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Main Story
風邪っぴき後日談
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「熱で弱ってる女っていいよな」
隣の席から急に発されたその一言に、俺はコーヒーを吹き出しそうになった。独り言、というわけでもなさそうだし、何より俺にだけ聞こえるくらいの声量で言ったあたり、俺に向けての言葉だったのだろう。
「急に何すか、前田さん」
俺の先輩である前田さんは、俺の目を見てニヤリ、と笑った。不敵な笑み、というような表現がピッタリだ。
「いやさぁ、この間、嫁がインフルで倒れちゃってよ」
「移さんでくださいよ」
「俺はこの通りピンピンしてるだろうがよ」
確かに前田さんが弱っているところを、13年来見たことがない。無遅刻無欠席を誇りにしてるって、言ってたような気もする。鍛えてるからか、お互いにいい歳なのに……というか前田さんはもう40過ぎてるはずなのに、実年齢より少し若く見えるくらいだもんな。
「それでさ、まぁ俺は土日子供の世話と嫁の看病に追われてたわけよ」
「それは……お疲れっす」
それ以外の言葉が見つからん。思いのほか棒読みになってしまった言葉を聞いて、前田さんは少し不服そうにした。
嫁がインフルねぇ、流行ってんのかな、インフル。と、そこまで考えて、あれ? もしかして、妃芽のあれって、インフルだったんじゃないのか。午後には熱は若干下がってたけど。もしインフルだとしたら俺、やべぇんじゃねぇか。
「おい、聞いてる?」
「あ、はぁ」
前田さんに呼び戻されて、俺は我に返る。前田さんはぼーっとしていた俺を咎めるわけでもなく、話を続けた。
「でさ、熱あるときって、汗も滲んでるし目も潤んでるし、息も荒いし、なんかこう、卑猥だよな。俺、久々に嫁にくらっときてさ」
「熱で残念だったっすね」
「そうなんだよなぁ」
適当に相槌を打ちながら、時計を見やる。おいおい、まだ昼前だぞ。苦笑を浮かべたが、前田さんは気にしてもない。
「早く嫁の体調が良くならんと、たまる一方だ」
「……相変わらず仲良いっすねぇ」
そう言いながら、前田さんは自身の片手をギュッと握った。中指と人差し指の間に親指を挟み込むアレだ。その辺、やっぱりこの人もおっさんだなぁ、と思う。(他の社員からは見えない位置でやってるあたり、すごい。)
前田さんは、俺が入社する少し前に結婚したそうだ。つまり、結婚してから13年は経ってるわけだ。お子さんももうすぐ10歳になるが、なるほど、夫婦は今でもよろしくやってるらしい。
「……つまらん。枯れたオヤジに話を振ったのが間違いだったか」
「あんたのが年上でしょうが。どうせ枯れてますよ」
はぁ、とため息をつきながらパソコンに向き直る。
「そもそも、お前は熱で弱ってる女を見たことがねぇか」
「そうっす……あ」
「そうっすね」と言いかけたところで、妃芽の顔が浮かんだ。浮かんだが、あれを女と分類するのはどうなんだ。……いや、やめとこう。前田さんに「見たことありますよ、妃芽っすけど」なんて言ったらあらゆる方面からからかわれるに違いない。
「なんだよ?」
「あ、いや。入力ミスっただけっす」
「集中しろ集中」
「仕事中に下ネタ振ってきた人には言われたくないっすわ……」
「違いねぇ」
カラカラと前田さんが笑ったところで、昼休みが始まったチャイムの音が社内に響いた。ガタガタと席を立つ騒音に紛れて、俺らの会話も何と無く終了した。
* * *
家に着くと、また鍵があいている。犯人は分かり切っているが、やはりため息は出るもんだ。
「妃芽……せめて鍵はしめてくれ」
「あ、ヒトシさんおかえり。え、私またしめ忘れてた?」
キョトンとして聞き返す妃芽に、俺は頷いて見せる。
「ここもオートロックにするべきよね。うちがオートロックだからつい忘れちゃう」
ギク。少し顔が引きつった。俺が誘拐未遂をした日──長内社長たちは、妃芽が勝手に迷子になったと思ってるあの日の出来事があってから、社長夫妻は自宅の警備を強化した。幼い妃芽が簡単に鍵を開けられないようなオートロックを始め、監視カメラとか、本当に色々。今の長内邸の警備状態ならば、俺は誘拐に至る前にノコノコ捕まっていただろう。そう考えたら、ある意味ついていたのかもしれないが……。
俺のちょっとした動揺なんて気づいていない妃芽は、「パパに頼もうかしら」なんてぼやいている。
「オートロックうんぬんじゃなくてさ、俺がいない間にお前に何かあったら俺が困るだろうが。しゃんとしてくれ」
うちに盗むようなもんはないが、妃芽は社長令嬢だし、女子高生だし。誰かに侵入されたとして、何かされるとしたら妃芽の方だ。そして何かあったら俺が社長に顔向け出来ん。
ため息をついて妃芽を見ると、妃芽はなんだか間抜け面で、口をぽかんと開けている。慌てて両手で口を塞ぐと、思い切り目をそらして、「わ、わかったわよ!」とだけ言った。なんだか心なしかその顔は赤い。
──ん? 顔が赤いと言えば。
「そういや、三日ぶりくらいか。風邪は治ったんか?」
「治ったから来たんでしょ!」
「本当か? だってまだお前、顔赤……ブッ!」
俺が言い終わる前に、俺の顔目掛けてクッションが飛んできた。よけ切れず、見事に顔面に命中した。クッションだからそこまでダメージはないが、その行動はまるで解せない。妃芽はクッションに顔をうずめながら、「気のせいに決まってるでしょ!」と喚いている。心配してやったのに何で切れられてるのか。これ以上言うとクッションよりやばいものが飛んで来そうだから、顔には触れないことにした。
「前田さんの嫁さんがインフルだったんだってよ。お前は違ったのか?」
「……うん。普通の風邪」
「なんだ、なら良かった」
移されていたとしても、会社には行けるな。あ、でも平気か。バカは風邪引かないって言うしな。実際、風邪引いた記憶もあまりない。
妃芽がぶん投げたクッションを拾って、元あった場所──妃芽のすぐ脇に戻そうと、妃芽に歩み寄る。妃芽はピクリと身体を震わせてチラリと俺を見たが、すぐに同じようにクッションに顔をうずめた。
“熱で弱ってる女っていいよな”
前田さんの言葉が不意によぎった。あの時、妃芽は見てわかる位に弱り切っていたが、いいか悪いかなんて、そんなのは……。
“──ありがと”
声にならない声で、囁いた妃芽を思い出す。熱があって、俺の首にすがりついたその腕も身体も、熱くて。
「……」
そっと、自分の首に手を添えてしまう。あの時の熱が、蘇った気がした。そのままぼんやりと妃芽を見ていると、妃芽が顔を上げた。バッチリ、目が合う。あ、やべ。なんとなく、見ていたということがいけないことなような気がして、慌てて目をそらしたが、遅かった。
「なっ……! なに見てんのよーーー!?」
「うわぁ!?」
妃芽が持っていたクッションを、俺を窒息させんばかりの勢いで顔に押し付けてきたから、俺は考えることをやめた。
前田さんの話は、話半分で聞くくらいがちょうどいい、とつくづく思った。
隣の席から急に発されたその一言に、俺はコーヒーを吹き出しそうになった。独り言、というわけでもなさそうだし、何より俺にだけ聞こえるくらいの声量で言ったあたり、俺に向けての言葉だったのだろう。
「急に何すか、前田さん」
俺の先輩である前田さんは、俺の目を見てニヤリ、と笑った。不敵な笑み、というような表現がピッタリだ。
「いやさぁ、この間、嫁がインフルで倒れちゃってよ」
「移さんでくださいよ」
「俺はこの通りピンピンしてるだろうがよ」
確かに前田さんが弱っているところを、13年来見たことがない。無遅刻無欠席を誇りにしてるって、言ってたような気もする。鍛えてるからか、お互いにいい歳なのに……というか前田さんはもう40過ぎてるはずなのに、実年齢より少し若く見えるくらいだもんな。
「それでさ、まぁ俺は土日子供の世話と嫁の看病に追われてたわけよ」
「それは……お疲れっす」
それ以外の言葉が見つからん。思いのほか棒読みになってしまった言葉を聞いて、前田さんは少し不服そうにした。
嫁がインフルねぇ、流行ってんのかな、インフル。と、そこまで考えて、あれ? もしかして、妃芽のあれって、インフルだったんじゃないのか。午後には熱は若干下がってたけど。もしインフルだとしたら俺、やべぇんじゃねぇか。
「おい、聞いてる?」
「あ、はぁ」
前田さんに呼び戻されて、俺は我に返る。前田さんはぼーっとしていた俺を咎めるわけでもなく、話を続けた。
「でさ、熱あるときって、汗も滲んでるし目も潤んでるし、息も荒いし、なんかこう、卑猥だよな。俺、久々に嫁にくらっときてさ」
「熱で残念だったっすね」
「そうなんだよなぁ」
適当に相槌を打ちながら、時計を見やる。おいおい、まだ昼前だぞ。苦笑を浮かべたが、前田さんは気にしてもない。
「早く嫁の体調が良くならんと、たまる一方だ」
「……相変わらず仲良いっすねぇ」
そう言いながら、前田さんは自身の片手をギュッと握った。中指と人差し指の間に親指を挟み込むアレだ。その辺、やっぱりこの人もおっさんだなぁ、と思う。(他の社員からは見えない位置でやってるあたり、すごい。)
前田さんは、俺が入社する少し前に結婚したそうだ。つまり、結婚してから13年は経ってるわけだ。お子さんももうすぐ10歳になるが、なるほど、夫婦は今でもよろしくやってるらしい。
「……つまらん。枯れたオヤジに話を振ったのが間違いだったか」
「あんたのが年上でしょうが。どうせ枯れてますよ」
はぁ、とため息をつきながらパソコンに向き直る。
「そもそも、お前は熱で弱ってる女を見たことがねぇか」
「そうっす……あ」
「そうっすね」と言いかけたところで、妃芽の顔が浮かんだ。浮かんだが、あれを女と分類するのはどうなんだ。……いや、やめとこう。前田さんに「見たことありますよ、妃芽っすけど」なんて言ったらあらゆる方面からからかわれるに違いない。
「なんだよ?」
「あ、いや。入力ミスっただけっす」
「集中しろ集中」
「仕事中に下ネタ振ってきた人には言われたくないっすわ……」
「違いねぇ」
カラカラと前田さんが笑ったところで、昼休みが始まったチャイムの音が社内に響いた。ガタガタと席を立つ騒音に紛れて、俺らの会話も何と無く終了した。
* * *
家に着くと、また鍵があいている。犯人は分かり切っているが、やはりため息は出るもんだ。
「妃芽……せめて鍵はしめてくれ」
「あ、ヒトシさんおかえり。え、私またしめ忘れてた?」
キョトンとして聞き返す妃芽に、俺は頷いて見せる。
「ここもオートロックにするべきよね。うちがオートロックだからつい忘れちゃう」
ギク。少し顔が引きつった。俺が誘拐未遂をした日──長内社長たちは、妃芽が勝手に迷子になったと思ってるあの日の出来事があってから、社長夫妻は自宅の警備を強化した。幼い妃芽が簡単に鍵を開けられないようなオートロックを始め、監視カメラとか、本当に色々。今の長内邸の警備状態ならば、俺は誘拐に至る前にノコノコ捕まっていただろう。そう考えたら、ある意味ついていたのかもしれないが……。
俺のちょっとした動揺なんて気づいていない妃芽は、「パパに頼もうかしら」なんてぼやいている。
「オートロックうんぬんじゃなくてさ、俺がいない間にお前に何かあったら俺が困るだろうが。しゃんとしてくれ」
うちに盗むようなもんはないが、妃芽は社長令嬢だし、女子高生だし。誰かに侵入されたとして、何かされるとしたら妃芽の方だ。そして何かあったら俺が社長に顔向け出来ん。
ため息をついて妃芽を見ると、妃芽はなんだか間抜け面で、口をぽかんと開けている。慌てて両手で口を塞ぐと、思い切り目をそらして、「わ、わかったわよ!」とだけ言った。なんだか心なしかその顔は赤い。
──ん? 顔が赤いと言えば。
「そういや、三日ぶりくらいか。風邪は治ったんか?」
「治ったから来たんでしょ!」
「本当か? だってまだお前、顔赤……ブッ!」
俺が言い終わる前に、俺の顔目掛けてクッションが飛んできた。よけ切れず、見事に顔面に命中した。クッションだからそこまでダメージはないが、その行動はまるで解せない。妃芽はクッションに顔をうずめながら、「気のせいに決まってるでしょ!」と喚いている。心配してやったのに何で切れられてるのか。これ以上言うとクッションよりやばいものが飛んで来そうだから、顔には触れないことにした。
「前田さんの嫁さんがインフルだったんだってよ。お前は違ったのか?」
「……うん。普通の風邪」
「なんだ、なら良かった」
移されていたとしても、会社には行けるな。あ、でも平気か。バカは風邪引かないって言うしな。実際、風邪引いた記憶もあまりない。
妃芽がぶん投げたクッションを拾って、元あった場所──妃芽のすぐ脇に戻そうと、妃芽に歩み寄る。妃芽はピクリと身体を震わせてチラリと俺を見たが、すぐに同じようにクッションに顔をうずめた。
“熱で弱ってる女っていいよな”
前田さんの言葉が不意によぎった。あの時、妃芽は見てわかる位に弱り切っていたが、いいか悪いかなんて、そんなのは……。
“──ありがと”
声にならない声で、囁いた妃芽を思い出す。熱があって、俺の首にすがりついたその腕も身体も、熱くて。
「……」
そっと、自分の首に手を添えてしまう。あの時の熱が、蘇った気がした。そのままぼんやりと妃芽を見ていると、妃芽が顔を上げた。バッチリ、目が合う。あ、やべ。なんとなく、見ていたということがいけないことなような気がして、慌てて目をそらしたが、遅かった。
「なっ……! なに見てんのよーーー!?」
「うわぁ!?」
妃芽が持っていたクッションを、俺を窒息させんばかりの勢いで顔に押し付けてきたから、俺は考えることをやめた。
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