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Ⅵ もう、死んでもいいから①<SIDE:瀬戸>

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Ⅵ もう、死んでもいいから

 堀田さんは瀬戸がこれまで嫌っていたのが疑問に思うほど付き合いやすい人物だった。

そう自分で納得すると、堀田さんが人として優れている事や人気者であることにも心がざわつかない。上司に気に入られていても「そうか、堀田さんなら当然だな」と自然に思える。

 瀬戸の提案した個別外出についても介護士さんと話す場を設けてくれた。あの会議についても堀田さんから謝ってきた。

堀田さんは瀬戸のことを助けたかった、と言われた。野口さんの顔色や施設長たちの立場を思い、瀬戸が孤立しないようにストップかけたけれど、それが変な方向になってしまった、と。

瀬戸は自分が何に悔しかったのか、堀田さんの何に腹が立ったのか考え直してみた。

じっくり思い返して分かったこと。瀬戸は自分のプライドが傷つけられて怒りが湧いたのだ。堀田さんは全体を見ていた。瀬戸は自分の事しか見ていなかった。

結果として、介護士さんを交えての提案に出来るなら、今後進めていきやすい。ストップをかけてもらって助かったのは瀬戸だ。

堀田さんは瀬戸に恥をかかせるつもりなんて無かった。

堀田さんはスゴイ奴だな、と感じている。そして、瀬戸はただ堀田さんに嫉妬していたのかな、と思っている。自分の幼さを反省する日々だ。


 「あ、瀬戸さぁん。腹減ったよ。今日は早番だったし昼までが長い……」

瀬戸は、ディサービスフロアを覗くと、機能訓練室に立ち寄るようになった。必ず堀田さんと会話をする。

空腹にへこたれる堀田さんが可愛らしく見えて、ポケットに隠した蒟蒻ゼリーを二つ取り出し、堀田さんの大きな手に乗せる。

「空腹だと思った。はい」
「え? まじ! やる気でる!」

急に顔を輝かせる。大型の犬かよ。クスクス笑って小さく手を振り事務室に戻る。

こんな数分のやり取りで、一気に心が元気になる。自分の仕事を頑張ろうと思える。


 捻挫完治とともに瀬戸はディサービス利用者送迎を再開した。

ディサービス利用の高齢者は施設の車でご自宅までお迎えし、ディサービスが終了したらご自宅に送り届ける。通常は施設ワゴン車で数名の同乗としていただく。一軒ごとまわるため数台の車で対応し、朝は大忙し。ワゴン車で多人数のお宅を回ることは介護士さんなど現場職員にお願いしている。

瀬戸たち相談員が送迎担当するのは、様々な理由で他の利用者との同乗が出来ない方。そういう方は施設の軽自動車で単独送迎をする。毎日何らかの理由で一人から二人の単独送迎者がいる。

本日の瀬戸の担当は土井さん七十九歳。個別送迎の理由は、怒りっぽいこと。他の利用者との口論や怒鳴り声に苦情があり、単独送迎となった。

 土井さんは腎不全で透析を受けている。透析病院が週三日。高齢になり足腰の筋力低下から運動機能が脆弱になり、認知症予防とロコモ予防のためにディサービスを週二日利用している。

ロコモとはロコモティブシンドロームのことで、運動機能の低下から将来的に社会的孤立を招く恐れがある事を意味する。土井さんは奥さんに先立たれていて独居。社会的孤立を招くリスクが高い方。

同じ市内に長男夫婦がいるが、反りが合わずに手助けが得られない状況。食事は透析食を宅配サービスで受けている。土井さんは「バカヤロウ!」が口癖。いつも気難しい顔をしていて些細な事に立腹する。

 「おはようございます。土井さん。ディサービス相談員、瀬戸です。失礼します」

インターホンを鳴らして返事を待つ。ガチャリと鍵の開く音。「失礼します」と声をかけながら扉を開ける。玄関先に不機嫌顔の土井さんがいる。

「今日はディサービスの日です。お荷物あればお持ちします」

土井さんは片腕に透析シャントという血液透析をするための人工血管がある。

 透析患者さんは、手術で動脈血管と静脈血管を繋げる透析シャントを身体の一部分に作る。このシャント部分からしか透析治療が出来ない。

透析は機能しなくなった腎臓の代わりに機械で血液濾過をする治療。シャント血管部分に専用針を刺し、体外に血液を出して機械で血液濾過し、またシャントから体内に血液を戻す。

シャント血管閉塞などトラブルがあると透析が出来なくなり、その人の命に係わる。

長年使うと徐々に血管の肥厚が進みシャント閉塞を起こしやすく、シャントの作り直しをすることもある。シャント血管は身体のどこでも作れるわけではない。限られた場所にしかできない。一回目のシャント造設手術が上手く出来たからといって二回目のシャント手術が上手くいくとは限らない。そのため今あるシャント血管が長持ちするよう大切にしなくてはいけない。

土井さんはシャントがある腕で荷物を持つことは厳禁。腕時計も着けてはいけない。それほど厳重にシャント管理をしていかなくてはいけない。

週三日の透析での拘束時間が一日当たり六時間以上。加えて日常生活で食事制限に塩分飲水制限。透析は大変な苦痛を伴う。

だからこそ土井さんがイライラするのも分かる。


土井さんは足の筋力低下で杖を使い始めた。シャントが無い腕で杖をつくから、荷物は全て瀬戸が持ち運ぶ。

「土井さん、荷物はこれで良いですか?」

玄関の袋を示して確認をする。土井さんの顔を見る。しかめっ面のまま。返答がない。ご機嫌悪いなぁと思う。

「持たんくて、いい」
「はい?」

荷物に向かうのをやめて、土井さんを見る。

「今日は、行かん」
「お休み、ですか? 体調が良くないですか?」

「違う。もう、どっこも行かん。透析も、ディサービスも、行かん。飯もいらん」

立ったままの土井さん。何か、あったのか?

「ディサービスは、息子さんとの約束ですし、今日はお休みしても、次回は行きましょうか」

奥さんが亡くなった後、息子さんは土井さんを透析のできる老人病院へ入所させることを希望していた。

土井さんは「老人病院は一度入ったら出られないから嫌だ」と拒否した。息子さんは生活を手伝えないと断言している。

その時に結構もめたが、担当ケアマネさんが間に入り、介護サービスを使いながら独りで暮らしていくことで、土井さんも息子さんも納得した。

独居する条件として透析病院とディサービス、食事サービスの利用を継続すること。そのどれかのスタッフが独居困難な状況と判断したら老人病院に入院することとなっている。

これまで息子さんとは相容れなくても条件だけはきっちり守ってきた土井さん。どうしたのだろう。

「バカヤロウが! ワシがワシの人生を決めて何が悪い! お前に、関係ないだろうが!」

見る間に顔を真っ赤にして怒りをあらわにする土井さん。

「ですが、土井さんがここで暮らしていく条件になっておりますし……」

「バカヤロウが!」
土井さんが怒りに任せて杖を振り上げる。

あ、だめだ! 転んでシャントを傷つけたら大変な事になる! 

とっさに土井さんを支えようとする瀬戸と、多分威嚇のつもりで振り下ろした杖が見事にぶつかった。

右顔面を殴りつけられた。玄関に倒れ込む瀬戸と、しまった、という土井さんの顔。土井さんの杖は金属製。

怒りに任せて振り下ろしたのだろう。体感した衝撃を伝えるならバットで殴られたらこんな風だろうと思ってしまう。

唸り声が口から漏れ出る。声を抑えることができず、ズクンズクンと右額から側頭部が痛みだす。痛い? 熱い? 

「お前、お前が出てくるからだろうが! ば、バカヤロウ!」

土井さんの声が聞こえてくるけれど、反応できない。どうしよう。目が揺れている。

「きゅ、救急車か!」
慌てている土井さん。救急車はダメだ。騒ぎになれば土井さんの立場が悪くなる。

「だめ、です……。それは、ダメ。大きなトラブルに、なって、しまうから……」

精一杯声に出して、痛む頭を抱え玄関に座る。壁にもたれかかる。すぐに動けない。右顔面がヌルリとする。手で触れると、赤い、血。

オロオロしている土井さん。とにかく、大事にならないように上手く対処を。頭が揺れて考えがまとまらない。痛みが思考の邪魔をする。

とっさに堀田さんが頭に浮かぶ。ディサービスは土曜日稼働していて、スタッフが土曜日出勤になると平日に代休が入る。今日、堀田さんは代休日。

お願い。電話に出て。そんな願いを込めてポケットから出した携帯電話を操作する。手が震える。願いが通じたのか、三コールで電話に出てくれる堀田さん。

『もしもし? 瀬戸さん? おはよ~~』
声を聞いたら、安堵感で涙が溢れた。

「あっ、うぅ……堀田さ、ん、ぅ……たす、けて」
嗚咽が混じってしまい、はっきりと話せない。

『もしもし! 瀬戸さん! 今どこ!? どうした!?』

ここは、ここは、どう伝えたらいい? 泣き声だけが伝わってしまう。スッと瀬戸から携帯電話をとる土井さん。ぼんやりと土井さんを見た。

「ディサービス利用しとる土井です。今、うちの玄関で相談員の瀬戸さんがケガしとる。救急車は呼ばんくていい、と言っとる。どうすりゃいいか分からん。直ぐ来られるか?」

零れる涙を拭くことが出来ず、電話で会話する土井さんの動きに見入っていた。頭が痛くて何を話しているのか全く分からなかった。


しばらくするとガチャン! と激しく玄関のドアが開く。外の光がまぶしい。治まっていた眩暈が出る。たまらずに目をぎゅっと閉じる。

「瀬戸さん! おい! 意識あるか!?」

支えてくれる逞しい腕に、声に安堵して涙が流れる。来てくれた。

「う、ん。だい、じょうぶ。すごく、痛い……」
「救急車呼ぼう」

「ダメ。土井さん、が、ココに、住めなくなる……」

「バカだな、バカ! 自分を大事にしろよ。瀬戸さん、転んだことにすればいいから。土井さんも、俺も、皆で口裏合わせればいい。額も切れているし、救急車呼ぶよ。施設にも連絡するから」

堀田さんの声に、姿に、心が安らぐ。その身体にしがみ付く。「ちょっと、瀬戸さん」そんな声が聞こえる。

堀田さんが来てくれた安堵感で瀬戸の中で一気に何かが溢れる。うぅ、と声を上げて泣いた。少しも離れたくなくて、この安心する厚い優しい身体に抱きついていたくて涙が止まらない。

そんな全てを受け止めるかのように、堀田さんが大きな手で抱きしめてくれる。

「頑張ったな。よしよし」
落ち着いた声が心に染みこむ。

(そうだ。もう、大丈夫)
包み込まれる安心感に徐々に意識を手放す。正直に言うと、頭の痛みがけっこうキツかった。

堀田さんが居れば、大丈夫だ。ぼやける意識の中で堀田さんと土井さんが話をしている声が聞こえた。

「ワシは、もう死んでいいから、放っておいて欲しいだけなんだ」

そんな土井さんの声が耳に残った。
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