」
そんなに自信家に見えるだろうかと顔を上げると、何故か、英は嬉しげに笑みをこぼしていた。いつも張り付けているへらへらとした笑いとは少し違うように思えて、首を傾げる。
目が合うと、にっこりと、これはモデルのように完璧で嘘くさい笑みを浮かべる。
「俺も、少しは信用されたのかな、と思って」
「事実を言ったまでだ」
「雪季は自分に厳しい。もう少しくらい甘やかしてやっても罰は当たらないと思うけど」
「甘えたら即脱落するような仕事だったからな。今なら、被害を受けるのは半々でお前だ」
「あー…それは厭かも」
言いながらも、くすくすと笑っている。何が楽しいのか、雪季にはさっぱりわからない。冗談ではなく、賭け金になっているのが己の命とわかっていないわけでもないだろうに、やっぱり変な奴だと思う。
不意に、妙な動きが視界の隅をよぎった。
二人からは少し離れた、甲板の十数人ほどが集まったあたり。そこから少し距離を置いたところに、一人の男がいる。小刻みに震えるような動きが、寒さからのものではないように思える。
「河東」
「なに?」
「妙なのがいる。…どうする」
英越しに見えた男から視線を外さず、英が振り返って気付かれないように軽く腕を押さえて牽制する。
殺気めいたものはあまり感じないが、どうにも様子がおかしい。ただの重度の酔っぱらいか、ドラッグでもやっているのか。あるいは、何かしらの病気なのかもしれない。痙攣を引き起こすものは多い。
見かけは四十前後といったところだが、年齢の問題ではなかったりもする。
「どう、って?」
「この場を離れるか、取り押さえるか。どちらにしても、スタッフに報せた方がいいが」
ただ護衛としてなら、離れた方がいい。そもそもただの雪季の勘違いということもある。それでも意向を聞くのは、よほどの場合でなければこの男を思った通りに動かすのは難しいと思うからだ。
英の返事よりも、悲鳴の方が早かった。
「遅かったみたいだな」
はじめは戸惑ったような声だったが、男が割った酒瓶を振り回すに及んで、混じり気なしの悲鳴に変わった。
人が少ないのがまだしもの救いで、これが室内の方であれば、逃げ惑う人で迂闊に身動きも取れなかったかも知れない。
それでも出入り口の近くにいた二人の方に人が逃げて来るので、とりあえず英を船内に叩き込もうとして――振り払われ、暴れる男の方へと駆け出す後ろ姿に頭を抱えてしゃがみ込みたくなった。
代わりに舌打ちを落とし、コートを脱いで後を追う。
「こんな夜に暴れるなんて無粋だな!」
厭に楽しげな声に返るのは、もはや意味をなさない音の羅列だ。
男は酒瓶で殴りつけた客の一人を踏みつけていたが、今は英を向いている。
ふらりと一歩、踏み出した。
対した英は何も持たず、真正面から体を開き、腰を落としてこぶしを握る。なかなか様になってはいるが、どうせなら声をかける前に足払いでもかければいいものを。
回り込もうにも広さがなく、気付かれてしまうだろう。束の間考え込み、雪季は、腕に巻こうとしていたコートを両腕に抱え直した。
「英!」
一声かけて、背と肩を遠慮なく踏みつけて駆け上がる。そのまま長身の英を飛び越え、コートを広げ、男の頭と腕を抱え込むようにして着地した。
思ったよりも着地の衝撃があり、男も半ば叩き潰したかもしれない。ガラスの割れる音とかけらを踏みつけた感触があったが、男が暴れることはなかった。
――そこで視界がぐらりと揺れて、雪季は、コートの上に崩れ落ちていた。
「雪季?」
今となっては聞き慣れた声が、驚いたように零れ落ちたのが聞こえた。
雪季は、暖房とさんざめく人たちにあてられたのか、少しばかり頭がぼうっとしていた。炭酸水のグラスを取ったつもりでシャンパンを手にしていて、つい溜息をこぼす。
「雪季。疲れたか?」
「ああ…すみません、少し」
「もう秘書はいいから。部屋取ってるから、先に戻るか?」
船上のカウントダウンパーティーで、部屋まで押さえているとなると一体いくら払ったのだろう。考えるだけ馬鹿らしくなる気がして、頭から振り払う。
一応は仕事絡みということでスーツで行こうとした雪季は、もうちょっと遊び心を出そうと英に連れられ、ジャケットをはじめ一揃い買わされた。
以前であれば、絶対に手を出さなかった価格帯だった。
雪季にとって服は悪目立ちしなければ十分なのだが、普段雪季が選ぶような服を着ていれば悪目立ちするようなのがこの場所だ。きらびやかすぎて眩暈がする。
「…社長は?」
「だからもういいって。雪季、俺が気付くくらいだから結構表に出てるぞ」
「いえ…熱がこもっていてのぼせただけかと。少し、風に当たって来ます」
「大丈夫か?」
「すみません」
睨まれるが、振り払うように背を向ける。クロークでコートを受け取っていると、ついて来たらしい英までコートを受け取っている。
「どうしてついて来るんですか」
「護衛が離れるなよ」
真っ当な口実を口にされ、言い返せない。
扉を開けて甲板に出ると、他にも人がいないわけではなかった。
雪季たちのように上着を羽織っているものも、いないものもいる。年末の船上でパーティードレス一枚の女性など、正気の沙汰とは思えないが、酒も入っているし浮かれてもいるのだろう。
船は、年明けを海上で過ごし、港に戻る。パーティー会場として開放されているラウンジは明け方まで開かれているし、もちろん船を降りてもいい。客室にも泊まれる。
豪奢なイベントだ、と雪季は思うが、この程度は鼻で笑われるようなものも、世界にはまだまだあるのだろう。
潮風を吸い込むと、吐く息は面白いほどに真っ白だった。肺が冷えて、咽喉が冷たくなる。
不意に暖かなものを押し付けられ、何かと見れば厚手の陶器に入ったホットワインだった。いつの間にか、英が調達していたようだ。
「もういいだろ、仕事は終わり。秘書も終わりな」
「…結局あまり仕事をしてない」
船上の会話には、日本語以外も混じっている。
英は器用にいくつかの言葉を使い分けるが、雪季は高校以来の英語の勉強を始めてはいるものの、まだまだ聞き取りもおぼつかない。英が知人や初対面の人と快活に話す傍らで、ただ控えているしかなかった。
それならやはり、仕事用のスーツの方が言い訳になったと思うのだが、それも野暮なのだろうか。
そんなことを考えていたら、英に呆れた眼差しを向けられていた。
「…なんだ」
「真面目」
ふっと笑って、真っ黒な海に視線を向ける。
言い返せず、雪季はホットワインを口にした。甘やかな香りと、あたたかさが嬉しい。アルコールは大分とんでいるようだが、今は、下手に酔うわけにもいかないので助かる。
「もっと、役得って遊べばいいのに。そりゃあ秘書にって誘ったのは俺だけど、本当に秘書の仕事をしてくれるとは思わなかった」
「…どっちも、中途半端にしかできてない」
「雪季が弱音を吐くなんて」
そんなに自信家に見えるだろうかと顔を上げると、何故か、英は嬉しげに笑みをこぼしていた。いつも張り付けているへらへらとした笑いとは少し違うように思えて、首を傾げる。
目が合うと、にっこりと、これはモデルのように完璧で嘘くさい笑みを浮かべる。
「俺も、少しは信用されたのかな、と思って」
「事実を言ったまでだ」
「雪季は自分に厳しい。もう少しくらい甘やかしてやっても罰は当たらないと思うけど」
「甘えたら即脱落するような仕事だったからな。今なら、被害を受けるのは半々でお前だ」
「あー…それは厭かも」
言いながらも、くすくすと笑っている。何が楽しいのか、雪季にはさっぱりわからない。冗談ではなく、賭け金になっているのが己の命とわかっていないわけでもないだろうに、やっぱり変な奴だと思う。
不意に、妙な動きが視界の隅をよぎった。
二人からは少し離れた、甲板の十数人ほどが集まったあたり。そこから少し距離を置いたところに、一人の男がいる。小刻みに震えるような動きが、寒さからのものではないように思える。
「河東」
「なに?」
「妙なのがいる。…どうする」
英越しに見えた男から視線を外さず、英が振り返って気付かれないように軽く腕を押さえて牽制する。
殺気めいたものはあまり感じないが、どうにも様子がおかしい。ただの重度の酔っぱらいか、ドラッグでもやっているのか。あるいは、何かしらの病気なのかもしれない。痙攣を引き起こすものは多い。
見かけは四十前後といったところだが、年齢の問題ではなかったりもする。
「どう、って?」
「この場を離れるか、取り押さえるか。どちらにしても、スタッフに報せた方がいいが」
ただ護衛としてなら、離れた方がいい。そもそもただの雪季の勘違いということもある。それでも意向を聞くのは、よほどの場合でなければこの男を思った通りに動かすのは難しいと思うからだ。
英の返事よりも、悲鳴の方が早かった。
「遅かったみたいだな」
はじめは戸惑ったような声だったが、男が割った酒瓶を振り回すに及んで、混じり気なしの悲鳴に変わった。
人が少ないのがまだしもの救いで、これが室内の方であれば、逃げ惑う人で迂闊に身動きも取れなかったかも知れない。
それでも出入り口の近くにいた二人の方に人が逃げて来るので、とりあえず英を船内に叩き込もうとして――振り払われ、暴れる男の方へと駆け出す後ろ姿に頭を抱えてしゃがみ込みたくなった。
代わりに舌打ちを落とし、コートを脱いで後を追う。
「こんな夜に暴れるなんて無粋だな!」
厭に楽しげな声に返るのは、もはや意味をなさない音の羅列だ。
男は酒瓶で殴りつけた客の一人を踏みつけていたが、今は英を向いている。
ふらりと一歩、踏み出した。
対した英は何も持たず、真正面から体を開き、腰を落としてこぶしを握る。なかなか様になってはいるが、どうせなら声をかける前に足払いでもかければいいものを。
回り込もうにも広さがなく、気付かれてしまうだろう。束の間考え込み、雪季は、腕に巻こうとしていたコートを両腕に抱え直した。
「英!」
一声かけて、背と肩を遠慮なく踏みつけて駆け上がる。そのまま長身の英を飛び越え、コートを広げ、男の頭と腕を抱え込むようにして着地した。
思ったよりも着地の衝撃があり、男も半ば叩き潰したかもしれない。ガラスの割れる音とかけらを踏みつけた感触があったが、男が暴れることはなかった。
――そこで視界がぐらりと揺れて、雪季は、コートの上に崩れ落ちていた。
「雪季?」
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