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優しい生活と不安
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「ここが、トイレ、洗面所はこっち。洗濯機は自由に使って。あと、お風呂はここね。部屋は、ココを使って」
合い鍵を渡される。
退院後、本当に榎本主任のご自宅に連れてこられた。医師の診断書も榎本主任が会社にもっていってくれた。主任が言ったように「三十日の休養が必要」の診断が出た。僕は、榎本主任が持ってきてくれた、榎本主任の服を借りて退院した。大きすぎる服が恥ずかしかった。
主任の家は、会社からバスで五分の高層マンションだった。コンシェルジュの居る高級そうな分譲マンション。高層階専用エレベーターで行く高層階フロアの一室で一人暮らし。三LDK。リビングダイニングは二十畳を超えている広さ。裕福な家庭とは聞いたけれど、僕には想像もつかないレベルだ。主任は一週間休みらしい。遅い夏休暇とタイミングが合ったと言っていた。それもあり、僕を招いてくれたようだ。休暇の予定が無かったのか聞くと、家でゆっくりするのが好き、と。それに料理や家事が趣味と聞いて、笑ってしまった。バリバリ仕事をこなす主任の意外な一面だった。少し笑う僕を、優しく撫でる。油断すると肩の位置がズレてしまう大きな服をそっと直される。満足そうに笑う主任。
「可愛いね」
一言が降ってくる。誰が? 何が? 意味が分からなくて先輩を見る。いつもの、穏やかな微笑み。どんな反応をしていいのか困る。よく分からない人だ。
僕の家に、服や色々取りに行くと言ったけれど、全部用意したから何も考えずに休めばいいよ、と言われる。部屋には、新しい下着類と新しい部屋着用のズボン数枚。上に着るTシャツは主任のを数枚置いてくれてある。下着類とパジャマは入院中にも買ってもらった。申し訳なくなる。代金を後で払おうと思った。
用意してもらった部屋着に着替えて、リビングにいる。大きなソファーに座っている。主任がお茶の入ったマグカップをテーブルに置く。
「あの、何か出来ることがあればやります。全部任せてしまい、ご負担おかけしてすみません」
「いいんだよ。休んでくれたら、それでいい。下村君の笑顔が戻ると良いと思っているよ」
「主任は後輩や部下の面倒を、よくみていらっしゃるんですか?」
「いや、仕事とプライベートはきっちり分けるよ」
言っている事と、やっていることが違う。今も、僕の横に座り、僕の前髪をやんわり触っている。
「自宅に連れ込んだのは下村君が初めてだよ」
前髪をいじっていた手が、大きく頭を撫でる。しばらく、そのままでお茶を飲む。ゆっくりとした時間。頭を撫でられながら、徐々に引き寄せられて、主任に寄りかかっている。いや、抱き込まれているような姿勢。コレは、良いんだろうか?
「服、やっぱり大きかったね。買って来ようか?」
頭の上から声がする。主任は百八十五センチだけど、僕は百六十五センチ。今着ている部屋着も、鎖骨が丸見えになっている。大きくてすぐにずれる服を少し直す。
「お金、勿体ないからいいです。家に行けばありますから」
「そう? じゃ、コレでいいかな?」
「はい」
僕を抱き留めるように頭を撫でていた手で、そっと首筋から鎖骨をなぞる。驚いて身体がビクリと跳ねる。
「痩せたよね」
あ、びっくりした。身体の確認か。性的な意味かと思って構えてしまった。
「入社試験の時には、もう少し普通に近い痩せ体形に見えたけど、今はガリガリだ」
入社試験に、主任いたのか。全然覚えていなかった。周りを見る余裕なんて無かった。自分でもよく内定がとれたと驚いたくらいだ。
「試験の時に、お会いしていたんですね。気づきませんでした」
「一目惚れだからね。ずっと見ていたよ」
何を言っているのだろう? 主任を見上げる。
「一目惚れなんだ。俺の事、話してもいい?」
「……はい」
「俺、昔から男性しか好きになれない。他の事は、全て親の望む通りこなしてきた。だけど、これだけはどうにもならなかった。ひた隠しにして、密かにそういう店通いもしたよ。けれど、親にバレてひどく落胆された。それから実家を出てここに居る。会社では趣味ゴルフの付き合いをしているけれど、本当は料理や家事が趣味なんだ。驚いた?」
コクコクと頷くしかできない。
「入社試験で君を見た時、希望に満ちた輝きに、胸がときめいた。輝いて見えたんだ。ばかばかしいと思うけれど、一目惚れって本当にあるんだって分かった。でも男性だ。この気持ちは蓋をしておくつもりだった。けれど、高橋が何となく俺が君を気にしているとわかったんだろう。教育係の立場で君を攻撃したね。手を出してはいけないと思いながら、心配で目が離せなくなった。文句を言わずに耐えている下村君のまっすぐな姿勢にますます惹かれた。どんどん気になって、下村君を見てしまった。それが高橋を助長させたみたいで。高橋は同期だけど、俺に対抗心があるみたいなんだ。ご両親を亡くして辛い時期に、高橋に追いつめられて辛かったよね。総務に異動してからも高橋が付きまとって、どうしようかと思っていた。あの日、倒れた君を見て頭に血が上った。高橋の事を上に報告した。総務部での下村君への陰湿な発言も秘書課職員が証明してくれた。下村君はパワハラ被害を受けたとして、長期休養が許されているんだよ。そして、俺は君をとことん甘やかしたい。下村君は俺の事を好きにならなくてもいい。ここにいる間だけ、俺が尽くしてもいいだろうか? 下村君を癒したい。こんな気持ち、初めてなんだ」
いつもの穏やかな顔じゃない。真剣に、必死に訴えている榎本主任。主任も色々抱えて生きてきたんだ。意味の分からない優しさより、安心できる優しさだ。榎本主任は信用できる。
「はい。でも、あの、性的な事は、ちょっと……」
見上げると、優しく微笑む主任。
「良かった。拒否されたらどうしようかと思いながら告白したんだ。受け入れてもらえただけで、飛び上がるほど嬉しい! 触れ合うくらいなら大丈夫?」
「はい。今くらいなら、全然大丈夫です」
「わかった。じゃ、これくらいは?」
温かい大きな体に包み込まれる。優しい抱擁に、心がふわりと撫でられるよう。主任の鼓動が耳もとに感じる。余裕な表情しているけれど、ものすごくバクバクしているのが分かる。ポーカーフェイスとのギャップに、ふふっと笑いが漏れてしまった。
「なに?」
抱擁が緩んで頭の上から聞かれる。見上げて答える。
「主任の心臓が、ドキドキしています」
「そりゃ、夢のような瞬間だからね」
二人で笑い合った。雲の上の存在の榎本主任が可愛く見えた。
「これくらいの抱擁も、あの、触れるくらいのキスも、大丈夫、です」
病院でのキスを思い出し、伝える。僕の両頬を手で覆い「ありがとう」と軽くキスをする主任。その優しい顔に、僕の胸がトクトク鳴った。
そこからは、本当に甘やかされた。少しよろけると、お姫様抱っこして運ばれる。食事も和食中心の消化にいいものを出してくれる。テレビや映画を見る時には、膝の上。重くないか聞いても、軽すぎるくらい、と包み込まれる。この人の温かさに、愛情に、いつしか心が動いていた。抱き締められれば、僕も抱きしめ返す。時々、主任の後ろから抱きついてみる。優しい笑顔が返ってくる。温かい時間に、満たされた。そっと触れるだけのキスから、舌を舐めあうキスに。主任の綺麗な顔が色気に染まると、これは僕しか知らない僕の主任だ、と心が騒いだ。いつの間にか、夜は主任のベッドで寝るようになった。セックスはしない。ただ、抱きしめ合ってキスをして寝る。主任が「幸せだ」とつぶやくと、心が温かくなった。嬉しかった。「僕も幸せです」そう言えば、額がくっつく位置で、二人で笑いあった。
明日から主任は夏季休暇を終えて出社する。二人で一週間濃厚に密着していた。主任が僕を大切に扱ってくれるのが嬉しかった。夕食後に、ソファーでキスをする。主任の膝に乗り首に腕を回す。背中を抱き留められて、心まで舐めとられているようなキス。
「主任、好きです」
自然と一言が出ていた。驚いた顔で僕を見る榎本主任。
「え? 本当に?」
「はい。好きです。榎本主任は、僕を満たしてくれます」
「嬉しい。嬉しい。秋人、大好きだ」
僕を抱き締めて、主任が泣いた。綺麗な涙を見て、僕も泣いた。
この日、人生で初めての恋人ができた。
「じゃ、行ってくるけど、家でゆっくりしているんだよ。外出はダメだよ。倒れたら怖い。いいね。飲み物も、食べ物も冷蔵庫にあるし、お菓子も買ってあるよ。ただ、胃が痛くなると困るから……」
「分かりました。さっきも聞きました。大丈夫です」
玄関先で、心配そうに僕を見る主任。過剰な心配がくすぐったくて、嬉しくて笑ってしまう。キス以上は怖い、と言ったら「気が向くまで待つから大丈夫」と言ってくれる主任。優しさが染み込むようで嬉しい。主任に抱き着いて、伸びをして軽くキスをする。頬を染めて満面の笑みを浮かべる主任。その顔を見て幸せだと感じた。きっと僕も真っ赤だ。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ガチャリと締まるドア。静かな室内。ここに一人は初めてだ。
リビングのソファーに座り、僕に恋人が出来たんだ、と幸せをかみしめる。天国の父と母に笑顔で手を振りたい気持ちだ。苦しくて、そっちに行きたいと願った時もある。人生ギリギリだと思っていたのが、主任の腕で道に戻してもらえた。ここに来て、一度も胃痛が起きない。吐き気もしない。心と腹痛は本当に直結していると実感した。
午前中は、ぼーっとして過ごした。用意してもらった昼ご飯を食べて、ふと夕ご飯のことを思った。一人暮らしは長いし、簡単な自炊はできる。冷蔵庫には食材がある。主任にご飯、作ろうかな。喜んでくれるかな? ちょっと楽しくなった。
ネットで調べて、失敗しないように作った。豆腐とわかめの味噌汁と、茄子の肉巻き。きゅうりの酢の物。簡単すぎたかな? ドキドキして主任を待つ。
十九時。ガチャリと音がして、玄関が開く。すぐに玄関に駆け寄る。
「ただいま。あれ、いい匂い」
気づいてくれた! 嬉しくて頬が緩む。
「おかえりなさい。お疲れさまでした」
笑顔で見上げると、頬を染めた主任が軽くキスをくれる。えへへ、と笑って主任の手を引く。
「え? なに?」
気づいているくせに、楽しそうに聞く主任。ニッコリ笑い返して、大きな手を引く。
「え? これ、作ってくれたの?」
紅潮した顔で嬉しそうに笑う主任。イタズラが成功したような、飛び上がりたくなる気分。
「座ってください」
カバンを預かり、椅子に誘導する。ちょっと待ってね、と走って手を洗いに行く主任。すぐに戻ってきて椅子に座る。その間にご飯を盛り付け、おかずを温める。椅子に座った主任と、何度も目が合う。そのたびに笑いあう。なんか、新婚さん? そんなことを考える自分がちょっと恥ずかしくなり、照れ笑い。幸せだ。
「すごく美味しい。疲れが吹き飛ぶ」
ニコニコ食べてくれる。心臓が嬉しい嬉しいって高鳴っている。思ったより美味しく出来て良かった。
「主任、冷蔵庫の食材勝手に使っちゃいました」
「全然いいよ。むしろ、こんなサプライズ嬉しすぎる。俺の恋人は可愛いなぁ」
照れてそんなことを言うから、こっちも照れてしまう。
「明日も、作ります。主任みたいに上手く出来ないけれど」
「いや、これは世界一美味しいご飯だよ。俺、恋人って初めてだけど、恋人の作ってくれるご飯って特別なんだね。今日の感動は忘れない」
キュン死にするって世間の言葉を体感する一言だった。嬉しすぎて、悶えてしまう。そんな僕を見て微笑む主任。父さん、母さん、僕生きていて良かった。心の中で報告した。
「じゃ、今日もゆっくりしていてね。欲しいものはネットスーパーで買ってね」
「はい。そうします」
ふわりと頭を撫でられる。嬉しくて微笑み、見上げる。
「いってらっしゃい、優さん」
驚いた顔。初めて名前で呼んでみた。えへへ、と照れ笑いする。厚い胸に抱き締められる。
「行ってきます、秋人」
あぁ、幸せだな。大きな背中を見送った。
退院から二週間。外来受診。胃カメラで胃の粘膜の様子を確認してもらった。結果は問題なし。主任が病院に付き添ってくれた。久しぶりの外。僕には部屋着しか与えられてなかったけれど、外出用の服はいつの間にか主任が用意してくれていた。
「ね、秋人。一緒に暮らしちゃおうか」
「はい」
そうなるかな、と思っていたから即答する。外だから手はつながない。寄り添って歩きながら、微笑み合う。主任とはまだ、セックスしていない。どうしても怖くて、先に進めない。焦らなくていいよ、と言ってくれる主任。優しさが嬉しい。この人と人生を歩いていけたら、僕はきっと大丈夫。そう思えた。
病院の帰りに、気になっていたから自宅に立ち寄ることにした。主任も一緒に行くと言う。散らかっていて恥ずかしいと言ったけれど、気にしないと流されてしまう。
三週間ぶりの自宅。主任の豪華な分譲マンションと比べると、ささやかすぎる家。二階建てアパートの二階の一室。玄関を開けるとすぐに五畳のDK、奥に六畳一部屋。廊下はない。締めきっていて、匂いがこもっている。すぐに部屋の換気をする。
「おじゃまします。あんまり物を置かないんだね」
部屋の環境を良くしようなんて思う暇がなく、必要最低限しかない部屋。人が立ち入るなんて想像していなかったから、質素すぎる部屋が恥ずかしい。
「ちょっと、座っていてください。ゴミとかまとめちゃいます」
手伝うよ、と言われるけれど、さすがに申し訳なくて自分でやる。冷蔵庫の中の日切れのもの、生モノが少なくてよかった。ためていた洗濯物を洗濯機にかける。あと一週間は主任の部屋で過ごすから、荷物もなくていい。でも、そのあとは会社に出勤する。そうなるとスーツや様々な荷物がいる。何を運ぼうか考える。
「あ、秋人。郵便物溜まっているよ。郵便受けから出しとくよ」
「ありがとうございます」
背の低い単身用冷蔵庫の上に、まとめて置かれる。ゴミ袋を閉じて、手を洗って郵便物を確認する。電気利用量やガス利用料の案内、広告。公共料金も携帯電話も口座引き落としにしてあるし、内容確認して捨てていいかと仕分けする。A四サイズの茶封筒。差出人も宛先も書いてない。何だこれ。糊付けされた封を開ける。
中を確認して、悲鳴を上げそうになった。A四カラー印刷の数枚。卑猥な肌色。あまりの驚きで、一瞬で汗が流れ出る。すぐ封筒に紙を戻す。心臓がバクバク鳴り響き、耳鳴りが始まる。急な心拍の増加で、目の前がくらくらした。恐怖が蘇る。なんで? なんでコレがここに? 震える手で、茶封筒をもう一度見る。表書きはない。差出人もない。誰かが、ココに直接入れている。誰? どうして?
「どうかした?」
主任に声をかけられる。心臓が飛び出そうなほど驚いて、よろけてしまう。ガタン、と音を立ててキッチンに座り込む。背中に茶封筒を必死で隠した。
「え? どうしたの?」
隣の部屋から、キッチンに近づいてくる主任。パニックになりかけていて、すぐに立てない。でも、こっちに来られたら、だめだ。見られたら、だめだ。絶対に、だめだ。隠さなきゃ。
「大丈夫、大丈夫、です。何でもないから、あ、あの、窓、窓を締めてもらって、いいですか?」
主任を見上げて、必死にお願いする。反対方向の窓に向かって。お願い。コレを隠す時間を下さい。息が上がりそうな緊張。それ以上近づかず、僕を見つめる主任。
「うん。わかった」
何か、察したかもしれない。でも、これだけは知られたくない。主任が背中を向けた隙に、シンク下の戸棚の隅に封筒をしまった。早く、早くこの場を去らなきゃ。一人でここに来て、早急にコレを処分したい。自宅に持っているのも嫌だ。いつか見つかったら、と思うと、心が凍り付く。
「あの、ありがとうございました。もう大丈夫です。ゴミ、運んじゃいます。帰りましょう」
主任をキッチンに近づけたくない。
「……どうかした? 持っていく荷物はいいの?」
穏やかな顔の主任。この人に、嫌われたくない。
「いいです。もう、十分です」
「じゃ、ゴミ、持つよ」
こっちに近寄ったらダメ!
「自分で、自分で持ちます。き、汚い、ですから」
自分で言って、汚い、と言う言葉に、心がずきりと痛んだ。そう、僕は汚いんだ。ゴミを持つ手が、カタカタ震えた。
翌日、榎本主任が出勤した後、部屋着のままで財布とケータイを持ち電車に乗り、自宅に向かった。とにかく早く、処分したかった。早く、早く。自宅のカギを開け、シンクの下を確認する。良かった。茶封筒はそのままある。中身をそっと見る。とても直視出来ず、上からのぞくだけ。そのまま入っている。誰にも見られていない。ほっとしたら涙が流れた。茶封筒を床に置き、身体を震わせて、泣いた。どうやって、処分しよう。シュレッダーは会社に行かないと無い。コレはどこにも持ち出したくない。ゴミ袋に入れて、中身が見えたらと思うと、その辺のゴミ箱や燃えるゴミで出すのも怖い。燃えるゴミ、そうか。自分で燃やしてしまえばいい。もう一度、茶封筒をシンク下の扉に隠す。近くのコンビニに行く。灰皿とライターを買い、駆け戻る。A四サイズの封筒を燃やすなら、小さくしないと。触るのもゾッとする。封筒ごとびりびりと破き、灰皿の上で燃やす。換気扇の下で、泣きながら作業した。時々見たくない場面が見えてしまい、数回嘔吐した。思い出したくない恐怖が蘇る。燃やしきるのに一時間かかった。苦しくて、床に突っ伏して泣いた後、バレないように帰らなきゃと思った。ふと、玄関扉に備え付けの郵便受けが気になった。まさか、ね。もう、ないよね。そっと、中を覗く。悲鳴を上げそうな口を、手で押さえた。尻もちをついてしまい、すぐに立てない。なんで? どうして? 震える手で、郵便受けからソレを出す。茶封筒じゃない。透明のクリアファイル。A四サイズカラー印刷が見えている。見たくない! 我慢できず、傍のシンクで胃液を吐く。吐きすぎて胃が痛い。玄関に落ちたファイルを拾えない。怖くて、横を向いたまま、クリアファイルをひっくり返す。ダメだ。両面にカラー印刷が見えている。こらえきれず嗚咽を漏らして泣いた。丁寧に、クリアファイルをセロハンテープでがっちり留めてある。そのままじゃ燃やせない。部屋からハサミを取り出し、テープを切る。手が震えて、指を切ってしまった。よく見ると手をあちこち火傷していた。構わずに、ファイルから中身を取り出し破く。もう一度、換気扇の下で燃やす。呼吸が苦しかった。どうして? なんで? そればかりが頭をめぐっていた。主任に、絶対に見られたくない。
自宅を出る前に、郵便受けを何度も見た。また入っているんじゃないかと不安で仕方なかった。
主任の家に帰ったのは、夕方過ぎていた。頭の中は、あの画像のことでいっぱいだった。明日、また見てみなきゃ。もし入れられた投函物がポストからはみ出していたら、どうしよう。誰かが見てしまったら、どうしよう。主任が僕の家を見に行ったりしたら、どうしよう。不安で、どうしたらいいのか頭が回らない。どうしよう。それしか浮かばない。ガチャリ、と開錠の音。はっとした。玄関で座り込んだままだった。ドアを開けて、僕を見て驚く榎本主任。
「え? あれ? どうしたの?」
見上げたまま、どう答えていいのか分からなくなる。
「あ、あの……おかえり、なさい……」
一言がやっと出た。
「あ、夕飯、作っていません……。すみません」
そうだ。主任の、ご飯。壁に手をついて、立ちあがろうとすると、手を掴まれる。
「コレ、どうしたの?」
主任が握る手を見た。忘れていた。火傷と切り傷。何て説明したらいい? ただ、主任を見つめる事しか出来ない。身体が、震える。
「うん。分かった。言えない何かがあったんだね。怖かったのかな?」
ふわりと抱き込まれる。思いがけない優しさに、背中を撫でる手に、涙があふれた。止まらない震えをなだめるような優しい手。この手を失いたくない。僕の汚れたところは、絶対に、言えない。
そのまま、抱き上げられてソファーに降ろされる。
「待っていて」
スーツのまま、引き出しをあけて色々持ってくる。ただ、その動きを目で追っていた。
「お待たせ。手を見てもいいかな?」
優しく、僕の反応を見るように声をかけてくれる。主任の顔を見て、コクリと頷く。
「痛そうだね。切り傷に、火傷? かな?」
消毒をして、薬をつけて、手にガーゼが巻かれる。
「絆創膏じゃ覆えないから、ガーゼにするよ。明日病院行こうか?」
明日? 明日はポスト確認に行かなきゃ。病院の帰りに主任が一緒に家に来たら、見られちゃう。
「大丈夫、大丈夫です。すぐ、治ります」
必死で断る。
「今日、ご飯食べた?」
ご飯? 食べたかな? 記憶になくて首をかしげる。
「どこかに、出かけたのかな?」
「行っていません! どこにも! ここに、いました!」
必死で答える。嘘をついてゴメンなさい。
「うん。わかった。じゃ、座っていて」
榎本主任の動きを目で追う。キッチンで何かをして、戻ってくる。
「はい、口を開けて」
小さく口を開けると、スプーンで甘いものが流し込まれる。温かい。甘い。葛湯だ。懐かしい甘さに、癒される。ほっと一息つくと、続けて一口流し込まれる。心まで染みこむ甘さに、気が付くと雛のように口を開けていた。主任に抱きかかえられて、葛湯を与えられている。身体に力が入らない。その内にウトウトして、いつの間にか眠っていた。
夜中に目が覚めた。そうだ。昨晩は食べながら寝ちゃったような気がする。主任のベッドで、一緒に寝ていた。優しい腕からモゾリと抜け出し、トイレに行く。午前四時。昨日の事を思い返す。おかしいと思われたよね。ため息をついて、主任と一緒にいるべきじゃないのかも、と考えた。しばらく、家に帰ろう。ダイニングテーブルに、「仕事が始まるので自分の家に戻ります。お世話になりました。ありがとうございました。しばらく一人にしてください」と手紙を置く。合い鍵も、一緒に置いた。初めての恋人で、幸せだった。少しの間の、夢だった。そういえば、主任の携帯番号もアドレスも知らない。ちょっと笑えた。
そっと部屋を抜け出す。オートロックのマンション。鍵を持たずに出れば、もう入れない。財布とケータイは忘れずに持つ。あと、自宅のカギ。明け方だから、ひっそりと動ける。溢れる涙を、見られることもない。
電車もない時間。歩いて自宅に向かう。悲しくて、苦しくて。泣きながら戻った自宅。朝日がまぶしかった。
すぐに郵便受けを確認する。何もない。心から安堵した。久しぶりの自分のベッド。学生時代から使っているシングルの安いベッド。榎本主任のベッドに慣れた後だと、安っぽさが身に染みて分かる。
住む世界が違ったんだと考えて、冷たい布団でうとうとした。ぼんやりと目が覚めた。時間を確認する。午前九時。歩いて疲れたのか、短時間でぐっと休めた。それでも重い頭を起こし、水を飲む。シンクでため息をつく。ふと、郵便受けが気になった。すぐに確認する。無かった。ほっとしてへたり込む。
それから、郵便受けを気にし続けての四日を過ごした。
なぜか携帯電話に榎本主任の電話番号とメールアドレスが登録されていて、毎日何回かメールが来る。優しいメールだ。「榎本 優」の表示が出ると、心が温まる。その瞬間は、頬が緩む。「食べている?」「手の怪我は大丈夫?」「仕事は無理しなくていいよ」と優しい言葉がたくさん。嬉しくて携帯電話を抱き締める。全てのメールに、「ありがとうございます」と返事をする。僕にはそれしか言えないけれど、大好きな気持ちが伝わりますように、と気持ちを込めて送信ボタンを押す。
心配した投函物は届かず、見張っていなくても大丈夫かも、と思えてきた。きっと、前回のファイルが最後だ。そう思い込もうとした。明日から病気休暇を終えて出勤しなくては。そう思って、自宅に来てから水しか飲んでいない現実に思い至った。仕事中に倒れたら、困る。慌ててコンビニにゼリー飲料やおにぎりなど食べられそうなものを買いに出る。外出しようと起ちあがると、眩暈がひどくて、本格的にヤバいと感じた。ゆっくり歩くにも、息が切れる。やっとコンビニから帰ってきて、ゼリー飲料を口にする。身体に染みわたる。スポーツドリンクも飲んで、おにぎりを一個食べる。美味しい。お腹、空いていたんだ。全身の感覚が鈍くなっていて、よく分からなくなっていた。ふと手を見つめる。かさぶたになっている火傷のあとと切り傷。大丈夫、傷は放っておいても治る。どんな傷でも。
食べ物をとって、少し気持ちが落ち着いた。癖になった郵便受けの確認。何も来ていない。安心して、榎本主任に自分からメールをした。「明日は会社に行きます。会社で、久しぶりに会えることを楽しみにしています」送信ボタンを押して、スーツ姿の主任を思い浮べ、主任の温かい身体を思い出し、ゆっくり眠った。
朝起きても郵便物は無かった。安心して、出勤した。久しぶりのスーツ。久しぶりの総務部総務課。
「ご迷惑おかけして、すみませんでした」
課長と先輩に挨拶をする。「いいよ」とさらりと流される。榎本主任から「あとで総務課に顔出すね」というメールに「楽しみにしています」と返せるほど、心に余裕が出来ていた。
仕事の準備のため、PCを立ち上げ、デスクの引き出しを開けた。開けた引き出しをすぐに閉めた。手で押さえて、誰にも見られなかったか周囲を確認する。心臓がバクバク鳴り始める。隣のデスクの先輩と契約社員さんがいるから、もう一度開けることは出来ない。引き出しに、肌色の印刷物が、見えた。冷汗が出る。沸き上がる吐き気をどうにか堪える。席を離れるわけにいかない。トイレに行けない。歯を食いしばり、深呼吸。デスクの他の引き出しを慎重に開けていく。大丈夫、他の引き出しには入れられていない。真ん中の引き出しが開かないよう、身体で塞ぐ。デスクに密着して、隙間が無いように。頭がガンガンした。
「下村君」
カウンターに、穏やかな表情の榎本主任。朝から会いに来てくれた。見たかった主任。会いたかった優さん。だけど、席を離れるのが怖い。困ってしまい、なかなか席を立てずにいると、横の席の先輩から「呼ばれているよ」と声をかけられる。「はい」と返事をし、席を立つ。椅子をしっかり席につけて、引き出しが開けられませんように、と願いカウンターに行く。
「これ、取引先の食事接待の領収書。申請書はこれ。確認、お願いします。ね、下村君、ちゃんと食べている?」
領収書の提出をしながら、小声で声をかけられる。会いたかった主任なのに、デスクの引き出しが気になって、話が出来ない。
「はい、確かに、お預かりします」
事務的な会話をして、視界の隅にいれた自分のデスクに誰も触れていないことをチラチラ確認する。
「分かった。また、メールするね」
寂しそうに微笑む主任。そんな顔、見たことなかった。心がズキンと痛んだ。去っていく後姿を、目で追った。締め付けられる思いで、席に戻る。
昼休み。両隣が席を立った間に、さっとデスクの引き出しから印刷物を抜く。すぐにカバンにしまう。ドキドキした。誰も見ていないはず。汗がにじんで、頭痛がした。やっと席を離れることができる。一呼吸付き、立ちあがったとき、目の前が暗転した。ガタンと椅子を倒して床に座り込んでしまう。耳鳴りと気持ち悪さと、人の声。
「すみません、大丈夫です」
と何度も繰り返したけれど、そのまま医務室に連れていかれる。無関心だと思っていた隣の席の先輩が付き添ってくれた。ちょうど産業医の先生が来ている日で、もう少し休暇をとるか聞かれた。絶対に休みたくなかった。引き出しの中が心配で仕方ないからだ。鍵のかからない引き出し。
「下村君?」
榎本主任が顔を出す。
「朝、顔色が悪かったから総務部に行ってみたんだ。倒れたの?」
「違います。ふらついただけで、全然、大丈夫です」
「じゃ、俺は戻るから」
「あ、ありがとうございました」
ついてきてくれた先輩が、職場に戻る。昼休みが終わるまでに僕も戻らないと。
「ちゃんと薬は飲んでいますか?」
産業医の先生に聞かれる。あれ? どうだったかな。ここ数日食事をしていたのか、それさえもよく覚えていない。
「下村さん、ストレス性胃潰瘍は再発性の高いものです。まず、慢性胃炎をちゃんと治療していかないといけません。内服薬は継続して指示通りに内服しないと。自己管理をきちんと行ってください。ご自分を大切にしてください」
産業医の先生に、ゆっくり話しかけられる。
「誰か、食事や薬の管理を頼れるような人はいませんか? 奥さんやご家族は?」
「……独りです」
「先生、今は俺が下村君の面倒を見ています。胃潰瘍の退院後も、うちにいました。今日の様子で休養が必要なら、休暇を取らせようかと思っていました。どうでしょう?」
「大丈夫です! 本当に、大丈夫です。これ以上迷惑は、かけられません」
デスクを長期間空席にすることは出来ない。必死になり、手が震えた。
「下村さん、一度、心療内科を受診してみませんか?」
心療内科? 僕、うつ病と思われているのか。
「大丈夫です。本当に、大丈夫ですから」
目の前の困った顔の二人。立ち上がり頭を下げる。
「ありがとうございました。職場に戻ります」
「まって、一緒に行くよ」
榎本主任を見上げる。すごい人だ。さっきの困った顔も、朝の寂しそうな顔も、すぐに消し去って穏やかな表情をしている。僕には真似できない。苦しさを、恐怖を隠すことが出来ない。どうしたらいいんだろう。
総務部まで無言で歩いた。総務課に行くと、僕のカバンをひょいっと持つ主任。すぐに取り返して、胸に抱える。びっくりした。一瞬で汗が噴き出た。カバンを持つ手が震える。
「今日は帰ろう」
優しく主任が言う。ふと周りを見ると、そんな僕たちを、心配そうに皆が見ている。目線が、怖かった。カバンを抱える手に力を入れる。
「島田課長、下村君、早退させます。状況によっては、落ち着くまでしばらく休ませます」
「そうですね。そうしてください。体調良くなるまで、無理しないほうが良いですよ」
「また、ご連絡入れます」
僕の事を、何で勝手に話しているんだろう。休むのは、困る。困るんです。言葉を挟みたいのに、皆の目線に身体が震えて、声が出ない。榎本主任に背中を押されて、気が付いたら一階のロビーにいた。主任がタクシーを呼んでくれていた。タクシーの運転手さんに、主任が行き先を告げ乗り込む。僕は、このカバンを奪われないことだけしか考えていなかった。
気が付くと、僕の家のアパートの前で主任とタクシーを降りていた。僕の、家? 主任を見上げる。きっと、一緒に家に来るつもりだよね。郵便受けは、今朝は空だった。ごくりと唾を飲み込む。足が、動かない。
「俺の家より、今はいいのかと思って」
鼓動が速い心臓と、鉛のような足。促されて、歩かないワケに行かない。玄関まで、ゆっくり行き、ふと鍵はカバンの中だと思い出す。カバン、開けられない。ドアの前で、立ち尽くす。
「鍵、出ない?」
主任が見られない。カバンを握りしめる腕が震える。
「あれ? 何か、飛び出しちゃってるね」
一瞬で、郵便受けに目が行った。ファイルだ! 瞬時に、出ているものを奥に押し込み、ドアにへばりつく。足元に、転がるカバン。足で引き寄せようとするけれど、一瞬早く主任が拾う。汚れをぱんぱんと払ってくれて、こちらに渡してくれる、かと思ったけれど――。
「何を、隠しているの?」
僕の、目の前でカバンが開けられる。主任の、驚きの表情。
嫌だ!! 見ないで!!
どこかで、悲鳴が聞こえた。気が付いたら、階段を転げ落ちていた。あちこちぶつけて、すりむいて、それでも、がむしゃらに逃げようとした。涙が、視界の邪魔をする。追いついた主任に抱き留められる。嫌だ! 嫌だ! 大声を上げて、暴れたと思う。僕が落ち着くまで、抱きしめたまま、「ゴメン、ゴメン」と耳元に声が響いていた。声を出し疲れて、どうしても逃げられない優しい拘束に抵抗する気力も無くなり、嗚咽だけが漏れる。
「ポストの中も?」
聞かれて、コクリと頷く。
「すぐに、戻ろう」
コクリと頷く。もう、隠す意味は、ない。もう、全部どうでも良かった。心臓が凍ったみたいに、全身が冷たい。
このまま、僕の心も心臓も止まってしまえばいい。
ゆっくりとアパートの部屋に入る。立ち尽くす僕と、郵便受けを開ける主任。主任がファイルを見る。直視出来ない。顔を手で覆って、嗚咽を溢して泣く。その場に座り込む僕に、そっと主任の上着がかけられる。何か燃える匂い。キッチンを見ると、榎本主任が、燃やしている。きっと、灰皿と燃えカスと、ライターで気づいたんだろう。僕は、現実を受け入れられなくて、震えて泣いた。
主任は何も言わなかった。
「中に、行こうか?」
しばらくして声がかかる。ぼんやりと床を見つめる。近づく主任に抱き上げられる。玄関から部屋の中に運ばれる。「触るよ?」と声を駆けながら、手足の打ち身や擦り傷を確認する主任。タオルを濡らしてきて、汚れを拭いてくれる。
「聞いてもいい?」
優しい声。頷きながら、涙がこぼれた。
「いつの、出来事?」
誰にも言えなかった、あのこと。涙がとめどなく流れる。
「……大学の、四年の、とき」
敬語を使う余裕がなくて、震える声で答える。
「同意、じゃない、よね?」
「同意なんかしない! あんな、あんなの!」
一気に興奮して、息が上がる。
「わかった。ゆっくりでいい。何が起きて、どうして今、写真が入れられているのか、分かることを教えてくれる?」
どうせ、見られたんだ。もう、隠す必要もない。床を見つめて、覚悟を決める。
「大学の、友達でした。いつも五人でいました。就職内定が、僕が一番にでました。嬉しくてそれを言ったら、卒業旅行を兼ねてキャンプ場でお祝いしようって。平日の人気のないキャンプ場でした。レンタカーで行って、夜に、そうなりました。いつも後ろにいたお前が先に内定を取るなんて許さない、と殴られて。気を失っても、たたき起こされて、苦しくても辛くても、やめてもらえなくて。動画も写真も、とられました。信じていたものが全て崩れ落ちました。朝、お腹が痛くて目が覚めました。僕は、ドロドロの汚いまま床に放置されていました。友人たちは、レンタカーで帰ってしまっていました。ケータイに写真が送られてきて、片付けしておけって」
淡々と話しながら、流れる涙を止めることが出来なかった。目を閉じて、続けた。
「泣きながら、コテージを片付けました。痛む身体で、何度も嘔吐して、本当に惨めでした。辛い身体を引きずって山を歩いて下りました。それから、卒業まで大学には行っていません。ケータイも変えて、あの四人とは、連絡もとっていません。引っ越しもして、忘れることなんてできないけれど、頭の隅に追いやってきたんです。だけど、主任と一緒に 病院に行った日。郵便受けに、その時の写真が入っていて。ショックで全身が震えました。絶対に、見られたくなかった。どうにか隠したかった。翌日、必死で燃やしました。でも、また投函されて。怖くて、ここで見張っていました。どうしたらいいか分からなかった。自宅に帰ってからは、一回も投函されなくて。もう大丈夫なのかなって出社したら、……デスクの、引き出しに、あったんです」
とめどなく溢れる涙と嗚咽。顔を手で覆う。もう、放っておいて欲しい。もう、汚い自分も、苦しい人生も、怖い思いも、全てが嫌だ。
「……これで全部です。もう、一人にしてください‥…」
吐き出すように声に出す。
少しの沈黙。
「わかった。そいつら、四人、殺してこようか」
とても優しい声。え? 優しい声が、何て言った?
主任を見る。僕に、優しい顔を見せているけれど、目が、本気だ。ぞっとする顔だ。驚いて、涙が止まった。こんな怒り方をする人を、初めて見た。
「心配しなくていいよ。秋人は、これから少しの苦痛も感じなくていい。俺が、全部守るから」
優しい声。穏やかな顔を向けていながら、主任が涙を流している。そっと温かな涙に触れる。すると、こらえきれないように、主任の顔がゆがむ。僕を優しく抱きこむと、嗚咽を溢して主任が泣いた。その、慟哭のような男泣きに、僕も一緒に泣いていた。人と一緒に泣くなんて、初めてだった。
気が付いたら、温かな腕の中だった。主任の膝の上で、抱き留められて寝ていた。見上げると、僕を見下ろす優しい瞳。この瞳は、どこまでも優しく深い愛情を僕に伝えている。泣きはらした目元。そっと頬に触れてみる。ニコリと目元が和らぐ。つられて、頬が緩む。何も言わなくても、分かる。主任は、僕を愛している。僕を見る目が、僕に触れている体温から、心臓の音から、全てを使って伝えてきている。これほどの「愛している」に包まれて、僕は幸せだ。
「優さん、人殺しは、だめです」
ふふっと笑う主任。あれ? 聞いてくれていない、かも?
「あの、本当に、ダメです、よ?」
恐る恐る、たずねる。また、ふふっと笑う主任。笑っているのに、目が怖い。
「優さんが、殺人者になってほしくないんです。お願いします」
必死になってしまった。
「わかっているよ。大丈夫。よく、話してくれたね。あとは、俺に任せていい。苦しかったね。俺が半分、苦しさをもらうよ。秋人が少し楽になればいいな」
「……これがバレたら、汚いって捨てられると思っていました。こんな僕でも受け入れてもらえるなんて、それだけで、嬉しい」
また、涙がこぼれる。
「愛しているよ。秋人がいると、心が温かいもので埋め尽くされるんだ。こんな思いは初めてだよ。失いたくない。秋人が大切なんだ。一緒に、俺の家に帰ろう?」
しっかりと頷いた。優さんを信じて、頼っていいんだ。逞しい身体に抱きついて、一言を、伝える。
「僕も、愛しています」
合い鍵を渡される。
退院後、本当に榎本主任のご自宅に連れてこられた。医師の診断書も榎本主任が会社にもっていってくれた。主任が言ったように「三十日の休養が必要」の診断が出た。僕は、榎本主任が持ってきてくれた、榎本主任の服を借りて退院した。大きすぎる服が恥ずかしかった。
主任の家は、会社からバスで五分の高層マンションだった。コンシェルジュの居る高級そうな分譲マンション。高層階専用エレベーターで行く高層階フロアの一室で一人暮らし。三LDK。リビングダイニングは二十畳を超えている広さ。裕福な家庭とは聞いたけれど、僕には想像もつかないレベルだ。主任は一週間休みらしい。遅い夏休暇とタイミングが合ったと言っていた。それもあり、僕を招いてくれたようだ。休暇の予定が無かったのか聞くと、家でゆっくりするのが好き、と。それに料理や家事が趣味と聞いて、笑ってしまった。バリバリ仕事をこなす主任の意外な一面だった。少し笑う僕を、優しく撫でる。油断すると肩の位置がズレてしまう大きな服をそっと直される。満足そうに笑う主任。
「可愛いね」
一言が降ってくる。誰が? 何が? 意味が分からなくて先輩を見る。いつもの、穏やかな微笑み。どんな反応をしていいのか困る。よく分からない人だ。
僕の家に、服や色々取りに行くと言ったけれど、全部用意したから何も考えずに休めばいいよ、と言われる。部屋には、新しい下着類と新しい部屋着用のズボン数枚。上に着るTシャツは主任のを数枚置いてくれてある。下着類とパジャマは入院中にも買ってもらった。申し訳なくなる。代金を後で払おうと思った。
用意してもらった部屋着に着替えて、リビングにいる。大きなソファーに座っている。主任がお茶の入ったマグカップをテーブルに置く。
「あの、何か出来ることがあればやります。全部任せてしまい、ご負担おかけしてすみません」
「いいんだよ。休んでくれたら、それでいい。下村君の笑顔が戻ると良いと思っているよ」
「主任は後輩や部下の面倒を、よくみていらっしゃるんですか?」
「いや、仕事とプライベートはきっちり分けるよ」
言っている事と、やっていることが違う。今も、僕の横に座り、僕の前髪をやんわり触っている。
「自宅に連れ込んだのは下村君が初めてだよ」
前髪をいじっていた手が、大きく頭を撫でる。しばらく、そのままでお茶を飲む。ゆっくりとした時間。頭を撫でられながら、徐々に引き寄せられて、主任に寄りかかっている。いや、抱き込まれているような姿勢。コレは、良いんだろうか?
「服、やっぱり大きかったね。買って来ようか?」
頭の上から声がする。主任は百八十五センチだけど、僕は百六十五センチ。今着ている部屋着も、鎖骨が丸見えになっている。大きくてすぐにずれる服を少し直す。
「お金、勿体ないからいいです。家に行けばありますから」
「そう? じゃ、コレでいいかな?」
「はい」
僕を抱き留めるように頭を撫でていた手で、そっと首筋から鎖骨をなぞる。驚いて身体がビクリと跳ねる。
「痩せたよね」
あ、びっくりした。身体の確認か。性的な意味かと思って構えてしまった。
「入社試験の時には、もう少し普通に近い痩せ体形に見えたけど、今はガリガリだ」
入社試験に、主任いたのか。全然覚えていなかった。周りを見る余裕なんて無かった。自分でもよく内定がとれたと驚いたくらいだ。
「試験の時に、お会いしていたんですね。気づきませんでした」
「一目惚れだからね。ずっと見ていたよ」
何を言っているのだろう? 主任を見上げる。
「一目惚れなんだ。俺の事、話してもいい?」
「……はい」
「俺、昔から男性しか好きになれない。他の事は、全て親の望む通りこなしてきた。だけど、これだけはどうにもならなかった。ひた隠しにして、密かにそういう店通いもしたよ。けれど、親にバレてひどく落胆された。それから実家を出てここに居る。会社では趣味ゴルフの付き合いをしているけれど、本当は料理や家事が趣味なんだ。驚いた?」
コクコクと頷くしかできない。
「入社試験で君を見た時、希望に満ちた輝きに、胸がときめいた。輝いて見えたんだ。ばかばかしいと思うけれど、一目惚れって本当にあるんだって分かった。でも男性だ。この気持ちは蓋をしておくつもりだった。けれど、高橋が何となく俺が君を気にしているとわかったんだろう。教育係の立場で君を攻撃したね。手を出してはいけないと思いながら、心配で目が離せなくなった。文句を言わずに耐えている下村君のまっすぐな姿勢にますます惹かれた。どんどん気になって、下村君を見てしまった。それが高橋を助長させたみたいで。高橋は同期だけど、俺に対抗心があるみたいなんだ。ご両親を亡くして辛い時期に、高橋に追いつめられて辛かったよね。総務に異動してからも高橋が付きまとって、どうしようかと思っていた。あの日、倒れた君を見て頭に血が上った。高橋の事を上に報告した。総務部での下村君への陰湿な発言も秘書課職員が証明してくれた。下村君はパワハラ被害を受けたとして、長期休養が許されているんだよ。そして、俺は君をとことん甘やかしたい。下村君は俺の事を好きにならなくてもいい。ここにいる間だけ、俺が尽くしてもいいだろうか? 下村君を癒したい。こんな気持ち、初めてなんだ」
いつもの穏やかな顔じゃない。真剣に、必死に訴えている榎本主任。主任も色々抱えて生きてきたんだ。意味の分からない優しさより、安心できる優しさだ。榎本主任は信用できる。
「はい。でも、あの、性的な事は、ちょっと……」
見上げると、優しく微笑む主任。
「良かった。拒否されたらどうしようかと思いながら告白したんだ。受け入れてもらえただけで、飛び上がるほど嬉しい! 触れ合うくらいなら大丈夫?」
「はい。今くらいなら、全然大丈夫です」
「わかった。じゃ、これくらいは?」
温かい大きな体に包み込まれる。優しい抱擁に、心がふわりと撫でられるよう。主任の鼓動が耳もとに感じる。余裕な表情しているけれど、ものすごくバクバクしているのが分かる。ポーカーフェイスとのギャップに、ふふっと笑いが漏れてしまった。
「なに?」
抱擁が緩んで頭の上から聞かれる。見上げて答える。
「主任の心臓が、ドキドキしています」
「そりゃ、夢のような瞬間だからね」
二人で笑い合った。雲の上の存在の榎本主任が可愛く見えた。
「これくらいの抱擁も、あの、触れるくらいのキスも、大丈夫、です」
病院でのキスを思い出し、伝える。僕の両頬を手で覆い「ありがとう」と軽くキスをする主任。その優しい顔に、僕の胸がトクトク鳴った。
そこからは、本当に甘やかされた。少しよろけると、お姫様抱っこして運ばれる。食事も和食中心の消化にいいものを出してくれる。テレビや映画を見る時には、膝の上。重くないか聞いても、軽すぎるくらい、と包み込まれる。この人の温かさに、愛情に、いつしか心が動いていた。抱き締められれば、僕も抱きしめ返す。時々、主任の後ろから抱きついてみる。優しい笑顔が返ってくる。温かい時間に、満たされた。そっと触れるだけのキスから、舌を舐めあうキスに。主任の綺麗な顔が色気に染まると、これは僕しか知らない僕の主任だ、と心が騒いだ。いつの間にか、夜は主任のベッドで寝るようになった。セックスはしない。ただ、抱きしめ合ってキスをして寝る。主任が「幸せだ」とつぶやくと、心が温かくなった。嬉しかった。「僕も幸せです」そう言えば、額がくっつく位置で、二人で笑いあった。
明日から主任は夏季休暇を終えて出社する。二人で一週間濃厚に密着していた。主任が僕を大切に扱ってくれるのが嬉しかった。夕食後に、ソファーでキスをする。主任の膝に乗り首に腕を回す。背中を抱き留められて、心まで舐めとられているようなキス。
「主任、好きです」
自然と一言が出ていた。驚いた顔で僕を見る榎本主任。
「え? 本当に?」
「はい。好きです。榎本主任は、僕を満たしてくれます」
「嬉しい。嬉しい。秋人、大好きだ」
僕を抱き締めて、主任が泣いた。綺麗な涙を見て、僕も泣いた。
この日、人生で初めての恋人ができた。
「じゃ、行ってくるけど、家でゆっくりしているんだよ。外出はダメだよ。倒れたら怖い。いいね。飲み物も、食べ物も冷蔵庫にあるし、お菓子も買ってあるよ。ただ、胃が痛くなると困るから……」
「分かりました。さっきも聞きました。大丈夫です」
玄関先で、心配そうに僕を見る主任。過剰な心配がくすぐったくて、嬉しくて笑ってしまう。キス以上は怖い、と言ったら「気が向くまで待つから大丈夫」と言ってくれる主任。優しさが染み込むようで嬉しい。主任に抱き着いて、伸びをして軽くキスをする。頬を染めて満面の笑みを浮かべる主任。その顔を見て幸せだと感じた。きっと僕も真っ赤だ。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ガチャリと締まるドア。静かな室内。ここに一人は初めてだ。
リビングのソファーに座り、僕に恋人が出来たんだ、と幸せをかみしめる。天国の父と母に笑顔で手を振りたい気持ちだ。苦しくて、そっちに行きたいと願った時もある。人生ギリギリだと思っていたのが、主任の腕で道に戻してもらえた。ここに来て、一度も胃痛が起きない。吐き気もしない。心と腹痛は本当に直結していると実感した。
午前中は、ぼーっとして過ごした。用意してもらった昼ご飯を食べて、ふと夕ご飯のことを思った。一人暮らしは長いし、簡単な自炊はできる。冷蔵庫には食材がある。主任にご飯、作ろうかな。喜んでくれるかな? ちょっと楽しくなった。
ネットで調べて、失敗しないように作った。豆腐とわかめの味噌汁と、茄子の肉巻き。きゅうりの酢の物。簡単すぎたかな? ドキドキして主任を待つ。
十九時。ガチャリと音がして、玄関が開く。すぐに玄関に駆け寄る。
「ただいま。あれ、いい匂い」
気づいてくれた! 嬉しくて頬が緩む。
「おかえりなさい。お疲れさまでした」
笑顔で見上げると、頬を染めた主任が軽くキスをくれる。えへへ、と笑って主任の手を引く。
「え? なに?」
気づいているくせに、楽しそうに聞く主任。ニッコリ笑い返して、大きな手を引く。
「え? これ、作ってくれたの?」
紅潮した顔で嬉しそうに笑う主任。イタズラが成功したような、飛び上がりたくなる気分。
「座ってください」
カバンを預かり、椅子に誘導する。ちょっと待ってね、と走って手を洗いに行く主任。すぐに戻ってきて椅子に座る。その間にご飯を盛り付け、おかずを温める。椅子に座った主任と、何度も目が合う。そのたびに笑いあう。なんか、新婚さん? そんなことを考える自分がちょっと恥ずかしくなり、照れ笑い。幸せだ。
「すごく美味しい。疲れが吹き飛ぶ」
ニコニコ食べてくれる。心臓が嬉しい嬉しいって高鳴っている。思ったより美味しく出来て良かった。
「主任、冷蔵庫の食材勝手に使っちゃいました」
「全然いいよ。むしろ、こんなサプライズ嬉しすぎる。俺の恋人は可愛いなぁ」
照れてそんなことを言うから、こっちも照れてしまう。
「明日も、作ります。主任みたいに上手く出来ないけれど」
「いや、これは世界一美味しいご飯だよ。俺、恋人って初めてだけど、恋人の作ってくれるご飯って特別なんだね。今日の感動は忘れない」
キュン死にするって世間の言葉を体感する一言だった。嬉しすぎて、悶えてしまう。そんな僕を見て微笑む主任。父さん、母さん、僕生きていて良かった。心の中で報告した。
「じゃ、今日もゆっくりしていてね。欲しいものはネットスーパーで買ってね」
「はい。そうします」
ふわりと頭を撫でられる。嬉しくて微笑み、見上げる。
「いってらっしゃい、優さん」
驚いた顔。初めて名前で呼んでみた。えへへ、と照れ笑いする。厚い胸に抱き締められる。
「行ってきます、秋人」
あぁ、幸せだな。大きな背中を見送った。
退院から二週間。外来受診。胃カメラで胃の粘膜の様子を確認してもらった。結果は問題なし。主任が病院に付き添ってくれた。久しぶりの外。僕には部屋着しか与えられてなかったけれど、外出用の服はいつの間にか主任が用意してくれていた。
「ね、秋人。一緒に暮らしちゃおうか」
「はい」
そうなるかな、と思っていたから即答する。外だから手はつながない。寄り添って歩きながら、微笑み合う。主任とはまだ、セックスしていない。どうしても怖くて、先に進めない。焦らなくていいよ、と言ってくれる主任。優しさが嬉しい。この人と人生を歩いていけたら、僕はきっと大丈夫。そう思えた。
病院の帰りに、気になっていたから自宅に立ち寄ることにした。主任も一緒に行くと言う。散らかっていて恥ずかしいと言ったけれど、気にしないと流されてしまう。
三週間ぶりの自宅。主任の豪華な分譲マンションと比べると、ささやかすぎる家。二階建てアパートの二階の一室。玄関を開けるとすぐに五畳のDK、奥に六畳一部屋。廊下はない。締めきっていて、匂いがこもっている。すぐに部屋の換気をする。
「おじゃまします。あんまり物を置かないんだね」
部屋の環境を良くしようなんて思う暇がなく、必要最低限しかない部屋。人が立ち入るなんて想像していなかったから、質素すぎる部屋が恥ずかしい。
「ちょっと、座っていてください。ゴミとかまとめちゃいます」
手伝うよ、と言われるけれど、さすがに申し訳なくて自分でやる。冷蔵庫の中の日切れのもの、生モノが少なくてよかった。ためていた洗濯物を洗濯機にかける。あと一週間は主任の部屋で過ごすから、荷物もなくていい。でも、そのあとは会社に出勤する。そうなるとスーツや様々な荷物がいる。何を運ぼうか考える。
「あ、秋人。郵便物溜まっているよ。郵便受けから出しとくよ」
「ありがとうございます」
背の低い単身用冷蔵庫の上に、まとめて置かれる。ゴミ袋を閉じて、手を洗って郵便物を確認する。電気利用量やガス利用料の案内、広告。公共料金も携帯電話も口座引き落としにしてあるし、内容確認して捨てていいかと仕分けする。A四サイズの茶封筒。差出人も宛先も書いてない。何だこれ。糊付けされた封を開ける。
中を確認して、悲鳴を上げそうになった。A四カラー印刷の数枚。卑猥な肌色。あまりの驚きで、一瞬で汗が流れ出る。すぐ封筒に紙を戻す。心臓がバクバク鳴り響き、耳鳴りが始まる。急な心拍の増加で、目の前がくらくらした。恐怖が蘇る。なんで? なんでコレがここに? 震える手で、茶封筒をもう一度見る。表書きはない。差出人もない。誰かが、ココに直接入れている。誰? どうして?
「どうかした?」
主任に声をかけられる。心臓が飛び出そうなほど驚いて、よろけてしまう。ガタン、と音を立ててキッチンに座り込む。背中に茶封筒を必死で隠した。
「え? どうしたの?」
隣の部屋から、キッチンに近づいてくる主任。パニックになりかけていて、すぐに立てない。でも、こっちに来られたら、だめだ。見られたら、だめだ。絶対に、だめだ。隠さなきゃ。
「大丈夫、大丈夫、です。何でもないから、あ、あの、窓、窓を締めてもらって、いいですか?」
主任を見上げて、必死にお願いする。反対方向の窓に向かって。お願い。コレを隠す時間を下さい。息が上がりそうな緊張。それ以上近づかず、僕を見つめる主任。
「うん。わかった」
何か、察したかもしれない。でも、これだけは知られたくない。主任が背中を向けた隙に、シンク下の戸棚の隅に封筒をしまった。早く、早くこの場を去らなきゃ。一人でここに来て、早急にコレを処分したい。自宅に持っているのも嫌だ。いつか見つかったら、と思うと、心が凍り付く。
「あの、ありがとうございました。もう大丈夫です。ゴミ、運んじゃいます。帰りましょう」
主任をキッチンに近づけたくない。
「……どうかした? 持っていく荷物はいいの?」
穏やかな顔の主任。この人に、嫌われたくない。
「いいです。もう、十分です」
「じゃ、ゴミ、持つよ」
こっちに近寄ったらダメ!
「自分で、自分で持ちます。き、汚い、ですから」
自分で言って、汚い、と言う言葉に、心がずきりと痛んだ。そう、僕は汚いんだ。ゴミを持つ手が、カタカタ震えた。
翌日、榎本主任が出勤した後、部屋着のままで財布とケータイを持ち電車に乗り、自宅に向かった。とにかく早く、処分したかった。早く、早く。自宅のカギを開け、シンクの下を確認する。良かった。茶封筒はそのままある。中身をそっと見る。とても直視出来ず、上からのぞくだけ。そのまま入っている。誰にも見られていない。ほっとしたら涙が流れた。茶封筒を床に置き、身体を震わせて、泣いた。どうやって、処分しよう。シュレッダーは会社に行かないと無い。コレはどこにも持ち出したくない。ゴミ袋に入れて、中身が見えたらと思うと、その辺のゴミ箱や燃えるゴミで出すのも怖い。燃えるゴミ、そうか。自分で燃やしてしまえばいい。もう一度、茶封筒をシンク下の扉に隠す。近くのコンビニに行く。灰皿とライターを買い、駆け戻る。A四サイズの封筒を燃やすなら、小さくしないと。触るのもゾッとする。封筒ごとびりびりと破き、灰皿の上で燃やす。換気扇の下で、泣きながら作業した。時々見たくない場面が見えてしまい、数回嘔吐した。思い出したくない恐怖が蘇る。燃やしきるのに一時間かかった。苦しくて、床に突っ伏して泣いた後、バレないように帰らなきゃと思った。ふと、玄関扉に備え付けの郵便受けが気になった。まさか、ね。もう、ないよね。そっと、中を覗く。悲鳴を上げそうな口を、手で押さえた。尻もちをついてしまい、すぐに立てない。なんで? どうして? 震える手で、郵便受けからソレを出す。茶封筒じゃない。透明のクリアファイル。A四サイズカラー印刷が見えている。見たくない! 我慢できず、傍のシンクで胃液を吐く。吐きすぎて胃が痛い。玄関に落ちたファイルを拾えない。怖くて、横を向いたまま、クリアファイルをひっくり返す。ダメだ。両面にカラー印刷が見えている。こらえきれず嗚咽を漏らして泣いた。丁寧に、クリアファイルをセロハンテープでがっちり留めてある。そのままじゃ燃やせない。部屋からハサミを取り出し、テープを切る。手が震えて、指を切ってしまった。よく見ると手をあちこち火傷していた。構わずに、ファイルから中身を取り出し破く。もう一度、換気扇の下で燃やす。呼吸が苦しかった。どうして? なんで? そればかりが頭をめぐっていた。主任に、絶対に見られたくない。
自宅を出る前に、郵便受けを何度も見た。また入っているんじゃないかと不安で仕方なかった。
主任の家に帰ったのは、夕方過ぎていた。頭の中は、あの画像のことでいっぱいだった。明日、また見てみなきゃ。もし入れられた投函物がポストからはみ出していたら、どうしよう。誰かが見てしまったら、どうしよう。主任が僕の家を見に行ったりしたら、どうしよう。不安で、どうしたらいいのか頭が回らない。どうしよう。それしか浮かばない。ガチャリ、と開錠の音。はっとした。玄関で座り込んだままだった。ドアを開けて、僕を見て驚く榎本主任。
「え? あれ? どうしたの?」
見上げたまま、どう答えていいのか分からなくなる。
「あ、あの……おかえり、なさい……」
一言がやっと出た。
「あ、夕飯、作っていません……。すみません」
そうだ。主任の、ご飯。壁に手をついて、立ちあがろうとすると、手を掴まれる。
「コレ、どうしたの?」
主任が握る手を見た。忘れていた。火傷と切り傷。何て説明したらいい? ただ、主任を見つめる事しか出来ない。身体が、震える。
「うん。分かった。言えない何かがあったんだね。怖かったのかな?」
ふわりと抱き込まれる。思いがけない優しさに、背中を撫でる手に、涙があふれた。止まらない震えをなだめるような優しい手。この手を失いたくない。僕の汚れたところは、絶対に、言えない。
そのまま、抱き上げられてソファーに降ろされる。
「待っていて」
スーツのまま、引き出しをあけて色々持ってくる。ただ、その動きを目で追っていた。
「お待たせ。手を見てもいいかな?」
優しく、僕の反応を見るように声をかけてくれる。主任の顔を見て、コクリと頷く。
「痛そうだね。切り傷に、火傷? かな?」
消毒をして、薬をつけて、手にガーゼが巻かれる。
「絆創膏じゃ覆えないから、ガーゼにするよ。明日病院行こうか?」
明日? 明日はポスト確認に行かなきゃ。病院の帰りに主任が一緒に家に来たら、見られちゃう。
「大丈夫、大丈夫です。すぐ、治ります」
必死で断る。
「今日、ご飯食べた?」
ご飯? 食べたかな? 記憶になくて首をかしげる。
「どこかに、出かけたのかな?」
「行っていません! どこにも! ここに、いました!」
必死で答える。嘘をついてゴメンなさい。
「うん。わかった。じゃ、座っていて」
榎本主任の動きを目で追う。キッチンで何かをして、戻ってくる。
「はい、口を開けて」
小さく口を開けると、スプーンで甘いものが流し込まれる。温かい。甘い。葛湯だ。懐かしい甘さに、癒される。ほっと一息つくと、続けて一口流し込まれる。心まで染みこむ甘さに、気が付くと雛のように口を開けていた。主任に抱きかかえられて、葛湯を与えられている。身体に力が入らない。その内にウトウトして、いつの間にか眠っていた。
夜中に目が覚めた。そうだ。昨晩は食べながら寝ちゃったような気がする。主任のベッドで、一緒に寝ていた。優しい腕からモゾリと抜け出し、トイレに行く。午前四時。昨日の事を思い返す。おかしいと思われたよね。ため息をついて、主任と一緒にいるべきじゃないのかも、と考えた。しばらく、家に帰ろう。ダイニングテーブルに、「仕事が始まるので自分の家に戻ります。お世話になりました。ありがとうございました。しばらく一人にしてください」と手紙を置く。合い鍵も、一緒に置いた。初めての恋人で、幸せだった。少しの間の、夢だった。そういえば、主任の携帯番号もアドレスも知らない。ちょっと笑えた。
そっと部屋を抜け出す。オートロックのマンション。鍵を持たずに出れば、もう入れない。財布とケータイは忘れずに持つ。あと、自宅のカギ。明け方だから、ひっそりと動ける。溢れる涙を、見られることもない。
電車もない時間。歩いて自宅に向かう。悲しくて、苦しくて。泣きながら戻った自宅。朝日がまぶしかった。
すぐに郵便受けを確認する。何もない。心から安堵した。久しぶりの自分のベッド。学生時代から使っているシングルの安いベッド。榎本主任のベッドに慣れた後だと、安っぽさが身に染みて分かる。
住む世界が違ったんだと考えて、冷たい布団でうとうとした。ぼんやりと目が覚めた。時間を確認する。午前九時。歩いて疲れたのか、短時間でぐっと休めた。それでも重い頭を起こし、水を飲む。シンクでため息をつく。ふと、郵便受けが気になった。すぐに確認する。無かった。ほっとしてへたり込む。
それから、郵便受けを気にし続けての四日を過ごした。
なぜか携帯電話に榎本主任の電話番号とメールアドレスが登録されていて、毎日何回かメールが来る。優しいメールだ。「榎本 優」の表示が出ると、心が温まる。その瞬間は、頬が緩む。「食べている?」「手の怪我は大丈夫?」「仕事は無理しなくていいよ」と優しい言葉がたくさん。嬉しくて携帯電話を抱き締める。全てのメールに、「ありがとうございます」と返事をする。僕にはそれしか言えないけれど、大好きな気持ちが伝わりますように、と気持ちを込めて送信ボタンを押す。
心配した投函物は届かず、見張っていなくても大丈夫かも、と思えてきた。きっと、前回のファイルが最後だ。そう思い込もうとした。明日から病気休暇を終えて出勤しなくては。そう思って、自宅に来てから水しか飲んでいない現実に思い至った。仕事中に倒れたら、困る。慌ててコンビニにゼリー飲料やおにぎりなど食べられそうなものを買いに出る。外出しようと起ちあがると、眩暈がひどくて、本格的にヤバいと感じた。ゆっくり歩くにも、息が切れる。やっとコンビニから帰ってきて、ゼリー飲料を口にする。身体に染みわたる。スポーツドリンクも飲んで、おにぎりを一個食べる。美味しい。お腹、空いていたんだ。全身の感覚が鈍くなっていて、よく分からなくなっていた。ふと手を見つめる。かさぶたになっている火傷のあとと切り傷。大丈夫、傷は放っておいても治る。どんな傷でも。
食べ物をとって、少し気持ちが落ち着いた。癖になった郵便受けの確認。何も来ていない。安心して、榎本主任に自分からメールをした。「明日は会社に行きます。会社で、久しぶりに会えることを楽しみにしています」送信ボタンを押して、スーツ姿の主任を思い浮べ、主任の温かい身体を思い出し、ゆっくり眠った。
朝起きても郵便物は無かった。安心して、出勤した。久しぶりのスーツ。久しぶりの総務部総務課。
「ご迷惑おかけして、すみませんでした」
課長と先輩に挨拶をする。「いいよ」とさらりと流される。榎本主任から「あとで総務課に顔出すね」というメールに「楽しみにしています」と返せるほど、心に余裕が出来ていた。
仕事の準備のため、PCを立ち上げ、デスクの引き出しを開けた。開けた引き出しをすぐに閉めた。手で押さえて、誰にも見られなかったか周囲を確認する。心臓がバクバク鳴り始める。隣のデスクの先輩と契約社員さんがいるから、もう一度開けることは出来ない。引き出しに、肌色の印刷物が、見えた。冷汗が出る。沸き上がる吐き気をどうにか堪える。席を離れるわけにいかない。トイレに行けない。歯を食いしばり、深呼吸。デスクの他の引き出しを慎重に開けていく。大丈夫、他の引き出しには入れられていない。真ん中の引き出しが開かないよう、身体で塞ぐ。デスクに密着して、隙間が無いように。頭がガンガンした。
「下村君」
カウンターに、穏やかな表情の榎本主任。朝から会いに来てくれた。見たかった主任。会いたかった優さん。だけど、席を離れるのが怖い。困ってしまい、なかなか席を立てずにいると、横の席の先輩から「呼ばれているよ」と声をかけられる。「はい」と返事をし、席を立つ。椅子をしっかり席につけて、引き出しが開けられませんように、と願いカウンターに行く。
「これ、取引先の食事接待の領収書。申請書はこれ。確認、お願いします。ね、下村君、ちゃんと食べている?」
領収書の提出をしながら、小声で声をかけられる。会いたかった主任なのに、デスクの引き出しが気になって、話が出来ない。
「はい、確かに、お預かりします」
事務的な会話をして、視界の隅にいれた自分のデスクに誰も触れていないことをチラチラ確認する。
「分かった。また、メールするね」
寂しそうに微笑む主任。そんな顔、見たことなかった。心がズキンと痛んだ。去っていく後姿を、目で追った。締め付けられる思いで、席に戻る。
昼休み。両隣が席を立った間に、さっとデスクの引き出しから印刷物を抜く。すぐにカバンにしまう。ドキドキした。誰も見ていないはず。汗がにじんで、頭痛がした。やっと席を離れることができる。一呼吸付き、立ちあがったとき、目の前が暗転した。ガタンと椅子を倒して床に座り込んでしまう。耳鳴りと気持ち悪さと、人の声。
「すみません、大丈夫です」
と何度も繰り返したけれど、そのまま医務室に連れていかれる。無関心だと思っていた隣の席の先輩が付き添ってくれた。ちょうど産業医の先生が来ている日で、もう少し休暇をとるか聞かれた。絶対に休みたくなかった。引き出しの中が心配で仕方ないからだ。鍵のかからない引き出し。
「下村君?」
榎本主任が顔を出す。
「朝、顔色が悪かったから総務部に行ってみたんだ。倒れたの?」
「違います。ふらついただけで、全然、大丈夫です」
「じゃ、俺は戻るから」
「あ、ありがとうございました」
ついてきてくれた先輩が、職場に戻る。昼休みが終わるまでに僕も戻らないと。
「ちゃんと薬は飲んでいますか?」
産業医の先生に聞かれる。あれ? どうだったかな。ここ数日食事をしていたのか、それさえもよく覚えていない。
「下村さん、ストレス性胃潰瘍は再発性の高いものです。まず、慢性胃炎をちゃんと治療していかないといけません。内服薬は継続して指示通りに内服しないと。自己管理をきちんと行ってください。ご自分を大切にしてください」
産業医の先生に、ゆっくり話しかけられる。
「誰か、食事や薬の管理を頼れるような人はいませんか? 奥さんやご家族は?」
「……独りです」
「先生、今は俺が下村君の面倒を見ています。胃潰瘍の退院後も、うちにいました。今日の様子で休養が必要なら、休暇を取らせようかと思っていました。どうでしょう?」
「大丈夫です! 本当に、大丈夫です。これ以上迷惑は、かけられません」
デスクを長期間空席にすることは出来ない。必死になり、手が震えた。
「下村さん、一度、心療内科を受診してみませんか?」
心療内科? 僕、うつ病と思われているのか。
「大丈夫です。本当に、大丈夫ですから」
目の前の困った顔の二人。立ち上がり頭を下げる。
「ありがとうございました。職場に戻ります」
「まって、一緒に行くよ」
榎本主任を見上げる。すごい人だ。さっきの困った顔も、朝の寂しそうな顔も、すぐに消し去って穏やかな表情をしている。僕には真似できない。苦しさを、恐怖を隠すことが出来ない。どうしたらいいんだろう。
総務部まで無言で歩いた。総務課に行くと、僕のカバンをひょいっと持つ主任。すぐに取り返して、胸に抱える。びっくりした。一瞬で汗が噴き出た。カバンを持つ手が震える。
「今日は帰ろう」
優しく主任が言う。ふと周りを見ると、そんな僕たちを、心配そうに皆が見ている。目線が、怖かった。カバンを抱える手に力を入れる。
「島田課長、下村君、早退させます。状況によっては、落ち着くまでしばらく休ませます」
「そうですね。そうしてください。体調良くなるまで、無理しないほうが良いですよ」
「また、ご連絡入れます」
僕の事を、何で勝手に話しているんだろう。休むのは、困る。困るんです。言葉を挟みたいのに、皆の目線に身体が震えて、声が出ない。榎本主任に背中を押されて、気が付いたら一階のロビーにいた。主任がタクシーを呼んでくれていた。タクシーの運転手さんに、主任が行き先を告げ乗り込む。僕は、このカバンを奪われないことだけしか考えていなかった。
気が付くと、僕の家のアパートの前で主任とタクシーを降りていた。僕の、家? 主任を見上げる。きっと、一緒に家に来るつもりだよね。郵便受けは、今朝は空だった。ごくりと唾を飲み込む。足が、動かない。
「俺の家より、今はいいのかと思って」
鼓動が速い心臓と、鉛のような足。促されて、歩かないワケに行かない。玄関まで、ゆっくり行き、ふと鍵はカバンの中だと思い出す。カバン、開けられない。ドアの前で、立ち尽くす。
「鍵、出ない?」
主任が見られない。カバンを握りしめる腕が震える。
「あれ? 何か、飛び出しちゃってるね」
一瞬で、郵便受けに目が行った。ファイルだ! 瞬時に、出ているものを奥に押し込み、ドアにへばりつく。足元に、転がるカバン。足で引き寄せようとするけれど、一瞬早く主任が拾う。汚れをぱんぱんと払ってくれて、こちらに渡してくれる、かと思ったけれど――。
「何を、隠しているの?」
僕の、目の前でカバンが開けられる。主任の、驚きの表情。
嫌だ!! 見ないで!!
どこかで、悲鳴が聞こえた。気が付いたら、階段を転げ落ちていた。あちこちぶつけて、すりむいて、それでも、がむしゃらに逃げようとした。涙が、視界の邪魔をする。追いついた主任に抱き留められる。嫌だ! 嫌だ! 大声を上げて、暴れたと思う。僕が落ち着くまで、抱きしめたまま、「ゴメン、ゴメン」と耳元に声が響いていた。声を出し疲れて、どうしても逃げられない優しい拘束に抵抗する気力も無くなり、嗚咽だけが漏れる。
「ポストの中も?」
聞かれて、コクリと頷く。
「すぐに、戻ろう」
コクリと頷く。もう、隠す意味は、ない。もう、全部どうでも良かった。心臓が凍ったみたいに、全身が冷たい。
このまま、僕の心も心臓も止まってしまえばいい。
ゆっくりとアパートの部屋に入る。立ち尽くす僕と、郵便受けを開ける主任。主任がファイルを見る。直視出来ない。顔を手で覆って、嗚咽を溢して泣く。その場に座り込む僕に、そっと主任の上着がかけられる。何か燃える匂い。キッチンを見ると、榎本主任が、燃やしている。きっと、灰皿と燃えカスと、ライターで気づいたんだろう。僕は、現実を受け入れられなくて、震えて泣いた。
主任は何も言わなかった。
「中に、行こうか?」
しばらくして声がかかる。ぼんやりと床を見つめる。近づく主任に抱き上げられる。玄関から部屋の中に運ばれる。「触るよ?」と声を駆けながら、手足の打ち身や擦り傷を確認する主任。タオルを濡らしてきて、汚れを拭いてくれる。
「聞いてもいい?」
優しい声。頷きながら、涙がこぼれた。
「いつの、出来事?」
誰にも言えなかった、あのこと。涙がとめどなく流れる。
「……大学の、四年の、とき」
敬語を使う余裕がなくて、震える声で答える。
「同意、じゃない、よね?」
「同意なんかしない! あんな、あんなの!」
一気に興奮して、息が上がる。
「わかった。ゆっくりでいい。何が起きて、どうして今、写真が入れられているのか、分かることを教えてくれる?」
どうせ、見られたんだ。もう、隠す必要もない。床を見つめて、覚悟を決める。
「大学の、友達でした。いつも五人でいました。就職内定が、僕が一番にでました。嬉しくてそれを言ったら、卒業旅行を兼ねてキャンプ場でお祝いしようって。平日の人気のないキャンプ場でした。レンタカーで行って、夜に、そうなりました。いつも後ろにいたお前が先に内定を取るなんて許さない、と殴られて。気を失っても、たたき起こされて、苦しくても辛くても、やめてもらえなくて。動画も写真も、とられました。信じていたものが全て崩れ落ちました。朝、お腹が痛くて目が覚めました。僕は、ドロドロの汚いまま床に放置されていました。友人たちは、レンタカーで帰ってしまっていました。ケータイに写真が送られてきて、片付けしておけって」
淡々と話しながら、流れる涙を止めることが出来なかった。目を閉じて、続けた。
「泣きながら、コテージを片付けました。痛む身体で、何度も嘔吐して、本当に惨めでした。辛い身体を引きずって山を歩いて下りました。それから、卒業まで大学には行っていません。ケータイも変えて、あの四人とは、連絡もとっていません。引っ越しもして、忘れることなんてできないけれど、頭の隅に追いやってきたんです。だけど、主任と一緒に 病院に行った日。郵便受けに、その時の写真が入っていて。ショックで全身が震えました。絶対に、見られたくなかった。どうにか隠したかった。翌日、必死で燃やしました。でも、また投函されて。怖くて、ここで見張っていました。どうしたらいいか分からなかった。自宅に帰ってからは、一回も投函されなくて。もう大丈夫なのかなって出社したら、……デスクの、引き出しに、あったんです」
とめどなく溢れる涙と嗚咽。顔を手で覆う。もう、放っておいて欲しい。もう、汚い自分も、苦しい人生も、怖い思いも、全てが嫌だ。
「……これで全部です。もう、一人にしてください‥…」
吐き出すように声に出す。
少しの沈黙。
「わかった。そいつら、四人、殺してこようか」
とても優しい声。え? 優しい声が、何て言った?
主任を見る。僕に、優しい顔を見せているけれど、目が、本気だ。ぞっとする顔だ。驚いて、涙が止まった。こんな怒り方をする人を、初めて見た。
「心配しなくていいよ。秋人は、これから少しの苦痛も感じなくていい。俺が、全部守るから」
優しい声。穏やかな顔を向けていながら、主任が涙を流している。そっと温かな涙に触れる。すると、こらえきれないように、主任の顔がゆがむ。僕を優しく抱きこむと、嗚咽を溢して主任が泣いた。その、慟哭のような男泣きに、僕も一緒に泣いていた。人と一緒に泣くなんて、初めてだった。
気が付いたら、温かな腕の中だった。主任の膝の上で、抱き留められて寝ていた。見上げると、僕を見下ろす優しい瞳。この瞳は、どこまでも優しく深い愛情を僕に伝えている。泣きはらした目元。そっと頬に触れてみる。ニコリと目元が和らぐ。つられて、頬が緩む。何も言わなくても、分かる。主任は、僕を愛している。僕を見る目が、僕に触れている体温から、心臓の音から、全てを使って伝えてきている。これほどの「愛している」に包まれて、僕は幸せだ。
「優さん、人殺しは、だめです」
ふふっと笑う主任。あれ? 聞いてくれていない、かも?
「あの、本当に、ダメです、よ?」
恐る恐る、たずねる。また、ふふっと笑う主任。笑っているのに、目が怖い。
「優さんが、殺人者になってほしくないんです。お願いします」
必死になってしまった。
「わかっているよ。大丈夫。よく、話してくれたね。あとは、俺に任せていい。苦しかったね。俺が半分、苦しさをもらうよ。秋人が少し楽になればいいな」
「……これがバレたら、汚いって捨てられると思っていました。こんな僕でも受け入れてもらえるなんて、それだけで、嬉しい」
また、涙がこぼれる。
「愛しているよ。秋人がいると、心が温かいもので埋め尽くされるんだ。こんな思いは初めてだよ。失いたくない。秋人が大切なんだ。一緒に、俺の家に帰ろう?」
しっかりと頷いた。優さんを信じて、頼っていいんだ。逞しい身体に抱きついて、一言を、伝える。
「僕も、愛しています」
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