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引越
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小汚い立ち飲み屋。
営業時間は気まぐれで、朝から開いていたり夕方に閉まったり深夜までやっていたりと、気侭だ。客足は適度に少ない。
古びたのれんをくぐった先は、細長いカウンターになっている。その奥まった場所に、坊主頭のしなびた男が座っていた。
『こんにちは』
『ああ。次の仕事か?』
店内に他に人はないが、低い声は静かに囁く。
首を振って、湯気の上がるおでん鍋から大根を取る。いつも、ここの料理は無駄に美味い。考えてみれば、料理のコツはこの男から学んだようなものだ。
『この仕事を辞めたい』
緑茶を淹れる手が、一瞬だけ止まって、いつものようにゆるりと動く。見かけよりもずっと、なめらかで細やかな動きをする男だ。
小さな音を立てて、湯呑がカウンターに置かれる。
『そうか』
『…だけ?』
『理由を訊けば、答えるのか?』
お茶を飲んで、つみれを取る。今となっては馴染んだ味だ。
『この間請けた仕事。河東英の』
『ああ』
『あれ、中止の連絡もらう前にやめてたんだ。…勘違い、で』
『どの途金にならなかったから、気にすることはない』
改めて、男を見る。
付き合い自体は十年ちょっとだが、初めて目にしたのはもう少し前だ。そのころから、年齢不詳で年を取ったようには思えない。そんなはずはないのだが、驚くほどに印象が変わらない。
小学校の卒業間際だった。
いつものように学校から帰ると、玄関が開いていた。いつもならこの時間にはない父と母の靴があって、それなのに人がいる感じがしなくて、不思議に思いながら家に入ったのを覚えている。
今思うと、せめて泥棒くらいは疑うべきだっただろう。そんなことを考えもしなかった子ども時代が、今とは遠く隔たっている。
結論だけを言えば、両親は風呂場で内側から目張りをした状態の一酸化炭素中毒で死亡していた。
直接の原因は父で、母は何か聞いているかもしれないということでまとめて始末された。一人息子をどうするかは実行者の裁量に任されていた。
風呂場を開けて、一緒に中毒死していたかもしれなかった。
それもなく、家の前で警察官に話しかけられる視界の端を実行犯の男がよぎっていった。勿論、その時は知る術もなかったが。
『河東に、護衛とか秘書とかをしないかって誘われた』
『へえ。いい話だな』
高校の入学直前、町中で男をみかけた。人の顔を覚えるのは得意な方だ。思わず、後を追っていた。
未熟な追跡はすぐに気付かれて、いくらか言葉を投げ合った後に、何故か弟子入りするような流れになっていた。ノリや勢いと言ってしまえばそれまでのような気がする。妙な話だ。
『誘われてたのは前からだろう。どうして今回は乗ったんだ』
『よくわからないけど…そういうのもあるかと、思って』
ふっと、男が笑った。
『俺の時と同じことを言ってるな』
『そう…だったか…?』
『ああ。それなら、いいだろう。電話返せ』
連絡用に渡されていた携帯端末を渡す。ただ、それだけだった。
『もう、なるべくここには来るなよ。部屋も、今のところは引き払え』
『…いいのか、本当に?』
ひらりと、カウンターの中から手が振られる。
応じて、カウンターに食べた分の代金を置いて立ち上がる。少しだけ男に視線を留めて、背を向ける。
『訊くべきは、俺じゃないだろう。お前こそ、それでいいのか。罪悪感を抱えて潰れないか、心配しなくていいのか』
今度は、こちらの笑いがこぼれた。そんなもの。
『忘れないけど、罪悪感を持ってるのかすら、俺にはよくわからない。卵を横取りするのは悪いことなのか、鶏を絞めて食べるのに罪を覚えなくちゃいけないのか。俺には、そんな風に思えるから』
『妙なやつだな、お前は』
『俺も、そう思う』
――そこまでで、ああこれは夢だったのかと気付いた。
途中までは実際にあったことをなぞって、最後は自問自答になっている。面白くもない夢だと、思った。
営業時間は気まぐれで、朝から開いていたり夕方に閉まったり深夜までやっていたりと、気侭だ。客足は適度に少ない。
古びたのれんをくぐった先は、細長いカウンターになっている。その奥まった場所に、坊主頭のしなびた男が座っていた。
『こんにちは』
『ああ。次の仕事か?』
店内に他に人はないが、低い声は静かに囁く。
首を振って、湯気の上がるおでん鍋から大根を取る。いつも、ここの料理は無駄に美味い。考えてみれば、料理のコツはこの男から学んだようなものだ。
『この仕事を辞めたい』
緑茶を淹れる手が、一瞬だけ止まって、いつものようにゆるりと動く。見かけよりもずっと、なめらかで細やかな動きをする男だ。
小さな音を立てて、湯呑がカウンターに置かれる。
『そうか』
『…だけ?』
『理由を訊けば、答えるのか?』
お茶を飲んで、つみれを取る。今となっては馴染んだ味だ。
『この間請けた仕事。河東英の』
『ああ』
『あれ、中止の連絡もらう前にやめてたんだ。…勘違い、で』
『どの途金にならなかったから、気にすることはない』
改めて、男を見る。
付き合い自体は十年ちょっとだが、初めて目にしたのはもう少し前だ。そのころから、年齢不詳で年を取ったようには思えない。そんなはずはないのだが、驚くほどに印象が変わらない。
小学校の卒業間際だった。
いつものように学校から帰ると、玄関が開いていた。いつもならこの時間にはない父と母の靴があって、それなのに人がいる感じがしなくて、不思議に思いながら家に入ったのを覚えている。
今思うと、せめて泥棒くらいは疑うべきだっただろう。そんなことを考えもしなかった子ども時代が、今とは遠く隔たっている。
結論だけを言えば、両親は風呂場で内側から目張りをした状態の一酸化炭素中毒で死亡していた。
直接の原因は父で、母は何か聞いているかもしれないということでまとめて始末された。一人息子をどうするかは実行者の裁量に任されていた。
風呂場を開けて、一緒に中毒死していたかもしれなかった。
それもなく、家の前で警察官に話しかけられる視界の端を実行犯の男がよぎっていった。勿論、その時は知る術もなかったが。
『河東に、護衛とか秘書とかをしないかって誘われた』
『へえ。いい話だな』
高校の入学直前、町中で男をみかけた。人の顔を覚えるのは得意な方だ。思わず、後を追っていた。
未熟な追跡はすぐに気付かれて、いくらか言葉を投げ合った後に、何故か弟子入りするような流れになっていた。ノリや勢いと言ってしまえばそれまでのような気がする。妙な話だ。
『誘われてたのは前からだろう。どうして今回は乗ったんだ』
『よくわからないけど…そういうのもあるかと、思って』
ふっと、男が笑った。
『俺の時と同じことを言ってるな』
『そう…だったか…?』
『ああ。それなら、いいだろう。電話返せ』
連絡用に渡されていた携帯端末を渡す。ただ、それだけだった。
『もう、なるべくここには来るなよ。部屋も、今のところは引き払え』
『…いいのか、本当に?』
ひらりと、カウンターの中から手が振られる。
応じて、カウンターに食べた分の代金を置いて立ち上がる。少しだけ男に視線を留めて、背を向ける。
『訊くべきは、俺じゃないだろう。お前こそ、それでいいのか。罪悪感を抱えて潰れないか、心配しなくていいのか』
今度は、こちらの笑いがこぼれた。そんなもの。
『忘れないけど、罪悪感を持ってるのかすら、俺にはよくわからない。卵を横取りするのは悪いことなのか、鶏を絞めて食べるのに罪を覚えなくちゃいけないのか。俺には、そんな風に思えるから』
『妙なやつだな、お前は』
『俺も、そう思う』
――そこまでで、ああこれは夢だったのかと気付いた。
途中までは実際にあったことをなぞって、最後は自問自答になっている。面白くもない夢だと、思った。
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