彼方

岡倉弘毅

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結婚

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 享は床に膝をつくと、荒い息を吐いた。

「さっさと身嗜みを整えて、ついて来い」

「どこへ……」

「私の家だ。まさか、断りはすまいな」
 
 ついてくるのが当然とばかりの田辺の態度が、享には気に入らなかった。

「先生のしたことを、学校長に僕が言ったら……」

 言えようはずもないけれど、俯いたまま心の中で震えながら抵抗を試みる。

「好きにすれば良い。勿論、加賀谷のしたことも、言うんだろうな」

 享は黙り込むしかなかった。今田辺を怒らせたならば、加賀谷の立場まで悪くなってしまう。

 男女七歳にして席を同じゅうせず。小学校に上がれば男は男、女は女だけの生活が始まる。異性との関りは結婚までお預けだ。

 しかし、思春期の少年の心に、体に我慢を強いることなどできようはずもなく、恋の、あるいは欲望の相手は身近な同性へと向く。享のように中性的な少年を、恋の真似事の相手にするのが中学、高校では当たり前になり、問題となっていた。

 生徒同士の恋愛ごっこでさえ問題になるのだ。教師が生徒に手を出したなどと知られようものなら、加賀谷の将来は断たれてしまう。

(守らなければ……先生を僕が……)
 
「加賀谷の言葉を本気にするしないはお前の勝手だが」

 含みのある言葉に、享は顔を上げた。

「加賀谷とある資産家の令嬢との縁談が進められている」

 田辺はおかしそうにクスリと笑った。


 高等学校から歩いて二十分ほどで、田辺の住む一軒家に辿り着いた。小さいけれど一人暮らしであれば十分な広さだ。

(僕を騙そうとしているに違いない)

 心の中で繰り返す、呪文のように。

 享は自覚していた。本当は疑っているのだと。だからこそついて来たのだ。もっと詳しく知りたくて。田辺の策に嵌ってしまったのもわかっていたが、逃げることはできなかった。

 普段からネッカチーフを結んだり、背広のポッケットから手巾ハンケチを覗かせたりと気障な男だが、やはりと言うべきか、家の中も田辺らしかった。

 畳の上に絨毯を敷いてその上に肘掛けのついた一人掛けの椅子が二脚。客人は常にあるのだろうか?

「座れ」

 背広を衣文掛けに吊るすと、自らも椅子に腰かけ、長い足を組んだ。

「加賀谷の言葉を本気にしているのか? あの男が男色かどうかなどは知らぬが、我々の世代ならば、中学高校で男色の洗礼を受けているものだ。明治の中頃は、男が男を愛することこそ高尚なのだとの考えが色濃くあった。

 私達の高校時代には薄れてはいたがそれでも、密かに契りを結ぶのはさほど珍しい事でもなかったよ。
 
 男色の気があろうとなかろうと、あの頃知った味を忘れられぬこともあろうし、縁談の邪魔をされないように、女を避けて男に手を出す奴もいる」

 田辺は口元だけで笑うと、立ち上がった。

「加賀谷は仏蘭西留学を切望しているらしいから、新婚生活は仏蘭西で送るかもしれんな」

 聞いたことがあった。一月でも良いから、仏蘭西で生活してみたい。仏蘭西人と芸術について語り合いたいものだ。と。

 莫大な費用がかかることを考えれば、一番現実的なのは国費留学だろうが、いかな優秀な教師とて、簡単なことではない。

「お前は一人暮らしをしているのだったな」
 
 享は頷いた。享が高等学校に進学すると同時に、両親は父親の実家の家業を継ぐために東京を離れた。今は気楽に一人、下宿住まいを楽しんでいた。

「寂しくはないか?」

 享の背後から、詰襟を寛げるかのように勝手に釦を外し始める。時折触れる冷たい指先が気持ち良い。

「別に……」

 そうか。と、優し気な声。指先は胸を彷徨っている。シャツの上から微かに感じる指先。
 
 加賀谷への疑いを消したくて、何も考えたくなくて、享はゆっくりと目を閉じた……。
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