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雪下 潤<SIDE:潤>

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プロローグ
 ユーチューブの動画再生回数が増えると楽しい。「イイね」が増えるのも嬉しい。ささやかな秘密の趣味。

ストリートピアノを弾くと、人が足を止めてくれる。きらきらした目線がゾクリとする。その場の空気に音が混ざり込んで響いていく特別な感覚。ピアノは最高。五分ほどのストリートピアノ演奏の動画配信。

顔を出さず手元や斜め後ろからの映像だけど二年で登録者が一万人超えになった。バイトをしなくても広告収入や再生回数による収入があり助かっている。

 不自由な右手をさすり、長く弾けないピアノと向き合う。


雪下 潤(ユキシタ ジュン)
 潤は五歳で近所のピアノ教室に入った。ピアノは面白くて直ぐにのめり込んだ。

楽譜の黒い音符を音にして組み立てていく楽しさ。平面の楽譜から曲の立体像を作り出す面白さ。出来上がりが人により違うこともドキドキする。先生の音と潤の音は違う。一つの曲から沢山の音が出来上がる。空気に触れて弾ける音。溶け込む音。それらが心地よくて潤は音楽が大好きだった。

 中学一年。潤は国内のジュニアコンクールに出て上位に食い込むようになり、ピアノに真剣に向かうようになっていた。音をどう組み立てるか、煌かせるか、心が楽しいことで満たされていた。ピアノのプロってかっこいいな、小さな憧れと夢も出来始めていた。

 ピアノ教室の発表会。文化センター中ホールで行う本格的なスタイル。秋に毎年開催されている。幼い子のつたない音、少し指が固そうな子の音、嫌々やっている子の音、どれも潤の楽しみだった。いつの間にか教室の期待の星のようになっていて最終のトリが毎回潤だった。それを潤は当然のように受け入れていた。上手いとか下手とか嫉妬とか考えたことが無く、潤がその対象にされていたなんて全く気が付いていなかった。

 演奏が終わってキラキラした空気に高揚した気持ちで椅子から立ち上がろうとしたとき、ステージ裾から駆けて来た男の子に潤は突き飛ばされた。油断していてピアノの椅子から防御も取れず転げ落ちた。潤の右手が身体の下に入り手首からグキっと嫌な音が鳴った。痛みで悲鳴を上げていた。その時のことは何だったのか、どうなっていたのか、潤は良く覚えていない。


 潤は右手首の骨折をしていた。

手首から親指側につながる靭帯と神経の損傷もあり、骨折の完治後もピアノを長く弾けなくなった。普通の曲なら十五分程度。難曲は十分程度が限界。もっと弾きたいと願っても、手の痛みとしびれで右手が動かなくなる。コンクールの課題曲一つも弾ききれない。潤の組み立てる音が変わってしまった。普段の生活に問題はないけれど、ピアノを本格的にやる夢は諦めるしかなかった。

 親と共に潤に謝りに来たのは、小学六年の男の子。もともとは潤のピアノが好きだったようだけれど、潤のように上手く弾けなくて悔しくて突き飛ばしたと母親が説明してきた。

子供を後ろに隠し「幼い子のしたことだから許してあげてね」と言ってくる態度に、潤は腹が立った。一歳しか違わないじゃないか、と心で叫んだ。聞いていたくなかった。

「もう、いいよ」
潤は下を向いてそう言うしかなかった。

潤が許しても許さなくても、潤の手は元に戻らない。心がときめく音やキラキラした中にいた潤の音楽が全て無くなってしまった。それなのに悪びれてもなく謝られると、余計に潤の心の真っ暗がザワザワした。潤は、この真っ暗な気持ちと向き合うことで手いっぱいだった。彼らに潤の世界に関わって欲しくなかった。

「許せるはずがないだろう! もう、僕の目の前に二度と入ってくるな!」本当は、潤はそう言いたかった。消え去って欲しかった。

 潤は音楽教室を辞めた。弾けないから仕方ない。潤の気持ちはなかなか立て直せなかった。少しずつピアノを弾いて、真っ暗な潤の心に音を響かせた。ちょっとずつだけど、自分の音を組み立てることに専念した。

弾いている時間は少しで、前ほどの満点の星空のような輝きじゃなかった。でも心がキラリとする何かが出来てきた。そう思えた時に涙が流れた。そうか、小さな流れ星だ。ピアノの音が流れ星のように走って消える。一瞬の輝き。貴重な発見だった。

家のピアノで、その限られた時間の輝きを大切にした。音の楽しさが戻ってくると、心の暗闇がすこし晴れたように感じた。

 でも、プロを狙えるほどには回復しなかった。

 大学は音大には行かず外国語学部に進んだ。ピアニストになりたくて音楽の歴史も言語も学んでいた潤。その頃の興味が大学の現在につながっている。

普通に就職して働く、と自分の道を決めたけれどピアノはやめたくなかった。一人暮らしの部屋は完全防音ピアノ可の部屋にした。家賃が少し高いけれど親に頼み込んだ。ピアノも搬送してもらった。

そんな時にユーチューブのストリートピアノ投稿を見つけた。心に火が付いた。これくらいの五分くらいなら潤でも弾ける。

ブームもありストリートピアノを設置している場所が街にあるのを知っている。部屋で弾くだけになっていたピアノ。外で弾いてみようかな。そう考えると期待で心がドキドキした。

初めて駅構内のグランドピアノを弾いた。潤のアップライトピアノより音が格段にいい。嬉しすぎて周りが全く目に入らなかった。

リストの「ラ・カンパネラ」を速弾き。速くても一音ずつを丁寧に響かせる。無駄な音なんて一つもない。鐘の音が空に届くように、音の響きを立体像のようにして曲を組み立てる。

高揚感がすごかった。潤にとって夢中になる五分だった。音の広がりを楽しんだ。心地いい。緊張したのか、いつもより右手がしびれるのが早い。でも弾ききった。

感動のままに席を立つと、パチパチと拍手が聞こえる。ピアノの周りに五人ほどの人。潤を見て控えめに拍手。彼らの視線から心が潤に向いているのが分かった。身震いする感動だった。嬉しかった。頭を下げて、潤の目から涙がこぼれた。

 それから数回、駅のピアノを弾きに行き、そのたびに人が足を止めてくれる。徐々に観客が増えた。拍手をくれる。楽しい。潤でも演奏しきれる。

ユーチューブに投稿を始めた。一~二週間に一回程度。顔は出さずに手元や後姿の動画。一年を過ぎる頃に登録者数一万人となり、再生回数も伸びた。少し遠くのストリートピアノも弾きに行くようになった。

潤でもピアノで出来る事があった。潤の心が救われたように軽くなった。

ピアノと学校を上手く両立できて満足な日々を過ごしていた。

 大学二年の初夏。少し暑い気候。潤が夏でも長袖なのは右手に残る手術痕を隠すため。いつものように駅構内ストリートピアノに行く。

今日はジブリメドレー。明るい気持ちを花咲かせて夏の時間を楽しめますように、歩く人に気持ちが届くように軽快に高速で演奏。

五分の演奏を終えると、背の高いガタイの良い男の人がニコリと微笑み近寄る。

「すぐにどきます」
小さな声に出して退席しようとするが、そっと左腕を掴まれる。何?

「連弾、お願いできますか?」
低い通る声。ドキリとする。これ、乱入ってやつか。初めてだ。右手は、まだ大丈夫。嬉しくて「はい」と返事をしていた。

「エチュード、いけます?」
「はい」
ショパンの連弾曲エチュード十メドレー。難曲だ。

もともと生徒と先生の練習用に作成された曲。昔ピアノ教室で先生と弾いた。懐かしいけれど、演奏に五分かかる。手は大丈夫だろうか。

考えるうちに低音パートのセコンドに彼がつく。潤は高音パートのプリモだ。観衆もいて拍手しているし、やるしかない。できたら右手の負担が少ないセコンドが良かったけど、仕方ない。

 弾きやすい。初めの音から潤と相性がいいと分かった。隣の彼は手が大きく鍵盤の上を舐めるように動く。触れただけで音が作り出される。鍵盤を叩いていない。撫でるように音を作っている。心地よい。潤は水面で妖精が飛び回るような手の動きと言われたことがある。鍵盤の上を軽やかに踊る潤の手と、這うような彼の手。

ペダルはセコンド任せだけど響きの調整も適格。テクニックに頼りすぎず曲の表現が上手い。細く長い指の潤の手と、手掌全体が大きな彼の手。不思議なきらめく音が作られる。超速弾きで楽しい。心がぞくぞくする。速くてもお互い一音も外さない。それぞれの音がキラキラ輝いて舞い上がる。潤と似ているタイプの奏者だ。楽しすぎて夢中になっていた。

 あと少しで演奏が終わるのに、潤の右手が痛む。指先の感覚がない。夢中になりすぎた。唇を噛みしめて我慢する。もうすぐ、せめて最後まで。弾き終えた時、鍵盤の上から手を降ろせなかった。震える右手を左手で押さえた。

気が付いた彼が心配そうに潤を見る。座ったまま周囲の拍手にお辞儀する潤。立てない。
「あ、速すぎましたか? すみません」
「違います。大丈夫です。もともと右手が少し不自由なんです。休めば平気です」

痛みに震えてしびれる右手を左腕で抱きかかえて席を立つ。そうだ、撮影でセットした機器を回収しなくてはいけない。痛みに震える潤を見て、彼が動く。

「これ、脚立もあなたのもので間違いないです? 録画止めますね。荷物はこれ?」
青い顔で頷く潤の肩を抱えて駅のコーヒーショップに誘導する彼。大きな人だ。ちょっと座って休みたかったから潤は助かった。

座って手をさする間にアイスカフェラテとホットカフェラテを持って彼が戻る。お礼を言い、温かい方を受け取る。
「すみません。無理をさせました」
「動かしすぎると、いつもこうなります。慣れています。今日は楽しかったです。ありがとうございました。僕はしばらく休んでいきますので、どうぞ先にお帰りください」

彼に帰宅を促す。動かしすぎた時の神経痛は骨の奥に響くズキズキする痛み。しびれも出て腕全体が動かせない。良くなるまで耐えるか、改善しなければ熱を持つこともあるので早めに鎮痛剤を飲まなくてはいけない。初対面の彼に気を遣うことが辛いから、一人になりたい。

「いつからですか?」
「中一の時の骨折後遺症です。これのせいでピアニストの夢も諦めました。十分から十五分が演奏の限界なんです」

「え? 中学の時、ですか? その時の後遺症が、今も?」

「はい。神経と靭帯の損傷をしてしまい。日常生活は大丈夫になりましたが、ピアノは趣味程度になりました。骨折でピアニストの夢が途絶えてから、人と連弾なんてしてなかったので今日は本当に楽しかったです。僕は落ち着いたら帰りますから、どうぞお帰りください」

そうですか、と帰って欲しいのに、青い顔をして動かない彼。連弾は気が合ったのに、言いたいことが伝わらないタイプか。

「ひとつだけ、教えてください。その、右手の骨折を負った状況を知りたいんです」

変な人だ。彼を見つめる。

「中一のピアノ教室の発表会でした。演奏を終えた時に、突き飛ばされて椅子から落ちて骨折しました」

正直に言えば満足するのだろうか。よく分からない人。この人が去らないなら、まだ痛いけど潤が帰ろうと思った。ちょっと危ない感じがする。ヤバい人かもしれない。

左手でバックの中の財布を探る。コーヒー代を出し、テーブルに置く。下を向いて考えていた彼が、はっと顔を上げる。

「じゃ、お先に」
「まって。まだ、手が痛みますよね。送ります」

遠慮しようとしたが、彼が潤の荷物を全て持ってしまう。仕方がなく、気が済むなら送ってもらい家の近くで別れようと思った。だけど彼は家までついてきた。途中で断ろうとすると「家まで送る」と言い張り、荷物を返してくれない。仕方なくマンション前まで送ってもらった。

「え? ここですか?」
「はい。もう結構です。ありがとうございました」
「俺もココです。防音でピアノも演奏できるから」

「あぁ、近くの音大生ですか」
「はい。ピアノ科の一年です。あなたは?」

音大生か。道理でピアノの音が輝いているわけだ。ちょっと羨ましい。同じマンションと聞いて、これからも続く関係に小さくため息をついた。

「僕は、右手に問題があるので音楽の道は諦めています。少し距離がありますがM大外国語学部に通っています」

悲しそうな表情をする彼。どうしてこの人がこんな顔をするんだろう、と疑問に思う。
 
 結局荷物を玄関先まで運んでもらい、彼と別れた。部屋で痛み止めを飲み、一息ついて気が付いた。

 潤は、彼の名前も部屋も、何も知らない。
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