変わりゆく音色

来条恵夢

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時間ときのしらべ

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「ただいまっ!」
「あら。お帰りなさい、今回はとりわけ短かったわね?」
 いつまでも、婚家から気軽に帰ってくる娘に、フェリシアは笑いを含んだ声を向けた。
 本当に、稚気ちきゆえのこの「帰宅」は、微笑ほほえましい。
 そういったものを、多少はおおらかに見るこの地方の、この国の空気も、フェリシアは好きだった。
「聴いてよ、お母様! あの人ったらひどいのよ」
 聞き慣れた言葉だ。
 微笑みながら、フェリシアは小さな編み棒を置いた。暇つぶしにと始めた編み物は、今ではすっかり癖のようになってしまった。冬なら毛糸で、夏の今は細かなレースを。
 今では、大作だ、と冗談半分に笑ってくれるあの人もいないのだけれど。
「今度は何があったの?」
「私の誕生日に、贈り物をくれると言ってくれたの」
「まあ」
「ね? 珍しいでしょう? まず覚えていてくれたという時点で驚くし、その上、贈り物だなんて気を回すところまでくると、もう、何があったの?!って訊きたくもなるってものだわ。それなのに、帰ってきたら、手に持ってたのは例によって、ネジだのモーターだのの部品ばっかり! その上、唖然あぜんとしてる私を見てなんて言ったと思う? 『あ。ごめん。だけど、これは安売りだったんだし、君への贈り物はまた買えるから、良いよね?』ですって!」
 それに始まって、いつものように、夫を機械狂いだの変人だのとこき下ろす娘の言葉を笑って聞きながら、フェリシアは適当に#相槌__あいづち__#を打った。
 その間に、慣れた手つきでお茶もれる。
 既に、全てが慣れた手続きだった。勿論、だからといってないがしろにしているわけではない。ただ、決まったように流れていくというだけのことだ。
「もう、やっぱり別の人にしておけば良かったわ」
 婚約前、そして婚約中でさえも、いや、言うなら今も、娘は男連中から憧れを持って見られていた。是非とも妻にと、望む相手は多かった。
 その中から選んだ相手を、相応しくないと糾弾する者も多い。
 いつもであれば、フェリシアは、ただ黙って、微笑を浮かべるだけだった。それが、いつもの「決まり事」だった。
 けれど。
「本当にそう思うのなら、離婚しても良いのよ?」
 絶句する娘に、にこりと微笑みかける。
「改宗するのが少しだけ手間だけれど、そうしたいのなら、手伝うわよ」
 この時代、国の根幹にも近い宗教は、大きな変化を見せていた。新しい風を求めた一派が、多少の変革を加え、少し違った教義で教えを広めているのだ。
 そのうちの一つに、離婚がある。
 生まれたときの洗礼や婚儀、葬儀など人生に関わる多くの儀式を取り仕切るの宗教は、一度結婚すると、死別する以外の離縁を認めずにいた。しかし、新しくできた一派は違い、認めている。
「間違った人と一緒にいるのは、得策ではない、と思うのよ」
「や、やだ、お母様! 真剣にとらないでよ、違うの、私はただ」
「少し、愚痴を言いたかっただけでしょう? わかっているわよ」
「…もう、びっくりした」
 目に見えて安堵した娘に笑いかけて、しかし、真面目な目を向けた。
「あのね。あなたが何気なく口にする言葉も、人をて伝われば、どこかで歪んでしまうかも知れないの。だから、口をつぐめとは言わないけれど、少しは気をつけた方がいいわよ。いつか、取り返しのつかないことが起きるかも知れない」
「お母様。…あの。訊いても、良いかしら…?」
「何かしら?」
 既に次の言葉を知っていながら、フェリシアは訊いた。
 語れるほどに時間が経ったのだと、そう、思わずにはいられなかった。
「それは、お父様とのことなの? ――お父様と結婚したことを、お母様は悔やんでいるの?」
 フェリシアは、微笑みを返した。

 フェリシアが祖国を出て、この国のこの地にやってきたのは、そろそろ二十歳にも手が届こうかという、今から二十年ほども前のことになる。丁度、今の娘と同じくらいの年頃だった。
「綺麗なところね」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。ここの取り柄は、景色と人柄くらいのものだからね」
 そう言ってやわらかく微笑むのは、フェリシアの夫。この小さな国の、田舎貴族だった。
 実のところ、当時のフェリシアは、夫を優しいだけが長所の、面白味のない人物だと見取っていた。弟が決めた相手でなければ、正直、伴侶に選んだかわからない。フェリシアも、若い頃は引く手数多だったのだ。
 フェリシアには、母の異なる兄と弟がいた。三度の結婚をして、三人の子どもを得た代わりに三人の妻を失った父は、冷たく遠い印章しかなく、フェリシアにとっての家族は、兄と弟だけだった。
 その兄は、爵位を捨てて去り、フェリシアの婚約披露の時に会ったのが最後となった。
 そして、弟が王位転覆を企てて失敗し、追われる身となったのを知ったのは、娘を身ごもった後のことだった。
「つまり、あの子が彼を選んだのは、私を国から出すためだったというわけなのね。それなら、誰でも良かったのかしら。――でも、それは私も同じだものね。文句なんて、言えないわ」
 そう漏らしたのは、気心の知れた下女にだけだったはずだ。
 しかしそれは、気付くと尾鰭おひれを伴って人々の間を泳ぎ回り、夫の耳にまで届いていた。そのくらいで態度を変える人ではなかったのだが、そうと信じ切れず、破綻をもたらしたのはフェリシアの方だった。
 気遣いを見せる夫を、何故自分を非難しないのかとなじり、酷い言葉をいくらでも投げかけた。
 はじめての妊娠と、国を出た不安、不確かな弟の安否。全てが重なり、不安定だったこともあったのだろう。
 けれどそれは、娘の誕生によって、全てとは言わないまでも収まり、平穏を得た。一時の、ではあるのだけれど。
「…ねえ。私は随分な荷物だったでしょうね。押しつけられて、邪魔よね!」
「フェリシア」
 哀しそうに呼ぶだけの声に、余計に怒りをあおられた。今にして思えば、反論せずに理解を待つ夫は、呆れるほどに辛抱強く、そして、本当に自分を愛してくれていたのだろう。
 当時のフェリシアは、簡単に他人の声に耳を貸し、疑ってはいけないものを疑っていた。言葉が変貌していく様は、既に知っていたはずだというのに。
 その愚かさに気付く前に、夫は逝ってしまった。
 寝不足で、階段から足を滑らせて、そのまま。
 あまりに呆気ない、容易い最期。フェリシアが呆然としている間に、葬儀や跡継ぎに分家から養子をもらって継がせることなど、様々なことが終わって、気付けば、フェリシアは家を移るために荷物をまとめているところだった。
 その荷物の中に、几帳面な夫のつけた日記が紛れ込んでいた。
『今日、美しい人を見かけた。僕よりは幾つか年下だろうか。花が咲くように、笑っていた』
『あの人に会った。フェリシア、幸福という名。緊張してしまっていて、無愛想ではなかったかと思う。後で、アーロンに笑われた』
 綴られた言葉の、合間合間に見られる自分への記述。他が、その日にこなした物事の覚え書きのようなものだけに、目をひいた。
『彼女との婚約が決まった。僕を好きだからではなく、アーロンが奨めたからだとは思うけれど、それでも嬉しいと思うのは、あまりに馬鹿げているだろうか』
『出奔したという兄君に会った後の彼女は、本当に嬉しそうだった。嬉しそうに、兄君のことを話してくれる。いつかは、僕もこんなように想われたら、嬉しい』
『この国に来てから、彼女は神経が過敏になっているようだ。やはり、家族と離れるのは寂しくて、僕ではその代わりにならないからだろうか』
『娘が生まれた。フェリシアに似て、とても美人だ。嫁にいくときは淋しいだろうと言うと、まだ先だと笑われた』
『厭な噂が、フェリシアの耳に入ったらしい。それは嘘だと、どう伝えればいいのだろう。愛していると言っても、彼女は僕を見てはくれない』
「…馬鹿だわ…」
 呟きと共に流れた涙は、考えてみれば、夫が死んで以来、はじめて流した涙だった。失ってから気付く、その愚かさに、フェリシアは心底嫌気がさしていた。絶望と、言い換えられたかも知れない。

「正直なところ、あなたがいなければ、立ち直れなかったかも知れないと思うわ。だから、あなたには幸せになってほしいのよ」
「…はい」
 かすかに肯く娘の肩を、フェリシアはそっと抱いた。
 昔は、二人きりだった大切な人。年をて、その数は増えた。兄や弟には、おそらく、もう二度と会えないだろうと思う。そして、夫には、気付いた胸の内をげることもできない。
 けれど、娘には。こうやって会える。手を伸ばせば、触れられる。
 だからこの手を放すことは二度とないようにと、そう願う。  
「ねえ。私は確かに、悔やんでいるわ。あの人に、歪んだ言葉を届かせるきっかけを作って、そんな言葉を鵜呑うのみして。そうして、伝えられなくなってから気付いたの。私も、あの人がとても好きだったのだと――とても、愛していたのだと。私は、知らずにあの人に甘えていたのね」
「私…お母様。また明日、今度はあの人も連れて遊びに来てもいいかしら」
「ええ。このクッキーは、会心の出来なの。是非、持って帰って一緒に食べてね」
「ありがとう、お母様」
 抱擁ほうようわして、娘は去っていった。
 フェリシアはそれを見送ると、そっと窓を開けて、夏の柔らかい日差しを浴びる花々を見遣みやった。
「ねえ。もしもそっちで会えたら、おばあちゃんになったって笑って、それでも好きでいてくれるかしら」
 ふわりと、風が吹いた。   
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