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【 花の章 】―壱―
164 ―山南敬助―
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琴月君が障子を開ければ、格子の向こうに明里の顔が見えた。
旅に出ると伝えた彼女の顔は今にも泣き出しそうで、全てを知ったも同然だった。
そんな顔をさせたくなかったからこそ、真実は伏せ、別れだけを告げたというのに。
このまま障子を閉めてしまおうと、部屋を出て行く琴月君を見送り格子窓の側で膝をつく。
離れた場所に永倉君の姿を認めれば、余計なことをしてくれた、と怒りすら込み上げた。が、こうして明里を前にしては、全て無意味な感情だと悟った。
自分から突き放しておきながら、最後に会えた事を嬉しいと思っているのだから。
駆けつけて来たのかやや乱れた髪も、着物も、いつもより白いその肌も……平穏を保っていたはずの心を掻き乱す。
そうさせているのが自分なのだと思えば、尚更美しく見える。
明里が両手で格子を掴み、震える声を絞り出した。
「何が旅に出る、なん……。何が幸せになれ、なん……。敬助はんの嘘つき……」
そんないじらしい訴えにさえ、私は穏やかな表情とともに短い言葉を取り繕う。
「すまない」
「何でなん……。お願いやさかい、うちと一緒に逃げておくれやす」
それでも首を横に振ってみせれば、明里は僅かに取り乱し叫ぶように言った。
「せやったら、うちも一緒に――」
「明里っ!」
ビクリと肩を震わせるも、その表情にはいまだ強い覚悟が見て取れる。その覚悟を正しく導いてやるのは私の務めだろう。
こうしてその機会をくれた永倉君には、感謝しなければならないかな。
明里の両手に自分の手をそれぞれ重ね、その目を真っ直ぐに見た。
「明里、良く聞いて。間違っても私のあとを追ってはいけないよ。君は、生きて幸せになるんだ」
「勝手なこと言わんといて! うちを幸せにできるんは敬助はんだけやのに」
「私もだよ」
明里の瞳に微かな期待が灯った。が、気づかぬふりで格子の隙間から右手を伸ばせば、白いその頬に触れた途端、堪えていたであろう涙が堰を切ったように溢れ出た。
指の腹で拭ってやるも、ゆっくりと首を左右に振ってみせるのだから止まることはない。
とうとう明里は俯いた。
いっそ激しく嫌われてしまえば、こんな涙を流させずに済んだだろう。
それなのに。
君の心を繋ぎ止めておきたいと、渦巻く欲に流される私は狡いだろう?
明里のためのようで自分のため……。
君を縛り付けるかもしれない、酷で身勝手な言葉を紡ぐ。
「……待っているよ。たくさんの幸福を得た君の話を心待ちにしながら、向こうで待っている。ただし、すぐに来ても私は君を追い返してしまうよ。だからね、明里。ゆっくりおいで」
いつか来るその日まで。
「今は、私の分も精一杯生きるんだ」
悠久にも思える沈黙。足元から伸びる長い影を作る西日が、白い頬に血色を戻す。
再び涙を拭ってやれば、明里は俯いたまま両手を格子から外し、愛おしそうに私の手を包む。
先程とは違う覚悟を宿した声が、はっきりと聞こえた。
「……ほんまに? ほんまに待っとってくれるん?」
「勿論さ」
「ゆーっくりしとったら、うち、しわしわのお婆ちゃんになってまうで?」
「ああ。それでも明里に変わりはないだろう?」
ようやく顔を上げた明里は、涙を流すも必死に笑顔を作ろうとしている。
そんな明里を、誰よりも美しいと思う。
私の我儘だと言われても、最後はこの笑顔のまま……。
「明里。今から五つ数えたらこの障子を閉める。だから、それまでに行くんだ。ここを離れたら決して振り向かないこと。いいかい?」
「いやや言うてもするんやろう? 閉まった障子なんて見とうない……せやからうちは振り向かへん。これから敬助はんのために、お土産話を探しにいかなあかんのやろう?」
ああ、と微笑えめば、明里の美しい笑みが返ってくる。
互いの覚悟を後押しするように、明里を解放して障子に手をかけた。
「一つ」
悲しげに瞳を揺らした君は。
「二つ」
一度だけ口を引き結んだ後。
「三つ」
行ってきます、と微笑んで。
「四つ」
頷いてやればゆるりと反転。
「五つ」
顔を上げ一歩を踏み出した。
六つ。
私は障子に手をかけたまま。
七つ。
遠のく姿を見つめていれば。
八つ。
いけず……と呟くは明里か。
九つ。
部屋の外から聞こえた声に。
十。
苦笑を零して障子を閉めた。
屯所を出た時、もしも誰かに会っていたら、声をかけられていたら、再び部屋へ戻り書き置きも破り捨てていたかもしれない。
そうしたら、また違った道を歩いていたのかもしれない。
けれどあの日は、大津まで誰にも会わなかったんだ。
目の前に置かれた三方の上には、柄を外し紙に巻かれた短刀が一つ。
前方に居並ぶは幹部たち。唯一、総司だけが背後に立つ。
諸肌を脱ぎ、僅かに後ろを振り向いた。
「総司。私が声をかけるまではそのままで」
静かに頷いたのを確認ししばし目を閉じれば、ふと、琴月君の明るい笑顔が浮かんだ。
ここからずっと先の、泰平の世から時を超えて来たという彼女の目に、果たして今の世は、新選組はどう映っているのだろうか。
ゆっくりと目を開け近藤さんの、歳の、そして皆の顔を見渡してから、視線を落とし短刀へと手を伸ばす。
全ては川の流れのように、止まらず、留まらず。
世も、人も、時も、常に移ろい変わりゆく。
大きな川であればあるほど流れを変えるには至らず、むしろ飲み込まれることもあるだろう。
しっかりと握った刃を己に向け、刃先を腹にあてがった。
時代が大きく動こうとしている今、まさに、私たちは大きな川の流れの中にいるようなもの。
その中で新選組は、己で流れを作るか身を任せるか、はたまた抗うのか。
見届けられないのは少し寂しくもあるけれど。
全身に力を込め、一思いに突き立てた。
歯を食いしばり、真一文字に右へ引く。
側に立つ総司に声をかければ、幾度となく聞いた刃鳴りが響いた――
例えばいつか沈みゆく時が来たとして、川に投じた一石の如き君の存在は、希望と成り得るのかもしれない。
君は悔しそうに何度も謝っていたけれど、私の心は今もなお、こうして穏やかでいられるのだから。
だってね……。
――真っ直ぐで強い君の心とその笑顔は、みんなを暖かく照らすことができる。だからね、春。君は笑っていて――
旅に出ると伝えた彼女の顔は今にも泣き出しそうで、全てを知ったも同然だった。
そんな顔をさせたくなかったからこそ、真実は伏せ、別れだけを告げたというのに。
このまま障子を閉めてしまおうと、部屋を出て行く琴月君を見送り格子窓の側で膝をつく。
離れた場所に永倉君の姿を認めれば、余計なことをしてくれた、と怒りすら込み上げた。が、こうして明里を前にしては、全て無意味な感情だと悟った。
自分から突き放しておきながら、最後に会えた事を嬉しいと思っているのだから。
駆けつけて来たのかやや乱れた髪も、着物も、いつもより白いその肌も……平穏を保っていたはずの心を掻き乱す。
そうさせているのが自分なのだと思えば、尚更美しく見える。
明里が両手で格子を掴み、震える声を絞り出した。
「何が旅に出る、なん……。何が幸せになれ、なん……。敬助はんの嘘つき……」
そんないじらしい訴えにさえ、私は穏やかな表情とともに短い言葉を取り繕う。
「すまない」
「何でなん……。お願いやさかい、うちと一緒に逃げておくれやす」
それでも首を横に振ってみせれば、明里は僅かに取り乱し叫ぶように言った。
「せやったら、うちも一緒に――」
「明里っ!」
ビクリと肩を震わせるも、その表情にはいまだ強い覚悟が見て取れる。その覚悟を正しく導いてやるのは私の務めだろう。
こうしてその機会をくれた永倉君には、感謝しなければならないかな。
明里の両手に自分の手をそれぞれ重ね、その目を真っ直ぐに見た。
「明里、良く聞いて。間違っても私のあとを追ってはいけないよ。君は、生きて幸せになるんだ」
「勝手なこと言わんといて! うちを幸せにできるんは敬助はんだけやのに」
「私もだよ」
明里の瞳に微かな期待が灯った。が、気づかぬふりで格子の隙間から右手を伸ばせば、白いその頬に触れた途端、堪えていたであろう涙が堰を切ったように溢れ出た。
指の腹で拭ってやるも、ゆっくりと首を左右に振ってみせるのだから止まることはない。
とうとう明里は俯いた。
いっそ激しく嫌われてしまえば、こんな涙を流させずに済んだだろう。
それなのに。
君の心を繋ぎ止めておきたいと、渦巻く欲に流される私は狡いだろう?
明里のためのようで自分のため……。
君を縛り付けるかもしれない、酷で身勝手な言葉を紡ぐ。
「……待っているよ。たくさんの幸福を得た君の話を心待ちにしながら、向こうで待っている。ただし、すぐに来ても私は君を追い返してしまうよ。だからね、明里。ゆっくりおいで」
いつか来るその日まで。
「今は、私の分も精一杯生きるんだ」
悠久にも思える沈黙。足元から伸びる長い影を作る西日が、白い頬に血色を戻す。
再び涙を拭ってやれば、明里は俯いたまま両手を格子から外し、愛おしそうに私の手を包む。
先程とは違う覚悟を宿した声が、はっきりと聞こえた。
「……ほんまに? ほんまに待っとってくれるん?」
「勿論さ」
「ゆーっくりしとったら、うち、しわしわのお婆ちゃんになってまうで?」
「ああ。それでも明里に変わりはないだろう?」
ようやく顔を上げた明里は、涙を流すも必死に笑顔を作ろうとしている。
そんな明里を、誰よりも美しいと思う。
私の我儘だと言われても、最後はこの笑顔のまま……。
「明里。今から五つ数えたらこの障子を閉める。だから、それまでに行くんだ。ここを離れたら決して振り向かないこと。いいかい?」
「いやや言うてもするんやろう? 閉まった障子なんて見とうない……せやからうちは振り向かへん。これから敬助はんのために、お土産話を探しにいかなあかんのやろう?」
ああ、と微笑えめば、明里の美しい笑みが返ってくる。
互いの覚悟を後押しするように、明里を解放して障子に手をかけた。
「一つ」
悲しげに瞳を揺らした君は。
「二つ」
一度だけ口を引き結んだ後。
「三つ」
行ってきます、と微笑んで。
「四つ」
頷いてやればゆるりと反転。
「五つ」
顔を上げ一歩を踏み出した。
六つ。
私は障子に手をかけたまま。
七つ。
遠のく姿を見つめていれば。
八つ。
いけず……と呟くは明里か。
九つ。
部屋の外から聞こえた声に。
十。
苦笑を零して障子を閉めた。
屯所を出た時、もしも誰かに会っていたら、声をかけられていたら、再び部屋へ戻り書き置きも破り捨てていたかもしれない。
そうしたら、また違った道を歩いていたのかもしれない。
けれどあの日は、大津まで誰にも会わなかったんだ。
目の前に置かれた三方の上には、柄を外し紙に巻かれた短刀が一つ。
前方に居並ぶは幹部たち。唯一、総司だけが背後に立つ。
諸肌を脱ぎ、僅かに後ろを振り向いた。
「総司。私が声をかけるまではそのままで」
静かに頷いたのを確認ししばし目を閉じれば、ふと、琴月君の明るい笑顔が浮かんだ。
ここからずっと先の、泰平の世から時を超えて来たという彼女の目に、果たして今の世は、新選組はどう映っているのだろうか。
ゆっくりと目を開け近藤さんの、歳の、そして皆の顔を見渡してから、視線を落とし短刀へと手を伸ばす。
全ては川の流れのように、止まらず、留まらず。
世も、人も、時も、常に移ろい変わりゆく。
大きな川であればあるほど流れを変えるには至らず、むしろ飲み込まれることもあるだろう。
しっかりと握った刃を己に向け、刃先を腹にあてがった。
時代が大きく動こうとしている今、まさに、私たちは大きな川の流れの中にいるようなもの。
その中で新選組は、己で流れを作るか身を任せるか、はたまた抗うのか。
見届けられないのは少し寂しくもあるけれど。
全身に力を込め、一思いに突き立てた。
歯を食いしばり、真一文字に右へ引く。
側に立つ総司に声をかければ、幾度となく聞いた刃鳴りが響いた――
例えばいつか沈みゆく時が来たとして、川に投じた一石の如き君の存在は、希望と成り得るのかもしれない。
君は悔しそうに何度も謝っていたけれど、私の心は今もなお、こうして穏やかでいられるのだから。
だってね……。
――真っ直ぐで強い君の心とその笑顔は、みんなを暖かく照らすことができる。だからね、春。君は笑っていて――
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