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昨日の未来
二日目
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寶医院は、昨日の急患のおかげで今朝も混んでいた。
昨日は、実に平常の十倍近くという患者が来院し、その多くが帰ったものの、元々基本的には入院患者というものがいないこの医院では、入院患者がいるというだけで「混んで」いる。その上、昨日の余波で早朝に来る患者もいる。
木曽寶の個人経営のこの医院は、三階建ての建築物の二階分を丸々使った、専門無視のところだ。内科や外科やと、そんなことには構っていられない。もっとも、大半が外科――怪我ではあるが。
入院患者に朝食を配膳していると、寶がやってきた。
「すまんな。飯まで作らせて」
初老にはなるだろうが、まだ十分に元気な木曽寶は、タヌキに似た愛嬌のある笑みを浮かべていた。右手には、どろりと濃いコーヒーの入ったカップ。
霧夜は、微苦笑を返した。
「先生に作ってもらうよりもずっと、材料に無駄が無くて安全ですから」
「ううむ、言ったな」
「言いますよ」
近所の定食屋が休みで寶の娘が外出していた時に、自炊しようとして鍋を二つ黒こげにしたのは、まだ記憶に新しい。
「なあ、俺もメシ!」
「先生、コーヒーにはミルクを入れて下さい」
「牛乳? あったかなあ、そんなもの」
「あります。貸して下さい、入れて持って行きます。行ってください」
「むう」
「里香さんが呼んでますよ」
たった三人しかいない寶医院の構成員のうちの一人は、寶の娘だ。娘と言っても秋衣の倍ほども生きているが、やはり元気な人だった。
手招きする娘の姿に、寶が溜息をつく。
「やれやれ。年寄りをこき使って」
「僕もすぐに行きます」
「ああ。急がんでもいい、と言いたいところだが、まあ、たのむ」
コーヒーカップを取り上げられ、手ぶらで戻る寶から目を逸らすと、霧夜は早速、カップを持って身を翻した。
「なーあー、霧夜ってばー」
「呼んだか、羽澄」
足を止めて振り返った霧夜の笑顔は、患者や秋衣たちに向けているものとは確実に違うものだった。はっきり言って、怖い。静かに怖い。
いくらか見慣れているはずの羽澄も思わず、何度も呼んだのにという言葉を呑み込んで、椅子から腰を浮かせかけていた。しかし、脇腹の痛みがそれを押し止める。
「や、あの」
「用がないなら呼ぶな。そもそも、どうしてお前がここにまで居るんだ」
二人は、病室――と言っても、一部屋に寝台が三つとソファーが一つあるだけだが――にいた。羽澄が座っている椅子は隣から引っ張ってきたもので、寝台もソファーも、怪我人で埋まっている。
それらの患者が音さえ立てないように気遣っているのは、昨日のうちに霧夜の性格を思い知ったか、今の不穏すぎる空気に恐れをなしたかのどちらかだろう。
羽澄は、引きつった笑みを浮かべた。
「…俺の朝飯は?」
「ない」
「そんなあ」
不満の声は子どもっぽく、椅子の背を前にして逆向きに座っていることもあって、図体だけ大きな子どもかのようだった。
実際、早くに出掛けた霧夜を慌てて追った羽澄は朝食をとり損ね、実は昨夜も食べていなかったために、空腹に、思考も多少短絡になっている。羽澄にとって、空腹は理性の敵だ。
「恩人に対してそれはないよなー」
拗ねるようにして何気なく呟いた羽澄を、行きかけた足を止めた霧夜が睨み付ける。
「誰が。恩人だって?」
「助けただろ、今朝」
「そうか、あれを助けたというのか。割り込みさえなければ、怪我人もなく済んだはずなんだがな」
眼光が、一層冷え込む。もはや、氷点下二桁の域だ。
今朝、診療所に向かう途中でたちの悪い酔っぱらいに絡まれた。そして、その男の持つナイフは、羽澄の脇腹に突き刺さった。
いつもなら軽くあしらえたはずの相手に霧矢が不覚をとったのは、やはり疲れていたのだろう。
だが、傘を差していたのに、それで防ぐこともせずに、わざわざ身体を使って防いだのは――やはり馬鹿だ。どうしようもない大馬鹿者だと、霧夜は思う。
「霧夜、手を貸してくれ」
「はい」
寶の声で、羽澄のことを意識の外へと追い出す。
しかし、行きかけて足を止める。
「――残り物でいいなら、勝手に食べてろ。患者に何かあれば、すぐに報せるように」
「おう。ありがとな」
素直な返答に、なんとなく、霧夜は釈然としなかった。
昨日は、実に平常の十倍近くという患者が来院し、その多くが帰ったものの、元々基本的には入院患者というものがいないこの医院では、入院患者がいるというだけで「混んで」いる。その上、昨日の余波で早朝に来る患者もいる。
木曽寶の個人経営のこの医院は、三階建ての建築物の二階分を丸々使った、専門無視のところだ。内科や外科やと、そんなことには構っていられない。もっとも、大半が外科――怪我ではあるが。
入院患者に朝食を配膳していると、寶がやってきた。
「すまんな。飯まで作らせて」
初老にはなるだろうが、まだ十分に元気な木曽寶は、タヌキに似た愛嬌のある笑みを浮かべていた。右手には、どろりと濃いコーヒーの入ったカップ。
霧夜は、微苦笑を返した。
「先生に作ってもらうよりもずっと、材料に無駄が無くて安全ですから」
「ううむ、言ったな」
「言いますよ」
近所の定食屋が休みで寶の娘が外出していた時に、自炊しようとして鍋を二つ黒こげにしたのは、まだ記憶に新しい。
「なあ、俺もメシ!」
「先生、コーヒーにはミルクを入れて下さい」
「牛乳? あったかなあ、そんなもの」
「あります。貸して下さい、入れて持って行きます。行ってください」
「むう」
「里香さんが呼んでますよ」
たった三人しかいない寶医院の構成員のうちの一人は、寶の娘だ。娘と言っても秋衣の倍ほども生きているが、やはり元気な人だった。
手招きする娘の姿に、寶が溜息をつく。
「やれやれ。年寄りをこき使って」
「僕もすぐに行きます」
「ああ。急がんでもいい、と言いたいところだが、まあ、たのむ」
コーヒーカップを取り上げられ、手ぶらで戻る寶から目を逸らすと、霧夜は早速、カップを持って身を翻した。
「なーあー、霧夜ってばー」
「呼んだか、羽澄」
足を止めて振り返った霧夜の笑顔は、患者や秋衣たちに向けているものとは確実に違うものだった。はっきり言って、怖い。静かに怖い。
いくらか見慣れているはずの羽澄も思わず、何度も呼んだのにという言葉を呑み込んで、椅子から腰を浮かせかけていた。しかし、脇腹の痛みがそれを押し止める。
「や、あの」
「用がないなら呼ぶな。そもそも、どうしてお前がここにまで居るんだ」
二人は、病室――と言っても、一部屋に寝台が三つとソファーが一つあるだけだが――にいた。羽澄が座っている椅子は隣から引っ張ってきたもので、寝台もソファーも、怪我人で埋まっている。
それらの患者が音さえ立てないように気遣っているのは、昨日のうちに霧夜の性格を思い知ったか、今の不穏すぎる空気に恐れをなしたかのどちらかだろう。
羽澄は、引きつった笑みを浮かべた。
「…俺の朝飯は?」
「ない」
「そんなあ」
不満の声は子どもっぽく、椅子の背を前にして逆向きに座っていることもあって、図体だけ大きな子どもかのようだった。
実際、早くに出掛けた霧夜を慌てて追った羽澄は朝食をとり損ね、実は昨夜も食べていなかったために、空腹に、思考も多少短絡になっている。羽澄にとって、空腹は理性の敵だ。
「恩人に対してそれはないよなー」
拗ねるようにして何気なく呟いた羽澄を、行きかけた足を止めた霧夜が睨み付ける。
「誰が。恩人だって?」
「助けただろ、今朝」
「そうか、あれを助けたというのか。割り込みさえなければ、怪我人もなく済んだはずなんだがな」
眼光が、一層冷え込む。もはや、氷点下二桁の域だ。
今朝、診療所に向かう途中でたちの悪い酔っぱらいに絡まれた。そして、その男の持つナイフは、羽澄の脇腹に突き刺さった。
いつもなら軽くあしらえたはずの相手に霧矢が不覚をとったのは、やはり疲れていたのだろう。
だが、傘を差していたのに、それで防ぐこともせずに、わざわざ身体を使って防いだのは――やはり馬鹿だ。どうしようもない大馬鹿者だと、霧夜は思う。
「霧夜、手を貸してくれ」
「はい」
寶の声で、羽澄のことを意識の外へと追い出す。
しかし、行きかけて足を止める。
「――残り物でいいなら、勝手に食べてろ。患者に何かあれば、すぐに報せるように」
「おう。ありがとな」
素直な返答に、なんとなく、霧夜は釈然としなかった。
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