地球と地球儀の距離

来条恵夢

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その後の話 2004/5/10

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 学生服に身をつつんで、浩明ヒロアキは座していた。
 十畳ほどの和室。一隅に学校関係の物を全てまとめてある。他には、驚くほどに私物が少ない。本人の意思とは無関係に据え付けられた箪笥とクローゼットと、文庫が数冊入った小さな本棚。

 浩明の自室ではあるが、ここでくつろいだことなどない。

 あと一時間ほどで刻限になるのを知って、浩明は我知らず溜息をついた。腹に一物も二物もある大人連中を相手に、苦痛なだけの時間が訪れるのだ。
 置時計を睨み付けた浩明の耳に、半ば怒鳴り合っている声が飛び込んできた。

「なんだよっ、とにかく来いって言ったのそっちだろ!」
「だからってそれはないでしょ! 誰が金魚みたいな格好して来いなんて言った? そんなので行ったら年寄りの心臓が止まるわよ!」
「止めりゃいいだろうが!」
「いいわけないでしょ大馬鹿者!」
「馬鹿はどっちだよ中年ヒステリー!」

 呆気にとられて、浩明は障子しょうじに目をやった。人影は映っていないが、声の調子と足音から、こちらに向かってきているのは判る。
 この家で、こんなにも遠慮のない言い合いを聞くことがあるとは思わなかった。
 ところが、そうやって呆然としている間に、凄いことになっていた。

「とにかく行ってきなさい!」
「ぐぁっ」

 声とともに、人が障子を突き破って飛び込んできた。思わず浩明が避けると、それは滑空したのちに畳をすべり、ふすまに半分のめり込んでようやく止まった。

「……」

 誰に、こんなばかげた事態が予想できただろう。浩明は、恐る恐る飛び込んできたものを覗き込んだ。
 障子の木片や襖のかけらを浴びながら、よろよろと体を起こしたのは、浩明とそう変わらないくらいの少年だった。赤いつなぎに青のパーカーという、原色同士の鮮やか過ぎる配色。髪は角刈りに近いが、今時珍しく黒い。

「ってぇ…」
「……大丈夫か?」
「いや、あんまり。っていうかあんたは? あっ、ごめん、部屋! でもこれ、悪いのは絶対母さん…っていない? 逃げた! …あのババアァ…」   

 驚いて、謝って、怒る。せわしなく変わる表情に、浩明は半ば感心した。とても真似できない。
 少年は、浩明に向かって座り直すと、改めて申し訳なさそうに頭をさげた。

「本当に、ごめん」
「いや…別に、気にしなくていい」
「そうか? とにかく、後で掃除はするな。ところで、浩明って人の部屋知らない? あ、俺屋中ヤナカジンっていうんだけど」
「俺が何か?」
「え?」

 少年は、意味がわからない、とでも言うように首を傾げてから、間を置いて「ええぇっっ!」と叫んで立ち上がった。立つと、浩明よりも数センチ程度背が高いようだった。
 まじまじと、浩明の顔を見つめる。

「あんたが…叔父さん?」
「それじゃあ甥っ子か」
「…あんまり嬉しくないから、その呼び方」
「そっちが先に言ったんだろう」
「そうだけどさ。えーっと、浩明? ちょっと座ろう」

 有無を言わせず、浩明の肩を押さえつけて座らせる。
 咄嗟のことながら正座した浩明に対して、少年は、その向かい側にどっかりと胡坐あぐらをかいた。おまけに、それが妙に似合っている。

「何歳?」
「十六」
「高一? 高二?」
「一年」
「へえ、俺と同い年か。…サザエさん並の年齢差だなあ」
「…サザエ?」

 何気なく呟くと、えっ、と言って、仁は絶句した。
 浩明が怪訝けげんに見返すと、硬直のけた仁は、身を乗り出すようにして浩明の肩をがっしりと掴んだ。

「まさか知らない? 本当に? サザエさんだぞ、サザエさん! あの国民的おばさんを知らないのか?」
「……そう言えば、作者の訃報は見たことが…」
「って、そんだけかい!」

 どうしてそんな反応をされるのか判らず首をひねる浩明を見て、仁は深々と溜息をついた。その眼が、「世間知らずだなあ」と雄弁に語っている。
 浩明は、いくらか気分を害して睨み付けた。

「君は」
「仁。俺も呼び捨てにしたし、名前でいいよ。そういうのが厭なら苗字でもいいけどさ。なんか、君って言われるとむずがゆいし。てことで、続きどうぞ」

 同年代と話をすることの少ない浩明は、そのせいだけではないだろうが、仁のノリについて行けなかった。再度うながされて、ようやく口を開く。

「仁――は、誰の息子?」
「えー?」

 今度は逆に仁が、訝しげに首を傾げる。仁とて親戚のことはよく知らないが、大まかな親戚の存在くらいは知っている。…年齢は知らなかったため、浩明の年齢に驚く羽目になったが。
 冗談かと思ったが、厭になるくらい真面目な表情にそれはないだろうと判断する。

「灯。母さんの名前が、それ」
「ああ、灯姉さんの…あの人に、僕と同じ年の子供がいるとは思わなかったな。今まで、会式で見かけたことはなかったと思うのだけど」
「あー。それは、毎年何故かこの時期、俺が原因不明の病気になってたから。葬式とかもそうだったな。去年なんて、大丈夫そうだったからそこの門のとこまで来たんだぜ。もっとも、真前でひきつけ起こして病院に運ばれたけど。母さんは取り乱してたけど、この中に無理やり拉致られてた。今年もどうせ無理だろうけどいい加減来いってせっつかれるからって、来るだけ来て医者に証明書でも書かせるかって来たんだけど…予想以上に平気でこのざま。仕事ちょっと抜けるだけのつもりが、早引けの電話させられるしついてねー」

 とうとうと喋り立ててから、呆気にとられている浩明に気付いて、軽く肩をすくめた。説明のつもりが、いつの間にか愚痴に摩り替わっていたようだった。
 ついでに、本来の目的を思い出す。

「それで、何か服、貸してほしいんだけど」
「服?」

 言ってから、改めて仁の眼に痛いほどに鮮やかなつなぎとパーカーを見て納得する。葬式かと見紛みまがうような連中の中に、この格好で行けば度肝を抜いて顰蹙ひんしゅくをたっぷりと買い込むことは必須だった。
 浩明は、頷いて立ち上がるとクローゼットを開けてから、ふと気付いて振り返った。

「和服とスーツ、どっちがいい?」
「いや…和服なんて着たことないし。つか、なんでこんなに高そうなのばっかあるわけ?」
「必要だから」

 さらりと言ってのけて、浩明は適当な春用のスーツを取り出すと、無造作に仁に押し付けた。

「あ。ああ、ありがと。…お前は? 着替えなくていいのか?」

 何気ない問いかけに、本当に何も知らないのだと確信して、浩明は薄く笑った。その無邪気さが、羨ましくも憎らしくも、哀れですらある。
 しかし浩明は、対外的には首を振るだけに留めた。

「僕はこれでいい」

 ありふれた量産型の学生服。せめてもの、嫌がらせだ。
 置時計を見ると、もう間がなかった。

「時間だ。僕は先に行くから、案内人を呼んでおくよ」
「え? いや、待ってくれよ。すぐ着替えるから」

 慌ててパーカーを脱ぎ捨てた仁を一度だけ振り返って、一瞥する。そのまま、二度と振り返らずに行ってしまった。
 後に残された仁は、浩明のひどく冷たかった視線に、動きを止めていた。

 それが、一年前の話。 
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